竜のしるし
レオノーラが出て行ってから、アメリアは長い間考え込んでいた。せっかくの紅茶が冷めてしまったことにも気づかない。
――ヴィルフリート様は、優しい方だった。
どんな恐ろしい姿をしているのだろう、そう怯えながらここへやって来たのは全くの杞憂だった。確かに目や髪の色は、少し違っている。それでも考えていたような、異形のものではなかった。
――竜らしいところなんて、何も――。
「――あ」
アメリアはふいに椅子から腰を浮かした。そのとき初めて気が付いたのだ。
――ヴィルフリート様の、「竜の特徴」って……?
日常目に入る部分には、それらしい特徴はない。夫婦のことをしていないので、彼の体を見たわけではない。たぶん、まだ目にしていないのだろう。だから知らなくても当然なのだけれど、その時のアメリアには、それがどうしても重要なことに思われた。
だからといって、ヴィルフリートに直接尋ねることはできそうにない。何故知りたいのかと聞かれても、はっきり説明できるわけでもない。
――「特徴」って、どんなものなのかしら?
いつの間にかアメリアは、「特徴」さえ知れば全てが解決するかのような気になっていた。はっきりしない気持ちを、それにこじつけているのかもしれない。自分では気付いていないが、アメリアの心の中にはまだ「人ならざるもの」への恐れが残っていた。
――見るからにというようなものではない、とギュンター子爵様は言っていた。
それでも、想像もつかないのは落ち着かない。
その時思い出したのは、昨日図書室で見かけたあの本のことだった。――あれになら、何か載っているかもしれない。ヴィルフリートの「特徴」が分からなくても、過去の竜たちがどんなだったか、それだけでも知ることができないだろうか。
アメリアははじかれたように立ち上がり、部屋を出て行った。
そっと図書室の扉を開け、まずはいつもの長椅子を確かめる。ヴィルフリートの姿はない。
ほっとしたアメリアは、足早に例の本棚の前へ進んだ。アメリアには手の届かない棚に、その本は昨日のままに置かれていた。
手に取るには、梯子を使わなくてはならない。途端にヴィルフリートの姿を思い出し、アメリアは唇を噛む。
――ヴィルフリート様は、読まないで欲しいとおっしゃった。私もそうするつもりだった。それなのにその翌日に、それを裏切ろうと思うだなんて……。
本を見上げてためらい、立ち尽くしていると、後ろから声がした。
「アメリア?」
びくりと振り返ると、手に大きな図版を持ったヴィルフリートが立っている。図版は図書室のもっとも奥に置かれていたはずだ。長椅子にいなかったのは、それを取りに行っていたからか。
ヴィルフリートはアメリアの視線の先にあるものに気がついた。
「……やはり、気になるか……?」
「――ち、違います!」
ヴィルフリートには、知られたくなかった。アメリアは再びヴィルフリートの前から逃げ出した。
ヴィルフリートは茫然とアメリアを見送った。図書室の扉が閉まる音がする。
――いったいアメリアはどうしたのだろう? 昨日から、どうもおかしい。自分が近寄ったり目を合わせたりすると、怯えたような様子を見せる。
嫌われただろうか。
ここへきて一週間あまり、ようやく自然に微笑んでくれるようになったと思ったのに、自分は何か不快なことをしただろうか。
心当たりはある。――昨日からの口づけだ。夜は必死で耐えているが、アメリアの笑顔を見たら、気持ちを抑えきれなくなってしまったのだ。あれがいけなかったのだろうか?
さっきのアメリアを思い出すと、ヴィルフリートの胸は痛んだ。
例の本、「竜の末裔」に関することが書かれている本。あれを眺めて、アメリアは何やら思い悩んでいた。
――やはり、人ならざる身は恐ろしいのか?
