蛇と蛙と酒豪
前回までのブランクアームズ
普通よりちょっと無気力寄りな高校二年生、片羽唯は右腕を化け物に食い千切られてしまった。日常は傾き、アームドレイターと呼ばれる義手を用い、銀色少女……リンと共に戦う道だけが残された。
街を支配する研究施設プラトー、異形の化け物アロガント、未知の元素であるレリクト……。
謎は未だに謎のまま、それでもリンの覚悟とその魂に惹かれ、唯は戦いの場へと趣く。
激戦を制した《ブランク》レリクス……唯とリンだったが、アロガントは未だその数を残し、更に新たな火種が街へ振り撒かれようとしていた。
暗闇の中、灰色の騎士が……《ブランク》レリクスがステップを踏みながら前進する。一定間隔で地面を蹴り、瞬間移動を思わせる速度で間合いを詰めていく。
右手と右足を引いたボクシングの構えのまま、《ブランク》レリクスは最後の一歩を踏み込んだ。既に右腕には灰色の光が灯っており、その力の奔流を携えたまま光は残像となる。
苦し紛れに振るわれたアロガントの腕を難なく潜り抜け、《ブランク》レリクスは右の拳をアロガントの胴に……馬鹿でかい口腔部に叩き込んだ。
破壊という目的に特化したエネルギーの塊が、真正面にいる生物を爆圧と共に吹き飛ばす。
『devastate』
《ブランク》レリクスの右腕……鎧と散弾銃が合わさったような見た目の義手が、上下左右に展開されている。熱と光を吐き出したそれは、独りでに閉じていく。
《ブランク》レリクスはストレートを放った体勢を維持していたが、全身を脱力させながら姿勢を楽にする。右腕を下ろし、左手で右腕義手を……アームドレイターを取り外した。
《ブランク》レリクスを形成していた鎧が、灰色の光を伴いながら霧散していく。元の姿に戻った唯は、灰色の光から人の姿へと戻ったリンの方を見る。
相も変わらず、ボディスーツ以外の服飾は消滅しているリンだったが、特に気にする様子はない。それどころか、何やら思案顔だった。
「なんか、随分と楽だったというか。やりやすく感じたんだけど」
唯はそう切り出してみる。先程まで、文字通り一心同体だったのだ。何となく、考えていることは分かる。
リンはこくりと頷き、炸裂し炎上しているアロガントだった物をじっと見た。
「倒してみてはっきりした。今のはステージ3の個体。レリクト反応を検知してここへ急行するまで五分以上掛かってる。その間にステージ4へ移行しない理由が見当たらない」
リンはそう説明してくれた。だが門外漢である唯にとっては、無意味な言葉を並べているのと変わりない。頭の良さを共用できていたならば、とそれこそ無意味なことを考えつつ、唯は左手に持っていたアームドレイターを肩に担いだ。
片羽唯の日常は大きく変わった。基本的にソファで眠るようになったし、昼夜の感覚も曖昧だ。それもその筈、居住スペースは地下二階である。窓一つない部屋で、太陽を確認することなく目が醒めるせいだろう。
食事は片手で掴んで食べられる物を選ぶようになった。右腕は肩からなくなっており、左手での食事は未だに慣れない。箸がただの棒に感じられるし、フォークが便利ということを身体で感じる。結局おにぎりやサンドイッチが一番楽で早い。
地下一階にあるトレーニングスペースでは、主に基礎体力を底上げする運動をやらされつつ、サンドバッグになると言い換えた方が手っ取り早い戦闘訓練を行ったりもする。
自分よりも小柄な、見た目だけチビッ子なリンに殴られ蹴られる。それが実戦で意味があるかは分からないが、少なくとも当初よりまともに歩けるようになった。
訓練が終わると、部屋に戻ってシャワーを浴びるなり飯を食らうなり、インターネットの海に飛び込んだりと自由に過ごす。この辺りは、以前の日常に少し近いかも知れない。
