sideユリア〜こんな筈じゃなかった〜
「お客さん、お釣り!」
私は慌てて彼を追いかけたの。
それが始まりだったわ。
思えば最初に来た時からどこか浮世離れした雰囲気の人だった。
特に華やかってわけでも、偉そうってわけでもないけど、気品があった。
でもまさか、貴族だなんて思いもしなかった。
だってうち、貴族様が来るような立派な店じゃないし。
最初の買い物の時、買ったパンに対して多いお金を頂いた。
だからお釣りをって思ったのに、それ、チップだったんですって!
チップなんて初めて貰ったから私驚いちゃった。
でも、それがきっかけで彼はうちの店によく来るようになったの。
私はすぐに彼に惹かれたわ。
私よりずっとずっと年上だけど、いつだって紳士的な彼にパパとママも好意的だった。
下手に若い男と付き合うより、ある程度財力のある年上に嫁ぐのもいいんじゃないかって言うくらいには気に入ってたの。
でも、こんな素敵な人が独身な筈もなくて。
だから彼が既婚者だと知った時はさもありなんって感じだった。
私と年の近い奥様がいるみたいだけど、
奥様は彼を大事に出来ていない様子。
こんなに素敵な旦那様相手に酷い。
私、彼女をこっそり見に行った事があるの。
だって、私が好きになったのはグラノール伯爵様。
王都でも一二を争う豪邸ともなれば、知らない人はまずいない。
そのお城のようなお屋敷のお庭。
綺麗に整ったお庭の花を眺めながら、お茶を飲む奥様を見た時は少なくない怒りが湧いたわ。
彼女は物語に出てくるお姫様みたいなドレスを着て、たくさんの宝石を身につけていた。
なんて羨ましい。
全部あの人がお金を稼いできてくれるおかげじゃない。
なのに感謝もしないで、贅沢ばかりしている。
私ならそんな真似しないのに。
彼をもっともっと大切に出来る。
奥様はあの人の奥様に相応しくない。
私その日から真剣に彼の奥さんになるべく努力したわ。
私の気持ちを伝えれば、すぐに彼も応えてくれた。
やはり、彼も贅沢ばかりする奥様には辟易していたみたい。
でも、どれだけ待っても奥様と彼は別れてくれない。
彼は離婚の意思は固いが、奥様が頑なに拒否してるって言うの。
彼と別れたら贅沢な生活が出来なくなるんですもの、
考えたら彼女が離婚を選択するわけがない。
そこで私は賭けに出た。
思い切って私は奥様に手紙を書いたのだ。
何度も何度も書き直した。
配達人に依頼した時はドキドキした。
手紙は失礼にならないように、
丁寧な言葉遣いを心がけた。
その上で彼と私の関係、どれだけ彼が私を愛しているか、私が彼を愛しているかを切々と訴えた。
そして最後は彼を自由にしてあげてと。
お金に縛られるのは人として恥ずべき事で、この世に愛ほど尊いものは無いと。
そう諭した。
きっと、彼女に人の心があれば
彼女は改心して彼と別れてくれる。
そして本来あるべき立場に私は収まるのだ。
でも、手紙を出してもなんの音沙汰もない。
だから思い切って今度は直接会いに行ったわ。
まるで、彼との仲が初耳みたいな顔をしていたけど、嘘おっしゃい。
私はちゃんと知ってるのよ?
