竜の花嫁
「おはようございます、お義父様、お母様」
義父であるカレンベルク伯爵に呼ばれたアメリアは、行き先が伯爵の執務室ではなく居間であったことにちょっと驚いた。用があるときはたいてい執務室へ呼びつけて、アメリアを立たせたまま命令するかのように伝えるのが普通だったから。
入室すると、珍しいことに母も同席していた。これにも驚いたけれど、そのようなことはおくびにも出さず、いつもの通りに挨拶をした。
「座りなさい」
カレンベルク伯爵は野心家として知られ、目的のためならば手段は選ばない。必要とあらばお世辞も振りまくし、陰湿な噂で陥れることも厭わない。飴と鞭を使い分けて領地から巧みに税を取り立て、王宮の各所への贈り物も欠かしたことがない。
「出世欲の権化」。アメリアは義父のことを、ひそかにそう呼んでいた。
その伯爵が、珍しくアメリアに笑顔を向けている。今までで最も上機嫌の部類と言って良い。
――これはもしかして……ついに、かしら?
アメリアは内心身構えた。義父のカレンベルク伯爵とは血の繋がりはないとは言え、アメリアは戸籍上、正式なカレンベルク伯爵令嬢だ。今年で十八歳、そろそろ結婚の話を出されても不思議はない。
「畏れ多くも陛下直々に、我がカレンベルク伯爵家にとって、非常に名誉なお話をいただいた」
「はい、お義父様」
アメリアの予感は確信に変わる。これは縁談に間違いない。
――この上機嫌はただ事じゃないわ。そうとうな見返りがあるのだわ。
この人が義父である以上、アメリアは完全に政略結婚の駒にされると分かっていた。相手が老人だろうが変態だろうが、アメリアの幸せなど問題外。すべては伯爵の益になるかどうかで決まるだろう、と。
それは避けられない運命であり、自分ばかりがそうだというわけでもない。貴族の娘なら普通のことだ。そう思って、早くから覚悟して、自分にできる心構えをしてきたつもりだった。
しかし義父の言葉は、アメリアの予想を超えていた。
「アメリア、お前は『竜の花嫁』に選ばれた」
「……!」
――竜の、花嫁。まさか、そんな……。
たとえ誰と結婚しろと言われても、受け入れるつもりだった。それなのに……。さすがのアメリアも真っ青になり、言葉が出ない。
横で母親が、口元を押さえて嗚咽をこらえ、はらはらと涙を流している。それでも昔から、この義父に口答えなどただのひとつもしたことがない母だ。アメリアのために何か言ってくれることはない。
アメリアはきつく目を閉じ、叫びたいのを堪える。ようやく口から出た言葉は、いっそ優しいほどに穏やかだった。
「……もう、決まったことなのですね?」
伯爵はアメリアの反応など、気にもとめない。
「そうだ。来月の春の祭までに、準備を整えておくように」
「……かしこまりました、お義父様」
アメリアは立ち上がり、そのまま振り返らずに部屋を出た。
『竜の花嫁』。
王宮内では、そんな聞こえの良い言い方をされているが、巷では誰もそのように言う者はない。
公にされてはいないことだが、誰でも知っていることだ。
この国のどこかに竜がいる。『竜の花嫁』とは、つまり生贄のことなのだ。
建国一千年を越える歴史を持つ、バルシュミット王国。
一千年前ともなれば未だ神話の世界との境界が曖昧で、魔物やら妖精やら竜やら、今は伝説の中にしかいない存在に出会うことも、しばしばあったと伝えられている。そしてそのころの人間の世界はまだまだ弱く不安定だった。小さな新しい国が、泡のように次々と立ち上がっては消えていった。
そんな中で若くしてバルシュミット王国を興し、初代の王を名乗ったゲオルグは、周囲の国を恐れる必要のない大国たらんと強く欲した。そのために自らの妹を竜に差し出し、国の加護を願ったという。
やがてゲオルグは妻を娶り、身籠った王妃は月満ちて王子レオンを産んだ。長じた王子は鬼神のような強さを備え、周囲の国を次々に滅ぼしては飲み込んだ。
ゲオルグの望み通り、バルシュミット王国は周囲を圧倒する強大な国として発展を遂げた。そして現在も、比類なき強国として君臨し続けている。
その栄光の影で、隠し通された黒い歴史と悪しき風習も持ち続けてきたのだった。
すなわちそれが「竜の花嫁」だ。建国史からも詳細は削除され、王家が厳重に秘匿している。王国の神話に建国のエピソードが残るだけだ。
だから民には一切真実が伝えられていない。口に出すのも憚られ、それでもいつしか噂は広まってゆく。とはいえ、知られているのはこれだけだ。
王国のどこかに『竜』が住む城がある。その竜が成年を迎えると、王様は王家の血を引く娘を『生贄』として捧げなくてはならない――。
「お嬢様?」
ぼんやりと考えに耽っていたアメリアは、侍女の声にはっと我に返った。湯気のたつ盆を持って、侍女のラウラが心配そうに首を傾げている。
「ああ、ちょっと考え事をしていたの」
ラウラはほっとしたように微笑んで、テーブルに茶器を並べて紅茶を淹れ始めた。
「それならようございました。――さあ、お茶をどうぞ」
頷いて、アメリアは花の香りがついた紅茶に口をつける。伯爵令嬢ながら、自分からはほとんど食べ物や身に付けるものに注文を付けないアメリアの、これだけは唯一の贅沢だった。