唯は半分寝床と化したソファに腰掛けながら、自由に使っていいと渡されたタブレット端末でニュースを閲覧していた。夕方のニュースが、積み重なるようにしてラインナップされている。幾つか読んでいくが、化け物に関しての記事はない。
奥からはシャワーの音が聞こえている。同じ部屋で寝泊まりしている、年上の女性が使用中なのだ。もっとも、見た目は十一歳の少女であり、胸が高鳴るような要素はない。ない……と言い聞かせている。
すると、シャワーの水音とは別の音が響いてきた。分かりやすい足音、この拠点の主だろう。
ノックもなしに扉が開けられる。そこには予想通り、白衣を身に着けた男がいた。
底の知れない笑みを顔に貼り付けたまま、白衣の男は……ドクター・フェイスはこちらに視線を向ける。
蛇に睨まれた蛙の気持ちを追体験しながら、唯はシャワー室の方を指差す。リンはシャワー中だと伝えたつもりだったが、ドクター・フェイスは首を横に振った。
「君だよ。君に提案があってね」
ずかずかと部屋に入りながら、ドクター・フェイスはこちらを舐め回すように見ている。
「えっと、何ですか?」
タブレット端末をソファに置きながら、唯はその蛇の目と視線を絡める。正確には、向こうの視線が絡み付いてくる。
「進化する異形、アロガントとの戦いさ。君はもっと強くあるべきだ」
ドクター・フェイスの言葉は、どうにも要点が捉えづらい。唯は困り顔を隠そうともせず、ただ黙って次の言葉を待つ。
「僕に任せてみるのも手段の一つってことさ。アロガントは手強い。戦場で二人揃って餌になるより、強くなる道を選んでおくのも悪くない。だろう?」
部屋を歩き回りながら、ドクター・フェイスは自分だけが分かった状態で話を進める。真意は読めない。だが、言っている事は何となく察せる。
「俺とリンが強い、とまでは言いません。でも今の所、何の問題もないって思いますけど」
そう答えると、ドクター・フェイスは嬉しそうに身を乗り出して顔を近付ける。
「今の所は、ね。あれは進化するんだ。レリクトの特性を、最も貪欲に表現しているのがアロガントなのさ。レリクトは進化を内包している。僕の提案はそう悪いことじゃない。君はもっと強くなれる」
蛇の目、その圧が強くなる。唯の身体が、瞬く間に強張っていく。言葉も、呼吸すら封じられた……そんな感覚の中、急速に乾いていく喉がひゅうと鳴って。
扉を強く閉めた時の音が、部屋中に響いた。
言葉と呼吸を取り戻し、唯が音の方を見る。扉を力一杯閉めたのは、他でもないリンだった。
「ドクター。私は断った筈だけど」
「いやいや、本人に聞いてみても良いじゃないか」
いつものように冷たさを前面に押し出したリンと、いつものように飄々とそれを受け流すドクター・フェイスのやり取りが始まる。
蛇に睨まれた蛙の気持ちを痛感しながら、唯は新たな問題に直面し顔を伏せた。
「本人に聞く? 丸め込んで無理矢理選択させるの間違いでしょう」
「否定はしないよ。それに、僕のこれはそもそも善意だよ。僕にとっても君達にとっても、マイナスではない」
不毛なやり取りが続いていたが、唯はそれよりもシャワー上がりのリンを直視したことを後悔していた。別に不快だったとか、そういう話ではない。一瞬であるが故に、強く目の奥に焼き付いてしまったのだ。
先程までシャワーを浴びていた為、白い肌が僅かに生の色を取り戻していた。腰まである銀色の髪は、まだ湿っていたように見えたが。それらが身体に張り付き、いつも以上にきらきらしていたのだ。
そんな白と銀のグラデーションと化したリンを直視してしまい、自分は状況も忘れ困惑している。脳裏に焼き付いたその姿は、一糸纏わぬと表現するしかなかった。一髪というか全髪纏ってはいるのだが、一糸纏っていない事実は変わらない。
「はあ……ドクターは帰ったわ。唯、ちょっと。頭抱えてないで。大丈夫? 何もされなかった?」
