勇気の末路
二階へ上がっただけで、別世界のように人の姿が見えなくなる。店舗の照明は付いたままだが、店員も客もいない。自分だけ異空間に囚われたような錯覚を覚えるが、眼下を見れば忙しなく避難が続いている様が見える。
「あの子は、まだ上がっていったのかな」
そう呟きながら、唯は周囲を見渡す。人の姿は見えない。気配を辿るなんていう芸当は出来ない。勘だけで上だと判断し、エスカレーターを再び駆け上がる。
三階に店舗はない。自販機や椅子、エレベーターホールと外へ続く扉……一面に広がる駐車場が、この階の全てだ。
唯は手近な扉から外に出て、車がまばらに止めてある駐車場を見渡す。そして遠方に銀馬の尻尾を……少女の結われた長髪が、車の影に消えていくのを見付けた。
追い付ける。そう判断し、唯は走り出す。そして、それから疑問点が沸々と浮かんできた。どうして少女はここに来たのか。忘れ物か、人を探しているのか。
何より、どうしてここに至るまで係員は一人もいないのか。そんなことを考えながらも、唯は足を止めることはせず、少女が進んだ道を同じように駆け抜けた。
そして車の影、曲がり角の向こうに視線をやる。ポニーテールの少女はこちらを向いていた。その小さな手に握られた無骨な散弾銃も、少女と同じようにこちらを向いている。
少女と散弾銃を交互に見て、唯の頭の中は真っ白になった。
少女の歳は十一歳程だろうか。白い肌に銀髪と、中々見掛けない風貌をしている。こちらを射止めたままの目は炎を思わせる程に赤い。そして、手にした散弾銃は底無しに黒い。パーカーとショートパンツを身に着けているが、すらっと伸びた足や腕は黒いタイツのような物で覆われていた。
銀色少女は散弾銃を下げ、軽く息を吐く。そして咳払いをして咽の調子を整えると、こちらに向かって口を開いた。
「避難経路は下。早く逃げなさい」
自分が言おうと思っていた言葉を先に出され、唯は固まってしまう。小学生ぐらいの女の子、銀髪赤目と常人離れをした容姿、存在感のある散弾銃、おまけにさっさと逃げろと言ってくる。脳が麻痺するには充分な情報量だ。
だが、それ以上の情報が奥から顔を出す。
いや、顔は出ていない。顔があるべき場所には何もない。少女の背後、車の影から音もなく現れた化け物は、意識を凍り付かせるのに充分な衝撃だった。
成人男性が二回り程大きくなったような体躯をしているが、腕と足は更に肥大化している。筋骨隆々と表現するには禍々しいその四肢には、しっかりと鋭利な爪が生えていた。
そして、顔はない。頭部は丸々消失しており、その代わりなのだろうか。胴体が丸ごと口に置き換わっているのだ。不揃いな牙はどれもギザギザとしており、この化け物が‘食べる’存在であることを本能で感じ取れた。
化け物は二足歩行から四足歩行に姿勢を変える。その目は……目は確認出来ない、口が。少女の方を向いているような気がした。
こちらの表情と目線から感じ取ったのか。少女が振り返りながら散弾銃を構えようとする。銀髪がその動きに合わせ弧を描き、静から動へと世界が傾いたことを示す。
化け物も動く。四足歩行のまま疾走する姿は、まさしく肉食獣を思わせる。
唯の頭は、今尚正常に働いていなかった。文字通り飛び込んできた非日常を前に、理性も理論も何もない。だからだろうか。
唯は硬直するでもなく、腰を抜かすでもなく。叫んで逃げるでもなく。麻痺した頭が導き出した結論だけを信じ、化け物と同じように走り出す。
少女に向かって走り、左手を伸ばして首根っこを掴んで引き寄せる。突っ込んでくる化け物は速い。少女が振り返り散弾銃を撃つよりも、その牙が少女を食らう方が早いのだ。
だから少女を引き寄せ、牙を強引に避けたのだ。牙と牙……硬質な物がかち合う音が、すぐ目の前で聞こえる。
少女は体勢を崩し、こちらも尻餅を付くようにして崩れてしまう。
化け物が再度動く。そして、唯は目の前の相手が何かも忘れ、少女を抱き寄せるようにして庇ってしまった。
左手で顔を、右手で肩を抱き、目を瞑り身を縮める。
そして安易な行動のツケが、肉を食い破る音となって唯に襲い掛かった。
「が……!」
声を上げ目を開き、唯は火傷を思わせる灼熱を辿り右腕を見る。
化け物の牙が目の前にあった。牙と牙は閉じており、右腕の肘から先はその中に入っている。つまり。
「喰われ……!」
認識した途端、激痛が脳を揺さぶり始めた。痛みと恐怖で咽は枯れ、掠れた声で殺到する痛みを叫び声に変えていく。
化け物は立ち上がり、二足歩行に体勢を変えた。ぐいと引き上げられ、新たな痛みが右腕から伝わってくる。唯は左手で右腕を押さえながら、痛みと共に込み上げてくる声をそこかしこにぶちまけることしか出来ない。
化け物は胴体を……即ち口を左右にぶんぶんと振る。唯は泣き声にも近い悲鳴を上げていたが、不意に解放された。
床を転がっていく。地獄を思わせる痛みが、多少はマシになる。うつ伏せになった状態から、逃げようとする一心で身体を起こそうとした。
「あ、ああ」
しかし、床を掴もうとした右手は……右腕は、肘から先がなくなっていた。
「なんで」
何でも何もない。あの化け物に食べられた。心臓の鼓動に合わせ、一定間隔で床を汚す血の流れを見ながら、唯はなくなった右腕を動かそうとする。
動く筈がない。力を入れている感覚はあれど、その先には何もない。
呼吸が荒くなり、涙が零れ、その体勢のまま胃の中の物をぶちまける。肘から先がない。視界が歪んでいく。
自分の意思で動いた末路を痛みと共に噛み締めながら、癖になっているのか腕時計を見ようとする。
そこにはもう、何もないというのに。