貴方が彼との離婚を拒んでいるって。
私は彼女に改めて伝えた。
彼がいかに貴方との離婚を望んでいるのか。
私達がどれほど愛し合っているのかを。
なのに、往生際悪く私を詐欺師のような口ぶり。
だから、私も彼との仲を証明するために二人だけの秘密である交換日記を提出したの。
そこに綴られるのは私達の愛の軌跡。
最初の1ページから最後のページの一文字まで私達の愛で溢れる特別なもの。
筆跡も間違いなく彼のものだとわかるでしょうし、これ以上ない証拠だった。
そしてこの一冊が効いたのでしょう。
然程時をおかずに彼は私の元に帰ってきた。
「妻とは離婚した。残りの人生は君と過ごしたい」
嬉しくて嬉しくて私は泣いた。
彼に抱きつき、永遠の愛を誓った。
すぐに私達は結婚した。
この瞬間、私は間違いなく世界で一番幸せや花嫁だった。
この幸せは永遠に続くのだと疑いもしなかった。
でも、その予想は大きく覆る事になるの…。
「さて、結婚もしたし。
君の家にこれからは厄介になるけど、いいよね?」
私は意味がわからなかった。
だから私言ったの。
「私の家に…?それはわざわざ新しいお家を作ってくださるという事ですか?
わざわざ新しい物を作らなくても今まで貴方が住んでいたお家で充分ですよ?」
だけど、彼の方こそ不思議そうに言ったわ。
「何言ってるんだ?新しい家なんて建てられる訳もないし、
大体あの家は彼女が住むに決まってるじゃないか」
その言葉に私は憤慨した。
あの女、彼と別れるのにちゃっかり手切れ金を要求したのね!?
そして人の良い彼はその言葉に頷いてしまった。
確かに妻がいる身で他所に愛する女性を作るのはいけない事。
でも彼女は彼を愛していなかったし、
私と彼は愛し合う運命だった。
少し運命の相手と出会うのが遅くなってしまったというだけで、
不当に財産を失う彼が不憫だった。
私は怒りのあまりその場を飛び出し、あの女の元へと走っていった。
そして初めて知った。
彼女こそがグラノール伯爵その人だと。
知らなかったのだ、女性も爵位と財産を継げるだなんて。
それに彼女はあまりに若かった。
とてもじゃないが、彼女があのグラノールの店の社長だなんて信じられなかった。
だから、あの立派なお屋敷が彼女の所有物で彼の物ではないと知って驚いた。
でも、彼も元を辿れば男爵家の三男坊。
伯爵家ほどではないけれど、平民に比べればだいぶ良い暮らしが出来るだろう。
うちのパン屋だって今より大きく出来るかもしれないし、人をたくさん雇ってパパとママを楽させる事も出来るかもしれない。
そうだ、私は別に贅沢がしたくて彼と結婚を決めたわけじゃない。
だからグラノールの家に拘る必要なんてどこにもないのだ。
私は自宅に戻ると両親も含めてイリヤ様と今後の話をした。
「イリヤ様。イリヤ様の領地はどこですか?
王都のどの辺りにイリヤ様のご実家のお屋敷はあるのでしょう?」
「ん?私の領地って私の実家の話かな?
だとしたら、そんなものはないよ?
実家自体王都にもないしね」
「………え?」
領地がない?
そんな貴族がいるの?
だけど、パパは私より物知りですぐにピンときたらしい。
「もしや、イリヤ様のご実家は英雄の生家なのでしょうか?」
「…そんな立派なものではないけど。
そう呼ばれるね」
その言葉に私は漸く合点がいった。
今から20年くらい前、うちの国はどこかの国と戦争をしたらしい。
らしいというのは、その頃私はまだ生まれてなかったか、生まれたばかりの赤子だったからよく知らないのだ。
それに戦争自体はごく小規模ですぐにうちの国の勝利で終わったとのこと。
勝利自体は素晴らしいけど、戦争があまりに短期間で終わったものだから、
兵士達の生き残りが予想以上に多かったらしい。
戦争の指揮を執った将軍クラスや隊長クラスもほぼ無傷で戻ってきた。
そんな彼らを国が報いないわけにもいかず、かといって彼ら全員に充分な手当てが出来る程の財源も国にはなかった。
そこで元々貴族だった方々には充分な褒賞を渡し、平民だった者は爵位を与えた。
但し、普通なら爵位とセットで領地が貰えるものだが、あまりに数が多くてとてもではないが土地を全ての人に分け与える事は出来なかった。
だから爵位だけの授与。
それだけでも平民からすれば大変な名誉であり、孫の代まで語れる偉業である。
それこそ、英雄と言って差し支えないだろう。
でも、実質平民と変わらない。
だから英雄の生家という言葉は
名ばかり貴族と言う言葉をオブラートに包んだ物言いに過ぎず、
決していい印象を人には与えない。
「では、ご実家はどこに?」
「北にある村で百姓をしています」
まさかの農民!!