左肩を掴まれ、はっと気付く。リンが声を掛けている。唯は目を開き、落ち着かない心持ちのまま顔を上げた。
息が詰まる。至近で心配そうにこちらを見ているリンの姿は、先程と何ら変わっていない。訂正するとしたら、銀髪は湿っているなんてもんじゃない。普通に濡れているし、床もびしょ濡れだ。
きっちり目を閉じ、唯は必死に言葉を組み立てる。顔が熱い。
「とに、かく。大丈夫だから、何か着て。いや身体を拭いて。そっちが大丈夫になったら教えて。俺はここから動かない」
瞼の裏には、しっかり焼き付いてしまった白と銀が浮かんでいた。こっちの心労を知ってか知らずか、リンの溜息が至近で聞こえる。
「あのね、冷静に考えなさい。第二次性徴初期の身体なんて、今の貴方からしたら意識する方がおかしいわ。貴方十七歳でしょ?」
「リンは二十八歳だよね! なんか着て!」
訴えが通じたのか、ぺたぺたとした足音は遠ざかっていった。
少しの沈黙と扉の開閉音を経て、再びぺたぺた音が聞こえてくる。
「ほら、目を開けてもいいわ」
言われた通り目を開ける。呆れ顔を浮かべたリンは、飾り気のないショーツだけを身に着け、バスタオルで髪をごしごしとやっていた。
最低限の‘着た’を満たしているのかどうか甚だ疑問だったが、どっと押し寄せた疲労の方が勝った。唯は肩を落とし、視線から外す事で決着を付ける。
不服そうな雰囲気を感じ取ったのか、リンが再度溜息を吐く。
「髪を乾かさないと何を着てもびしょ濡れでしょ。誰の為に飛び出して来たと思ってるの」
どういうことかと、唯はリンの方をちらと見た。白い背中、腰まで伸びた銀髪は、まだ湿り気を残している。小振りなお尻を包むショーツは、本人が言う通り湿って肌に張り付いていた。
「ドクター・フェイスがそそのかしに来てたでしょ? 彼のペースに持ち込まれたら、そのまま全身サイボーグよ。ドクターは貴方の身体に執着してない。より強くする為に、生の部分は極力取り除いたり、余計な物をくっつけたりされるわ」
それは何ともおっかない話だと、唯は口をへの字に結ぶ。
「じゃあ、リンは俺を助ける為にそんなとんでもない格好で出て来たの?」
「そこまで異常な格好をしている認識はないわ。さっきも言ったけど、髪が乾かないと困るから。シャワーの後はこんなものでしょ」
そうなのかと納得していいのか、唯は少し考える。格好はともかく、自分を助ける為の行動なのは間違いない。
「えっと、助けてくれてありがとう。床とか拭くよ」
唯は立ち上がり、手近な場所にあるタオルを左手で掴む。リンが歩き、水を滴らせている箇所を拭っていく。
リンはバスタオルを頭に引っ掛けたまま、小さな冷蔵庫まで歩く。中から琥珀色の液体が入った瓶……恐らくウイスキーだろう瓶と、炭酸水のペットボトルを掴んで自身の机に置いた。
「床は適当でいいわ。それよりグラスと氷が欲しい」
リクエストを受け、唯はタオルをそこらへ放る。リンの冷蔵庫まで歩き、上の段を開く。中には幾つかのグラスと山盛りの氷が押し込まれていた。グラスに氷を幾つか落とすと、特徴的な快音が響く。左手でグラスを掴み、リンの所まで持っていった。
「ありがと」
リンは礼を言うと、目分量でウイスキーと炭酸水をグラスに注ぐ。蓋を閉める前に、ウイスキーの方は直に口を付けて少しだけ飲んでいた。
見た目が幼い事も相俟って、脳裏に浮かんだのは風呂上がりに牛乳の瓶を一気飲みする子どもの姿だったが。目の前で行われているそれはしっかりウイスキー、お酒である。
「……お酒おいしい?」
見た目のインパクトとギャップ、動作のおじさん臭さと心地よい石鹸の香り、目の前の光景を丸ごと処理して出て来たのがその言葉だった。
「飲みたいならあげるけど」
そう返しながら、リンは瓶を置くとグラスに持ち替える。そこに満ちた琥珀を口に含み、貴方も取ってきたら? と言わんばかりの目をしながら冷蔵庫を指差した。




