隣人
一緒に戦って貰う。リンにそう言われても尚、片羽唯は気の効いた肯定も、常識的な否定も思い浮かばなかった。日常は砕け、右腕は失い、目の前には銀色の少女だけ。
その目の奥に沈んだ冷たさが、馬鹿げていると分かっていてもやはり心苦しい。
互いに視線を絡めたまま何も言わない。しかし、それまでモニターで経過を見ていたのだろう。漂う空気など微塵も気にせず、ドクター・フェイスは手を叩いて笑みを浮かべた。
「うん、良いじゃないか! 拒否反応もなし。主立った違和感も卒倒する激痛もない。リーンドール、君を連れてきたのはやはり正解だったようだ。僕ほどじゃないにしてもよくやる」
ドクター・フェイスの称賛を、しかしリンは鼻で嗤う。
「解剖するのが惜しくなった?」
「ははは。君が約束を守るタイプで良かった。安心して見ていられるからね」
唐突に始まった物騒な話題に、唯はぎょっとした表情で二人を見る。その視線に気付いたのか、リンは部屋の隅にある棚を指差す。
「着替えは適当に見繕ってあるから、まずは着替えたら? ここを案内するわ」
一度生じてしまえば、疑問など山ほどあるのだ。唯は些か納得いかないという表情を浮かべるも、リンはひらひらと手を振る。
「案内ついでに答えるわ。身体冷えるわよ」
一理ある、と唯はベッドの端に腰掛け、多少ふらつきながらも冷たい床の上に立った。棚まで歩きながら、右腕は意外と重かったのだと気付かされる。バランスがうまく取れず、ぎこちない歩き方になってしまうからだ。
「それで、ドクター。唯の身体から除去したプロト・アームドレイターは、貴方に返した方がいいの?」
「えー? いらないよお」
リンとドクター・フェイスの会話を背中で聞きながら、唯は棚を左手で物色していく。左手の動きはぎこちない。せめて利き腕が残っていれば、まだマシだったのかも知れない。
「貴重だとか言ってなかった?」
「あれは未使用だったから貴重なんだよねえ。人様が使った中古品なんていらないよ。データだけ一応貰っておくけど。まあ、訓練も調整もされてない一般人の同期データなんて、それこそ価値なんてないと思うけどさ」
何となく小馬鹿にされているような心持ちのまま、唯は患者衣のゆったりとしたズボンを脱ぐ。棚に入っていた無難なジーンズを左手だけでぶんぶんと振って広げ、何度か転びそうになりながら足を通す。傍にあった椅子を足で引き寄せ、そこに腰掛けたり立ったりしながらジーンズを穿く。
「なら私が預かっておくわ」
「よろしくー。僕は部屋に戻ってるよ」
入ってきた時と同じような足音を立てながら、ドクター・フェイスは帰っていく。後ろが見えている訳ではないが、声と音だけでも分かる程度には分かりやすい。
唯はTシャツを振って広げ、左手だけで着ていく。これはそう難しくない。被って位置を調整、首を通して左腕を通すだけだ。軽く裾を直し、もう一枚ぐらいは羽織っておきたいとパーカーを手に取る。
フードを先に被り、左腕を通したまでは良かったが。右肩にパーカーがうまく掛けられない。そもそも右肩がなくなっているし。
「手伝うわ。こっちを向いて」
後ろから声を掛けられ、ちょっとどきりとする。ドクター・フェイスと違い、リンは足音が小さい。
振り返ると、リンはまずこちらが後回しにしていたジーンズのボタンを付けた。そして、屈んでくれと言いたいのか右手をひょいひょいと下に振る。
大人しく唯が片膝を付くと、リンはパーカーをこちらの右半身に掛け、前のファスナーを胸の前まで閉めた。
「えっと、ありがとう」
唯は立ち上がりながら礼を言う。しかし、リンは目を逸らしながら鼻で嗤う。
「責めないのね。片腕だけで随分と難儀だったみたいだけど。私を庇ってそうなったのに」
それはそうなのだけど、と考えながら唯は苦笑する。
「なんだか誰かを恨んでとか、そういうのも今、湧いてこないんだ。現実なのは分かっているし、意識もはっきりしてるんだけど。なんか頭が追い付いてこないっていう感じで」
誰が敵で誰が味方かも分からない。それでも、目の前のこの人は大丈夫だと思う。
「とりあえず、案内してくれるんでしょ? 質問にも答えるって言ってた」
そうだ、と唯は思い出す。
「リンはどう見ても小学生にしか見えないけど。二十八歳で年上なんだよね。敬語とか使った方がいい?」
見た目はともかく、目上の人という括りになる。そう思って聞いてみたのだが。リンはぽかんとした後に、ふっと口元を緩めた。
「好きなようにしなさいな。変な事気にするのね」
そう答えた時だけは、リンの目の奥に冷たさはなかった。