愕然とする私達。
よくぞ、農民の三男坊がグラノール家の婿になれたものね。
グラノール伯爵様は変わり者なのかしら?
「そ、それでは今後は村に帰らないといけないのでしょうか?」
「それでも構いませんが。義父様は店を経営してますし。
私はこのまま王都に留まり店を家族で切り盛りし続けた方がいいと思います」
つまり何も変わらない。
今まで通り朝日が昇ると同時に小麦を捏ねてパン生地を作り焼くという
いかにもな平民の生活は何も変わらないのだ。
それでいい。
良いはずなのに。
釈然としないものが胸に生まれた。
もしかしたらそれは一瞬でも貴族の生活を夢見たせいなのかもしれない。
それこそあの日盗み見たエミリア様のような日々が送れるのだと夢見てしまったから
目の前の現実が重たく感じたのだ。
だけど、彼と結婚しても何も変わらないというこの考えすらかなり甘かった。
数日後、裁判所から呼び出される。
何も悪い事などした覚えがないので何事かと思ったが、罪状は不義密通。
どうやら、既婚者と知りつつも愛し合う事はこの国では犯罪らしい。
といっても刑罰の対象になるのではなく、相手の配偶者…つまり元奥様に慰謝料なる物を支払う必要があるだけとのこと。
前科持ちになるわけじゃない。
元奥様は抜け目なく私達の関係を余すことなく記載した交換日記を裁判所に提出したらしく、
こちらの言い分は一つも聞いて貰えなかった。
そしてのしかかる多額の慰謝料。
とてもじゃないが私には支払えない。
勿論、イリヤ様にもそんな蓄えはなかった。
だから私の両親が涙を飲んで店を手放しお金を作って慰謝料の支払いに当ててくれた。
おかげで借金は作らずに済んだけど、代わりに親子の縁を切られてしまった。
行くところのない私は仕方なく夫の生家である北の村へと向かう事にした。
そして待ち受ける農村の闇。
私は完全な余所者で腫れ物扱い。
しかも肝心のイリヤ様のご実家には立派な後継様がいらして、義父様と義兄様が実権を握り他の兄弟は小作人扱い。
しかも兄弟で一番年下のイリヤ様は完全に序列最下位であり
その妻である私は小作人以下の奴隷扱いをされる事になる。
慣れない農作業。
少ない賃金。
朝から晩まで襤褸を纏い家事と農作業、
そしてイリヤ様の甥や姪にあたる子供の世話までして
日々窶れていく。
与えられる食事も少なくて毎日腹を鳴らしていた。
気づけば夫になったイリヤ様も農作業用の服を着て田んぼで毎日稲の世話をしている。
泥だらけになった彼には都会で見た気品は見られない。
彼のメッキが剥がれたのだと気づいた。
私が見ていたイリヤ様は虚構の物。
元奥様が作り上げた偽物のイリヤ様でこちらが本物のイリヤ様。
イリヤ様の正体は貴族でもなんでもない、
百姓家の小作人だったのだ。
急速に彼への愛情が薄れていく。
喧嘩も増えた。
もう夫婦仲は破綻している。
心情的には離婚したい。
でも出来ない。
だって私には行くあてもないし、自由になるお金なんて銅貨一枚だってないのだ。
私は自分の未来を幻視する。
このまま、草臥れて窶れてそして死ぬ未来。
かつて王都で輝いていた私の顔。
すっかり皺が目立つし、髪にも白髪が混じり始めた。
でも、私はまだ20なのだ。
信じられない。
一体どこで選択を間違えたのだろう。
願わくばもう一度人生をやり直したい。
もしやり直せるならば。
二度と人の夫になど手を出さないと誓うのに………。