「旦那様に、何か叱られなさったのですか?」
ラウラが顔をのぞきこむようにして尋ねた。
普通、きちんと教育された侍女であれば、このような不躾なことは聞かない。アメリアにつけられた侍女のラウラは、王都の町から奉公にきた、気がいいだけの娘だった。
「ううん、別に大したことじゃなかったわ」
無理に微笑んでみせると、ラウラは安心して出て行った。
扉が閉まる音を聞くと、アメリアはカップを置いた。
――まさか、竜の花嫁になるなんて。
輝かしい歴史を誇るバルシュミット王国の、王家にのみ伝わる影の部分がこれであった。何十年かに一度、王家の血を引く娘が「花嫁」として王都から消えている。これについては当人も家人も世間に漏らすことはなく、ただ「竜の花嫁になった」ことだけが伝えられてきたようだ。
この奇妙な言い伝えは王国の子どもたちが一度は興味を覚えることでもあるが、同時にそれについて騒ぐことは親達によって厳しく戒められる。そのせいで触れてはならぬ闇はますます深くなるのだが、禁忌とはそういうものなのだろう。
昔アメリアも子どもじみた興味から、重い「バルシュミット王国建国史」をひもといてみたことがある。
だが建国史には「初代ゲオルグは竜の加護を得て国を興した」と記録されているだけで、竜に関する記述はそれだけだった。いわゆる「竜の花嫁」という慣習についても、何も記されていない。
王宮の書庫にでも入らせてもらえれば、きっとたくさんの資料があるのだろう。しかしもちろん、官吏でも学者でもないアメリアが入れる筈もない。
「竜が成年を迎えると、王家の血を引く娘を『生贄』として捧げる……か」
知られているのはこれだけだ。
――本当に、この世に竜がいるのかしら。
真実も分からないまま「選ばれた」などと言われても、現実感がない。
それより今のアメリアには、どうにも静めることの出来ない気持ちがあった。
紅茶のカップを置き、アメリアはため息をつく。たったひとつの贅沢だというのに、今日の紅茶はまったく味わうことができそうにない。
「――何が『王家の血』よ。とんだ大安売りもあったもんだわ」
アメリアの口から、貴族の令嬢らしからぬ言葉が飛び出した。
アメリアの瞳は非常に明るい黄緑色だ。光の加減によってはほぼ金色に見える、それは王家の血を引く者にだけ出る独特の色。この色が明るければ明るいほど、王家の特徴を強く受け継いでいると言えた。
アメリアと義父カレンベルク伯爵の間には、血のつながりはない。
母のエリーゼは若いころ、貴族の娘の行儀見習いの目的で侍女として王宮へ出た。そこで先王の手がついて愛妾となり、アメリアを産んだ。
そして娘を産んだ後、エリーゼはアメリアごとカレンベルク伯爵に下賜されたのだ。伯爵も喜んで受けたとは聞いているが、かなりの養育料と王宮での地位を約束されれば、義父のような男なら誰とでも結婚しただろう。
愛妾の子とはいえ、先王の血を引く娘だ。本来ならばもっと厚遇されても良さそうなものだが、この国ではそうではない。現在のこの国では、その瞳も別段珍しくはないからだ。なにしろ宮廷には、アメリアのような――先王の息子や娘がごろごろいる。王家の血を引くぐらいでは、ありがたがる者などなかった。
カレンベルク伯爵は、アメリアに伯爵令嬢として恥ずかしくない、何不自由ない生活をさせてくれた。もちろんそれには感謝している。だが父親らしい愛情をかけられたことは一度もなかったし、下賜された妻にも、伯爵は笑顔など見せたことなどない。
それでも夫妻の間には、弟のハインリヒが生まれている。だが伯爵は実の息子に対しても、跡取りとして教育には力を入れているが、さほど愛情を示したことはない。
その義父に対して、母は完全に言いなりで、逆らったところなど見たことがない。昔からそういう人なのだろう。常に伯爵の顔色を伺ってビクビクしていて、実の娘であるアメリアに対しても、それほど深く関わろうとしなかった。
そんな二人を見て育ったアメリアは、とっくの昔に愛だの恋だのを夢見ることなどなくなっていた。
例え誰かと結婚しても、どうせ政略結婚なのだ。愛情を育むなどということはきっと無理に決まっている。それだったら初めから、何も期待しない方が良い。
そう思って、未来に余計な期待などしないよう、自分に言い聞かせてきたアメリアだった。
伯爵にはもともと何の期待もないから、何とも思わない。だがさすがに、エリーゼは産みの母なのだ。母親が何一つかばってくれなかったことが心に堪えた。自分の身のことよりも、そのほうが辛い。
涙を流してはいたけれど、義父に抗議はもちろん、アメリアに言葉をかけてくれることもなかった。
どうせもう「夫が言うのだから仕方がない」と、諦めてしまっているに違いないのだ。
――何か一言くらい、言ってくれてもいいのに。
ちょっとでも期待してしまった、自分が馬鹿なのだろうか。娘が生贄になろうというのに、ただ黙って涙を流すだけの母親。それが普通なのかしら……?
「お母様のばか」
こらえきれず、アメリアはテーブルに顔を伏せる。肩が震え、紅茶のカップに涙がぽたりと落ちた。