陽射しの下で
季節はさらに移り、「竜の城」は短い夏を迎えていた。
「ヴィル様、重かったでしょう?」
「このくらい何でもない。でも喉が渇いたな、アメリア」
「ちょっとお待ちくださいね」
草の上に敷布を広げ、ヴィルフリートの提げてきた籠のなかから水差しを出し、グラスに注いで手渡す。
「ありがとう、アメリア。君は?」
「いいえ、私は後でいただきます」
あの見晴らしの良い崖の上は、二人のお気に入りの場所だった。暖かくなってからは、天気の良い日にはこうしてお茶や軽食を持ってきて過ごすことも多くなっている。
春先には土の色が多く見られた眼下は、いまや見渡す限り緑に覆われている。名は知らないが草原には花が咲き乱れ、赤や黄色に染まっているところも見えた。
「綺麗ですねえ、ヴィル様」
「風が気持ちいいな」
「はい」
山の中腹に建てられた「竜の城」でも、さすがに今日は陽射しが強い。それでも夏とはいえ風は爽やかだ。こうしていても汗ばむほどではない。
二人はしばらく無言で、数日前よりまた眩しく鮮やかになった風景を眺めていた。遠くに湖面が光を映してきらきらと輝いている。後ろの森からは鳥のさえずりも聞こえ、アメリアは空を見上げて深く息を吸い込んだ。
崖の下から吹き上げる風が、アメリアの帽子をふわりと浮かせた。さっと受け止めたヴィルフリートが、そっとかぶせてやると、アメリアはふんわり微笑んだ。
「ありがとう、ヴィル様」
ヴィルフリートは敷き布に寝転び、空を眺めた。
こんなふうにゆったりした気持ちで過ごせる日がくるとは、思ってもいなかった。アメリアが横にいるのといないのとでは、毎日がぜんぜん違う。
彼は隣に座るアメリアの背中に、ちらりと視線を向けた。
「竜の末裔」として生を受けた以上、自分はこの館で一生を送るしかない。アメリアは知らないことだが、もしも番に出会えなければ、竜は本来の寿命を全う出来ないらしい。それでも例え短くとも、残りの時間をあのまま一人で過ごしていたらと思うとぞっとする。アメリアの暖かい肌と甘い香りを知ってしまった今となっては、なおさらだ。
しかし……、とヴィルフリートは思う。番を得た竜は、普通の人間よりも数十年、長く生きることができる。それは当然、アメリアが遥かに先に逝くということで……。
――そのときが来たら、自分は耐えられるのだろうか。
ヴィルフリートは頭を振った。今から心配することではない。それまでにはまだ、長い長い時間を共に過ごすはずだ。それでも、諦めていた幸せを手にしたぶん、失うことが怖かった。
「アメリア」
ヴィルフリートは起き上がり、アメリアの肩を掴んだ。
「きゃっ」
急に引っぱられて驚いたものの、アメリアは楽しそうに笑ってヴィルフリートの腕を枕に寄り添った。そのまま空を仰ぐ。アメリアは日々生き生きと、明るく振る舞うようになっていた。
「わあ……、気持ちいい。ヴィル様、空に浮かんでいるみたいです」
いつだか閨で舌足らずに「ヴィル様」と呼ばれたのが気に入った。それ以来、はにかみながらもそう呼んでくれている。それに伴って、ほんの少しずつだが打ち解けた言葉遣いになっているのも嬉しかった。
少し眩しそうに空を見上げるアメリアの瞳に、青空に浮かぶ雲が映っている。
ぼんやりと横顔を眺めていたヴィルフリートは、急に身体を廻してアメリアに覆いかぶさった。
「ヴィル様……?」
「雲に嫉妬したなんて言ったら、君は笑うだろうな」
首を傾げるアメリアを見て、ヴィルフリートは苦笑した。アメリアの瞳に映るのは、雲ではなく自分でありたいだなんて……。全く、どうかしている。
「アメリア……」
ヴィルフリートは唇を寄せた。愛しい人の瞳に映っているのは、自分だけだ。
小さく戯れるように口づけては離す。ときおり顔を上げて微笑み、見つめ合い、どちらからともなくまた唇を寄せ……。陽射しの下で、ただお互いだけを感じている。これが「番」というものなのか。
――暖かくて、幸せで……、溶けてしまいそう。
潤んだ視界にアメリアが見たのは、せつなげに眉を寄せたヴィルフリート。金の髪が陽に透けて、輝いて見える。
――綺麗、ヴィル様。
そんな事を思ったのもほんのわずかの間。
しゅっと胸元のリボンを解かれ、アメリアは慌てた。
「え、ヴィル様。待って、まさか……!」
「済まない、アメリア。私は本当に重症だ。君が愛しくてたまらない――」
爽やかな風が、露わになった肌をなぶる。優しい春の日差しが、愛し合う二人に降り注いでいた。
「もう、ヴィル様のばか」
どれくらい経ったのか。我に返ったアメリアは、身体を丸めてヴィルフリートに背を向けていた。乱れたドレスを掻き寄せて身体を隠したけれど、白い首筋と背中は剥き出しのままだ。ヴィルフリートはその背を優しく撫でている。
「悪かった、アメリア。君があまり可愛いから……」
「いや、こんなところで。ヴィル様なんて嫌い」
確かに、やり過ぎた。駄々っ子のように首を振るアメリアの背が、羞恥で赤く染まっている。ヴィルフリートは肩にそっと口づけた。