思わずため息をついたその時、再び図書室の扉が開く音がした。その重たげな足音で、ヴィルフリートには分かる。
「ヴィルフリート様、おいでですか」
「ここだ。今行く」
家令のエクムントは、長椅子の前で直立不動で待っていた。
「どうした、エクムント」
「先ほど、花嫁殿が出て行かれましたな」
「……ああ」
「喧嘩でもなさったのですか」
ヴィルフリートが憮然として答えないでいると、エクムントの目がきらりと光った。
「あまり付け上がらせてはなりませんぞ、ヴィルフリート様。だいたいろくでもない家の娘のくせに、主人に対してあのような態度をとるなど……」
「やめろ、エクムント」
ヴィルフリートのいつになく苛立たしげな声に、エクムントが目を丸くする。
「彼女は別に付け上がってなどいない。そんなふうに、目を吊り上げないでやってくれ。――おまえのせいで逃げられたらどうするんだ」
「逃げる、ですと? それ、その態度こそが生意気だというのです」
「……」
ヴィルフリートは思わず首を振ったが、エクムントは矛を収める気はないらしい。
「ヴィルフリート様の前でなんでございますが、未だ伽さえ拒んでいるのでしょう。そんなわがままを許しては……」
「爺!」
さすがに一喝すると、エクムントが口をつぐんだ。
「よくもまあ、そのようなことを……。そうか、レオノーラだな。ならば言おう。彼女が拒んでいるわけではない」
「は……?」
「私が、機を待っているだけだ」
「……なんですと? いったいどうしてヴィルフリート様が、そのようなことをしてやる必要があるのです」
そのとき、笑い声がした。
「まあまあ、本当に殿方というものは……」
レオノーラは長椅子に近づいて、柔らかく微笑んだ。
「お茶をご用意しましたので、どうぞ。じいや様もそのくらいで」
「だが、そもそも心配していたのはあんたではないか、レオノーラ」
エクムントは気がおさまらないのか、レオノーラにも目を剥いた。レオノーラは頷く。
「はい、確かに心配しておりました。ですが、アメリア様のご様子を見ていて考え直しましたの。じいや様もどうか、この件はヴィルフリート様に、ご本人同士にお任せなさいませ」
ヴィルフリートも仏頂面で頷く。レオノーラにも言われては、エクムントも引き下がらないわけにはいかない。
レオノーラはさっきアメリアと話をしたので、いろいろなことが見えていた。だが、いくら我が子のように大切な主といえども、こればかりは自分が口を出すことではないだろう。エクムントに言ったとおり、レオノーラは黙って見守ることに決めていた。
またしても続き間の小部屋に舞い戻ったアメリアは、顔を覆って座り込んでいた。
――どうしよう。ヴィルフリート様はどう思われたかしら?
傷ついたような、淋しげな顔をしていた。昨日は見ないと言ったのに、嘘をついたと思われただろうか? 自分を裏切ったと思っただろうか?
――ああ、なんてことをしてしまったのかしら。きっと傷つけてしまった。それともお怒りになったかしら? ヴィルフリート様にだけは、知られたくなかったのに。
そこまで考えて、アメリアはふと顔をあげた。
なぜ、知られたくなかったのか。どうして、傷つけたかもしれないことがこんなに辛いのか。
「わたし……」
ヴィルフリートの笑顔が、手を触れることが、そして口づけが……、なぜこんなにも胸をしめつけるのか。
「なんて、馬鹿なの……!」
――ヴィルフリート様が、好き。
アメリアは両手で口を覆った。
――こんなふうになってから分かるなんて……どうしよう、どうしたらいい?
もちろん、伝えなくてはいけない。ヴィルフリートにとって、自分は「番」だ。彼の気持ちは、初めて会った時から痛いほどに伝わってきている。自分でも、誠実であろうと決めたではないか。
――「竜の城」へ来て一週間。ヴィルフリート様は何も言わずに、私の気持ちが動くのを待って下さった。私はそのおかげで、ヴィルフリート様という人を知ることができた。それなのに、せっかく好きになれたのに、そうと分かる前に傷つけてしまった。このままではいけない、ちゃんと伝えなくては……。
アメリアは立ち上がりかけ、そしてはっと動きを止めた。どうやって、伝えるというの? どれだけ勇気をかき集めたら、ヴィルフリートに言えるだろう?
それに、あの夜。「私を好きになってくれたら」と、ヴィルフリートは言った。貴方を好きになりました、と伝えることは、すなわち……。「抱いてください」と、自分から言うに等しい。
――ああ、そんなこと……恥ずかしくて言えない。でも、黙っているわけには……。どうやって伝えたらいいのかしら?
アメリアには結局、どうしたらいいのか分からなかった。




