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揺れる気持ち

 翌朝アメリアが目を覚ますと、ヴィルフリートはいなかった。

 昨夜は考えに耽ってしまい、なかなか寝つかれなかった。そのせいで、いつもより目覚めが遅くなってしまったらしい。おそらく眠っているアメリアを起こさぬように、ヴィルフリートはそっと出て行ったのだろう。

 急いで身支度を済ませて髪を梳いていると、ノックの音がしてレオノーラが入ってきた。


「アメリア様、おはようございます。どこか具合でも?」

「おはようございます。遅くなってごめんなさい、ちょっと寝つかれなかっただけなんです」


 レオノーラはほっとしたように微笑んだ。そのままアメリアの手から櫛をとって、綺麗に結い上げてくれる。


「ならばようございました。お食事はいつも通りに召し上がれますか?」

「はい。ありがとうございます」


 そのまま連れ立って食堂へ向かう。ふとレオノーラが尋ねた。


「アメリア様は伯爵家のお嬢様にしては、かなり器用でいらっしゃいますね。たいがいのことをご自分でなさっていらっしゃる」


 確かに貴族の娘の中には、箱入りに育てられ、リボンひとつでも侍女に結ばせる娘もいると聞く。アメリアはカレンベルク家を思い出して、淋しげに笑った。まさか、いつか自立を目指していたから……とは言えない。


「……なるべく自分でしたかったのです」


 レオノーラも、義父カレンベルク伯爵の噂くらいは聞いていたのかもしれない。


「それは良いお心がけですわ」


 そう言っただけで、それ以上を問おうとはしなかった。



「おはよう、アメリア」


 食堂へ入って行くと、いつもと変わらぬヴィルフリートが笑顔を向けてきた。ところが彼を見た瞬間に、アメリアは昨日の口づけを思い出してしまった。


「……アメリア?」


 思わず俯いてしまったアメリアに、ヴィルフリートが不思議そうに声をかけた。アメリアは慌てて顔を上げ、挨拶をする。


「……おはようございます。ヴィルフリート様。すみません、今朝は遅くなりまして」

「いや、何ともないのならいいんだ」


 向かいに座るヴィルフリートの顔を、アメリアは何故かまともに見られない。

 ヴィルフリートは、最初からアメリアへの想いを隠そうとしていない。そもそもそれが竜の「(つがい)」というものだ。

 それなのに自分ときたら、口づけひとつですっかり混乱し、そのうえ今度こそ抱かれるのかと、おかしいくらい緊張してしまった。名目上は既に夫婦だというのに、変に意識しすぎている自分が恥ずかしい。

 いったいどうしたというのだろう……?


「アメリア?」

「えっ」


 俯いて紅茶のカップを手に考え込んでいたアメリアが慌てて顔を上げると、ヴィルフリートが怪訝そうな顔をしていた。どうやら話しかけられていたことに、気付かずにいたらしい。


「……あ、すみません。今、何と?」

「ああ、うん。昨日の続きが読みたいなら、図書室で過ごそうかと聞いたんだが」

「図書室……? はい、――あ、いいえ!」


 ぼんやりとおうむ返しに返事をしかけたアメリアは、途中ではっとして首を振った。


 ――図書室は、無理。また昨日みたいなことになったら、私……!


 ヴィルフリートはますます不思議そうな顔をした。たまたまポットを持って入って来たレオノーラも、いつにないアメリアの様子に首をかしげている。


「なら、散歩にでも行こうか」

「――はい、ヴィルフリート様」


 本当は、しばらく一人になりたかった。でもそんなことを言うわけにはいかない。自分はヴィルフリートの妻なのだから。



 ひとたび春が訪れると、季節は早い。ほんの数日前に比べてもさらに新しい、アメリアの見たことのない花がいくつも咲き始めていた。それが良かったのか。アメリアは朝よりは落ち着いて、どうにか自然にヴィルフリートと言葉を交わすことができていた。

 それでも、ヴィルフリートが足元の花を見下ろして説明したり、あるいは遠くの景色を眺めたりすると、いつの間にかその横顔を見てしまい、言いようのない気持ちになってしまう。


「アメリア、こっちだ。おいで」


 初めて見るロックガーデン風の小道のそばで、ヴィルフリートがそう言って、アメリアに手を差し出した。無邪気ともいえるその顔を見て、アメリアは動きを止めてしまった。


 ――どうしよう、ヴィルフリート様の手を取れない。


 ヴィルフリートは首を傾げる。


「どうした? この先は石段があるから」

「は、はい」


 昨日までに手を取られたことが、全くないわけではない。なのにどうしてしまったのだろう? アメリアはきゅっと口を結んでこくりと息を飲み、おずおずとヴィルフリートの手を取った。

 そっと握り返す、ヴィルフリートの掌が温かい。今まで意識したことはなかったが、その手の大きさに、アメリアは思い知った。彼が自分を求めてやまない「男」であることを。


 ところどころにある石段を上り、小道をたどる。アメリアはヴィルフリートの話が半分も耳に入ってこなかった。繋いだ手や、ときおり触れる肩。その度に、なぜかどうしても気になってしまう。