「それは困った。私はこんなに好きなのに」
ヴィルフリートが抱き寄せると、アメリアはいっそう身体を丸めた。囁くその声は、蕩けるように甘い。
「や、もうだめですっ!」
「どうして?」
「どうして、って……!」
真っ赤な顔を覗き込まれ、アメリアは泣きたくなった。また激しく鳴りだした胸の音が、ヴィルフリートに聞こえてしまうかもしれない。
「本当に私が嫌いか?」
「ああ……もう、ヴィル様……」
「ん?」
明るい太陽の下であられもない姿で……。ことの済んだ後だからこそ、よけい恥ずかしくて死にそうだというのに、ヴィルフリートはどうしてこんなにも平気なのか。
「アメリア?」
「……恥ずかしかっただけ、です」
「悪かった。……なら私を嫌いになっていないね?」
アメリアは俯いて、ヴィルフリートから目を逸らす。嫌いになんかなれる筈がない。ただ、最近のヴィルフリートはいやに艶めかしくて眩しくて、そばにいるとドキドキしてしまうのだ。
それは自分も、以前よりもっと惹かれているということなのか。もしもこれ以上好きになったら、どうにかなってしまうかもしれない。
「……嫌いになんか、なりません」
それどころか。きっと、もっと好きになる。それが「番」だからというなら、それでも構わない。
「ヴィル様、好き……」
囁くような声を、ヴィルフリートの耳はしっかりとらえた。向きなおらせたアメリアにもう一度口づけ、抱き寄せる。
まだもうしばらく、陽射しは暖かい。二人は長い間そのままでいた。
山では秋の訪れが早い。朝夕少しずつ涼しさを増し、早咲きの秋の花がぽつぽつと咲き始めた。見上げる空も日々高く、澄んでくる。
ある日、お茶を飲んでいる二人のもとに、家令のエクムントがやって来た。
「ギュンター子爵様から、お手紙です。今年はこちらへの訪問を見送られるとのことです」
ギュンター子爵は、もともと年に二度、春と秋にこの館を訪れることになっていた。
「どうもですな、王都でひどく悪い病が流行っているそうで。必要な物やお言伝があれば、今日の使いに申し付けてほしいと」
子爵はアメリアの件だけでなく、「竜の館」に関わる一切を任されている。花嫁に関わること以外にも、館の近くで手に入らないもの(主に本の入手)の依頼や、王宮から支給される金の運び役も兼ねていた。
ヴィルフリートはすぐに頷いた。
「エクムントのほうで問題がなければ、私は構わない。そのような時に、無理に子爵に来てもらうこともないだろう」
頷いたエクムントはアメリアにも尋ねた。
「奥様のほうはいかがですかな」
初めのうちは胡散臭そうにアメリアを見ていたエクムントだったが、ヴィルフリートとの仲睦まじい様子に次第に態度が柔らかくなった。最近は笑顔で「奥様」と呼んでくれている。
「私ですか? 特に必要なものは……」
そう言いかけて、ふと思いついたことがある。この辺りは雪が多く、冬の間はほとんど邸内で過ごすと聞いた。
「ヴィル様、こちらは冬の間、外へ出られないのですよね?」
「ああ。だから欲しいものがあれば、頼んでおいたほうがいい」
「でしたら……」
アメリアが願ったのは、裁縫道具一式と布だった。当然エクムントやヴィルフリートに詳細が分かるはずもなく、レオノーラが呼ばれる。
「贅沢な生地ではなく、私が普段身につけられるものでいいですから。冬の間、時間があるのなら、と思って。お願いしてもいいかしら?」
「それはもちろん大丈夫ですが……」
レオノーラは驚きを隠せなかった。貴族のなかには刺繍をたしなむ娘はいるが、仕立てが出来る令嬢なんて聞いたこともない。
アメリアは恥ずかしそうに説明した。
「幼いころの、無謀な考えだったのです」
義父の思い通りに嫁がされることを愁い、密かに自立を目指していた。いつかは義父や政略結婚の夫の手から逃れ、思うままに生きてみたいと、そう願っていた。
まさか「竜の花嫁」になってヴィルフリートに巡り合うなんて、思いもしなかったから。
「不思議……。初めて『竜の花嫁』としてこちらへ行くよう言われたとき、何も知らなかった私は絶望したんです。それが……」
ヴィルフリートを見上げて微笑むアメリアに、その場の空気が暖かくなる。主夫婦が深く愛し合っていることは、今や館の誰の目にも明らかだった。
「他に届けてもらうものがあるなら、一緒にお願いします。私だけのために来ていただく必要はありません」
「もちろん、大丈夫ですとも。毎回王宮から決まって届けられる品がありますし。それにしてもアメリア様……」
しんみりしかかったレオノーラを、ヴィルフリートが止めた。
「……ならばアメリア、私の服を作ってもらえないか?」
期待に目を輝かせているヴィルフリートに、アメリアは申し訳なさそうに言った。
「すみません、ヴィル様……。私、男性の服は仕立てられないのです」
「そうか……」
可哀想なくらい萎れたヴィルフリートを、アメリアはどう慰めてよいか分からずおろおろしている。
もうこの二人に心配することはない。レオノーラはそっとエクムントと顔を見合わせ、微笑んで頷いた。




