自分の意思
壇上で先人が語る言葉は、内包した歴史と反比例するように重みがない。
冬期休暇前の終業式を順当に済ませ、青年は……片羽唯は自分の席に着く。高校二年生の冬、純粋な学生として日々を過ごすことが出来る最後の冬だ。来年からは、将来という不透明な何かに向かって、誰も彼もが戦いの日々に明け暮れることになる。
だからだろうか。教室の空気はいつにも増して明るい。不安や焦燥、そういった漠然とした感情が、必要以上に学友達を駆り立てているのだろうか。
椅子に体重を預けながら、右手首にある時計をちらと見る。ホームルームまであと少し。
そんな中、机に我が物顔で座った男子学生が、人好きのする笑顔を向けてきた。
「おっす、かっちゃん! 相変わらず辛気臭いな。お前は平常運転で安心するよ。いつ何時でも目が死んでる」
随分なご挨拶を前に、唯はふっと口元を緩める。
「終業式にまで遅刻なんて、シロも平常運転みたいだね」
制服は着崩れてよれよれ、シャツは元気良く飛び出ているし、ネクタイはそもそもどこかへ遊びに行っている。白田稔は、健康と元気と男子学生を絵に描いたような男だ。短く刈り上げられた頭から分かるように、野球をこよなく愛するスポーツマンでもある。
白田ことシロは、数少ない友人だった。腐れ縁と表現した方が正しいだろうが。
「終業式なんて知らん。俺はお前に会いに来てやったんだぞ?」
「お礼を言った方がいい?」
軽口の応酬を済ませると、シロは隣の席へと着く。鞄すら提げていない所を見ると、この後は部活なのだろう。鞄を部活動用のロッカーに放り込み、ここへ手ぶらで来たのだ。
「冬も野球三昧って感じか。昔からそうだったよね」
そんな唯の言葉に、シロはこくこくと頷く。
「思いっきり投げていられるのもそう長くないからな。かっちゃんもどうよ? それこそ、昔は一緒にやってたじゃんか」
小学生の頃の話だと、唯は手を振って断る。
「まーそうだよな。運動、出来ないって口でもないのになあ」
シロは口惜しそうにしている。いつも通りのやり取りだ。
少し悪いなと思いながらも、唯は生返事をする。スポーツにしろ野球にしろ、やれない事はないと思う。けれど、彼や彼等程の熱意はない。傍でやっていたから分かる。別に、シロはプロを目指しているとかそういう訳ではない。だが真剣なのだ。自分にはそれがない。
他の分野についてもそうだ。自分には、他の人が夢中になって取り組めるような何かがない。ただ流されるまま、やれることをやっているだけ。
人生に、この身体に重みが宿るとしたら。そういった何かを、見付けた時なのだろうか。
右手首にある腕時計をもう一度だけ見る。気分とは裏腹に、時間は首尾良く進み続けていた。
友人と短い挨拶を交わし、片羽唯は学校を後にした。
休み期間中、キャッチボールぐらいはどうよと妥協案をねじ込んできた友人を思い返しながら、基本的には巣籠もりになりそうだと唯は歩みを進める。
目的地は近所のショッピングモール、食材を買い足しておきたかったのだ。見慣れた街を歩きながら、見慣れた公園に立ち入り禁止のロープが掛かっているのを見る。
何が起きているのかは分からない。今、ここ依守市は不要不急の外出を控えるように言われているのだ。特に、夜間の外出は危険らしい。未知の病原菌が何だとか、色々聞いた憶えはあるが。詳しく調べようという気にはならなかった。
何が起きているのかは知らないが、こうして生活している分には何の影響もない。食材を買い込んで、寮でだらだらと過ごすだけだ。
学生寮での生活は何をするにも一人で、何よりも気楽だった。何の刺激もないとしても、安楽であることに変わりはない。
両親はとっくの昔に離婚している。父はエネルギッシュな人で、母は恋に恋する人だった。燃えるような恋の果てがこれだ。父は外の世界に夢中で、母は恋そのものに夢中、必然の離婚だったと思う。
父は自由主義で、母はその真逆でもあった。この学校を選んだのも、学生寮へ入ったのも。母の言う通りにしてきた結果だ。自分は今も昔も指示されるまま、流されるままに生きている。
不自由だと思ったことはない。拙い自分が考える道筋よりも、母の道程の方が遙かに優れていた。それに、自分がこうしたいという程の拘りもない。
でも、と唯は右手首にある腕時計を見遣る。この腕時計は父からのプレゼントだ。父の求めていた自由とは、一体どんな形をしていたのか。この時計を見ていると、時折そんなことを思う。
目当てのショッピングモールに入り、唯はATMへと向かう。来月分の仕送りが二人分入っていることを確認し、必要な分だけ手元に引き出した。
父は外の世界に、母は恋に夢中だ。そんな両親に対し、親子を感じることが出来るのは、今となってはこの数字ぐらいだと、唯は苦笑を浮かべる。
財布をしまい、ショッピングモールの中を進む。人の数はそれなりに多い。この時間帯では外出の制限など無いようなものだった。これが夕方、夜に近付いていくとすっと消えていくのだ。それはそれで不気味なのだが、律儀だなあと思うところもある。
そんな慣れ親しんだ日常は、聞いたことのないような電子音によって引き裂かれた。
半ば程進んだところで、館内の放送だろう警報が鳴り響いたのだ。周囲から小さな悲鳴と、大きなどよめきが生じる。唯は周囲を窺いながら何の警報なんだと考えを巡らせた。
警報が止まると、今度は係員の指示に従うようアナウンスが流れた。誤報でも悪戯でもない。それだけを認識しながら、誘導を始めている係員の方を唯は見る。
麻痺したように動かなかった人の群れが、徐々に波へと変わり始めた。
その流れに流されるまま、唯も歩き出す。火事や事故、様々な憶測が頭に浮かぶし、周りも小さな声で話し合っていた。だが、答えは一向に得られない。
ふと、唯は後ろを振り返る。流れに逆らう、風のようなものを感じたのだ。
それは、長髪を後ろに結わいた少女だった。銀色に輝く髪は、解けば腰に届きそうな程に長い。少女は雑踏に目もくれず、エスカレーターを駆け上がるようにして視界から消えていく。誰も彼もが出口へと急ぐ中、なぜあの少女は上を目指したのだろうか。
自分とは関係ない、係員が何とかする。唯はそう考え歩き出そうとするも、右手首にある腕時計を見てしまった。父のくれた時計……父が追い求めた自由が何なのか、自分には分からない。それでも、ただ流されるままに誰かを見捨てるというのは違う気がする。
自分じゃなきゃいけない理由はない。誰かが何とかしてくれるかも知れない。そうと分かって尚、唯はもう一度足を止め、腕時計を見る。
踵を返し、人の波を抜け出すようにして走り出す。
誰に言われるでもなく、自分の意思で。唯は初めて足を動かした。