「ああ、やはりもう咲いていたか」


 そう言ってヴィルフリートが足を止めたので、アメリアははっと我に返った。見ると薄桃色の細長い花が、溢れるように咲いている。


「君は花の蜜など吸ったことはないだろうね」

「花の、蜜ですか?」


 微笑んで頷きながら、ヴィルフリートがぷちんとその花を摘んだ。それをアメリアの口許へ差し出す。


「口を開けて」

「え」


 半ば開いていた唇に、柔らかな花びらが差し込まれた。


「――吸ってごらん?」


 おそるおそる口を閉じて、そっと吸ってみる。ヴィルフリートはアメリアの反応を期待するように、楽しげに瞳をきらめかせている。その瞳はまるで少年のようだ。アメリアは今日初めて、自然に笑うことができた。


「甘いです、ヴィルフリート様」

「だろう? 子供のころ、よくここで蜜を吸っては叱られたものだ」

「え、なぜ叱られるんですの?」


 するとヴィルフリートがふわりと笑って、花に手を伸ばした。初めて見る無防備な笑顔に、またしてもアメリアの胸がきゅっと締め付けられる。


「庭師が呆れるほどの量だったからね」


 そう言ってヴィルフリートは振り向き、アメリアと目が合った。その金色の瞳が一瞬見開かれ、細められる。

 ――白い手が伸びて、アメリアの(おとがい)をつまんだ。


「アメリア」


 囁くように名を呼びながら、ヴィルフリートが唇を合わせる。


 何度も確かめるように角度を変えては繰り返され、アメリアは引き寄せられるままにヴィルフリートの胸に抱かれていた。


「……!」


 腰を抱く腕に力がこもった。


「アメリア」


 アメリアははっとした。思わず身を捩って、腕から逃れる。


「……ヴィルフリート様。私……、お先に失礼を……!」

「――アメリア?」


 くるりと背を向けて、アメリアは駆けだした。




「アメリア様?」


 駈け込んできたアメリアを見て、レオノーラが声をあげた。


「どうかなさったのですか?」

「――いいえ、何も」


 真っ赤な顔で俯いて、アメリアは逃げるように階段を上がって行く。レオノーラは首をかしげてそれを見送った。


 ――ヴィルフリート様はどうなさったのかしら?


 そう思って庭を窺っていると、やがてヴィルフリートが戻ってくる。


「ヴィルフリート様、どうかなさったのですか?」


 思わず問うと、ヴィルフリートは困ったように首をかしげた。


「いや、なんというか……。どうも困らせてしまったらしい」

「何かおっしゃったんですの?」

「いや、言ったわけでは……。うん、まあ大丈夫だろう」


 ヴィルフリートの反応は鈍いというか、どうも歯切れが悪い。見るとほのかに耳元が赤くなっている。そのまま図書室の方へ向かっていくヴィルフリートを見送って、レオノーラはまた首をかしげた。


 ――喧嘩でもなさったのかしら。


 いまいち釈然としないまま、レオノーラは紅茶の用意を始めた。




 アメリアは後ろ手にドアを閉めて、そのまま寄りかかって息をついた。

 ヴィルフリートのそばに居るのがいたたまれなくて、寝室に逃げ込んでみた。けれど、もちろん何の解決にもなっていない。顔を上げて部屋を見回してみても、ベッドが目に入ると余計に落ち着かなくなる。それにこの部屋には、ヴィルフリートがいつ入ってくるか分からないのだ。

 結局、身支度に使っている続き間の小部屋へ入っていき、化粧台の前に腰を下ろした。

 目の前の鏡には、我ながら情けない顔をした自分が映っている。そんな自分を見たくなくて、アメリアは目を伏せて両手で熱い頬を押さえた。


 ――私、いったいどうしてしまったの? ヴィルフリート様がまともに見られない。それなのに気になって仕方がないなんて……。ヴィルフリート様に触れられると、飛び上がりそうになる。お顔を見るだけでこんなに胸が締め付けられるのでは、とてもお話なんかできないわ。


 アメリアは顔を覆って俯いた。どきどきと響く胸の音に、とうぶん顔を上げられそうになかった。


「アメリア様、お茶をいかがです?」


 はっと顔を上げると、続き部屋の入口からレオノーラが笑いかけていた。


 レオノーラは黙ってお茶を注ぎ、アメリアの前に差し出した。何気なくカップを口元へ運ぼうとして、アメリアはその香りにはっとする。カレンベルク家で唯一我儘を言って飲んでいた、花の香りのお茶だった。


「これ……」

「お気づきになりましたか?」


 レオノーラが微笑んだ。


「アメリア様がお好きだと聞いて、取り寄せました」


 そう言えば初めて庭に出たとき、ヴィルフリートにそんな話をしたかもしれない。


「覚えていて下さるなんて……」


 思いがけない心遣いに目を細め、アメリアはもう一度香りを吸い込んだ。



「アメリア様は、ヴィルフリート様をお嫌いですか?」


 穏やかに尋ねられ、アメリアは戸惑いながらも答える。


「いいえ、そんなことはありません」

「では……?」

「……私は」


 アメリアはカップを置いて俯いた。レオノーラは何も言わない。


「お会いする前は『竜』としか知らなくて、どんな恐ろしい方かと恐れていました。でもヴィルフリート様は……優しい方だった」

「ええ」

「……」


 黙り込んだアメリアの瞳が揺れている。レオノーラはそれ以上聞かずに立ち上がった。


「それだけ理解していただけているなら、心配いりませんわ。アメリア様、ゆっくり考えてごらんなさいませ」


 そしてもう一度にっこり笑って、部屋を出て行った。

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