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3/4

3 そこはやっぱり商売だったんだ

 次の日も、更にその次の日も、その次の日も、次の日も…

 私は会社へ向かった。


 労災申請、やらなくちゃいけないと思いつつ、毎日終電ギリギリまでの残業続き。


 もう休日なんて関係ない。

 週末で心が休まるときなんてない。


 少しでも寝なくちゃと思うと、とても時間が作れない。


 スマホからの呼び出し音が聞こえるたびに、心臓がバクバクと音を立てる。


 朝も夜も休日も関係なく、会社からの呼び出し音が聞こえる。

 

 ああ……また、呼び出し音が聞こえる。


 寝ようとすると、呼び出し音で目を覚ます。


 出なくちゃ…。


 死にたい。

 吐きそう。

 頭が痛い。

 胸が苦しい。


 早く、早く私を殺して。


 死んでしまえば、もう着信記録を見なくてもいい。



 でも現実はそうはいかない。


 動かない身体を必死に動かし、スマホを探すと、呼び出し音が消える。

 


 見たくない。


 見なくても分かる。

 会社から。上司から。



『死ぬ、のは手段でしょ』


 新井弁護士はそう言っていた。


 そうかも知れない。



 死んでしまえば、もう会社からの呼び出しに応じなくていい。

 書類に不備があったといって、真夜中に呼び出されなくていい。

 急の仕事だからといって、休みを返上して会社に行かなくていい。

 もう上司からのため息混じりの諦めの言葉を聞かなくていい。


「あんたね、給料もらってるんだから」

 そう言って、不満そうに私の書類を受け取る上司の顔を見なくていい。


 このまま動かなくていい。


 そう。


 私が死にたいと思うのは、そういったもの全部から逃げたいから。


 …そうか。

 死ぬことは手段だったんだね。



 でも…

 でも、逃げられない。


 私は逃げられない。


 だから、死にたい

 死にたい、逃げたい


 逃げたい逃げたい逃げたい

 死んだら逃げられる

 逃げたい死にたい

 逃げたい逃げたい……








「仕事を辞めることは考えていないのですか?」


 そう問われて我に返る。

 目の前には、新井弁護士がいた。



 あれ…?

 私はいつの間にまたここに来てしまっていたの?

 家にいたと思ったのに…。


 ダメだ。

 記憶があやふやになっている。



 そういえば、もう何度

 この『御鳥法律事務所』に来たんだろう。


 気が付くとここにいる。



 仕事のことや、日常のこと

 既に何度もここで話しているような気がする。

 


 だけど、記憶がハッキリしない。

『デパス』の影響だってことは分かっているけれど…。


 この怪しい弁護士が私を縛っているんじゃないの…?

 料金も取らずに私の相手をするとか、なにかおかしいよ。


 光のない目が怖い。

 今までもずっと、深刻な話をしていても笑顔のまま。

 それって怖いことじゃない…?


 この弁護士から逃げたい。

 だけど、始めに言われたように

『契約書』を交わすまで、私は逃げられないのかも知れない。



 それに、この弁護士…

 新井弁護士は私の何かをえぐり出してくる。




「先生、確かに先生の言うとおり、死ぬことは手段だったのかも知れません」


 私はそれに気が付いてしまった。


「ですが、他に方法がないんです。恐らく先生は仕事を辞めればいいとおっしゃりたいのだと思いますけど…」


 死にたいとばかり考えていたけれど

 死ぬことは逃げるための手段だった。

 だって、死ぬことを考えているときだけは私は逃げ道が見えていたから。


 『死ぬ』という逃げ道を見て、安心していたかったの。


 だって、仕事はやめられない。

 手段は他にない。


 だから、死にたい。



「他の方法、本当になかったですか? ずっと以前から」



 他の手段……か。

 


 そうだ。


 以前、考えたこと、あった…。



「先生、思い出しました。

 以前に退職願を出そうとしたことがあるんです」


 半年ほど前だろうか。

 この仕事を辞めたからといって次の仕事がみつかるわけではないけれど、さすがにもう限界だと思った。


 だから退職願を書いて上司に持って行ったんだっけ。



「それでまだ退職していないんですか」


「退職願は受け取れないって言われました」


「それで引っ込めたの?」


「ええ。まあ。上司が言うには ちゃんと仕事の引継ぎが終わってからでないと退職願は受け取れないとのことです」



 そう言われたから、一時期は何とか受け持ちの仕事を引継ぎしようと思って必死に毎日ムリして残業して仕事を続けたことがあった。


 けれど、人員が足りないから引継ぎしたくても、引き継げる相手がいない。

 その上、新しい仕事は次々に積みあがってくる。


 これはいくらやっても引継ぎは終わらない。

 これ以上、引継ぎ作業をしようとすると家に戻る時間すらない。


 連日の残業でクタクタになってしまって、引継ぎをすることをあきらめた。


 そして私は退職を考えるのをやめた。

 どうせ無理なことなら、考えても苦しいだけ。


 逃げようとした逃げ道が塞がれた。

 それはあまりに辛くて、逃げることを考えなくなった。



「結局、退職届は出していないと?」


 新井弁護士の言うとおり、結局は退職願を出すことすらできなかった。


「そうです…。でも引継ぎをやらずに私がいきなり仕事を辞めてしまってはあとの人は困るだろうし、取引先も勝手が分からなくて困ってしまうと言われました。それもそうですから」


「あとの人や取引先の心配できるほどあなたに余裕があるとは思えませんがね」


 イヤミかな。

 余裕なんて勿論なかった。


 だけど責任というものがある。それに



「引継ぎを終えずに辞めたりして会社やお客さんに迷惑がかかったら損害賠償を請求されるよ、とも言われましたし」


 それがイヤであれば引継ぎを終わらせてからじゃないと退職届は受け取れないと言われた。

 お金なんてないのに、賠償金なんてとても私には払えない。


「あんなに大変な引継ぎ作業を続けてまで仕事を辞めるのは、今は無理です」


 私だって頑張った。でもできない。

 なんてダメなんだろう私って。



「今は? じゃあいつかは辞めるつもり?」


「…多分、私がすごく頑張れば引継ぎできるタイミングが来ると思うんです。

 だからそれまでの間耐えられれば良いので…」


「いつ頃ですかね?」


「え…わかりませんけど。

 でもきっとすぐです。がんばります。

 だから今は、デパスがあれば頑張れます。

 それでなんとか毎日乗り切れればって…」



 頑張れば、私が頑張っていれば…

 ダメな私、だけど頑張ればいつか…。

 



「ふうん…? 新しい仕事は入ってきていない?」


「入ってきています。だって会社にいてデスクについていれば仕事って来ちゃうものですから」


「そっちの引継ぎは?」


「もちろん、それもやらなくちゃいけないと思っています」



 新井弁護士が何を言いたいのか、分からないこともない。


 私がバカだって言いたいんだろうな。

 なんで私、こんな相談しちゃってるんだろ。



「すぐに仕事が辞められないと」

「…そうです」


「でも、辞めたいんですよね」


 それは…


「会社からの呼び出しもなく、損害賠償を請求されることもなく。

 キレイサッパリ辞められるなら辞めたいでしょ?」



 辞めたい




「退職代行って聞いたことありませんか?」








 ・・・・・・・・あはは。


 …なあんだ。

 分かっちゃった。


 つまりアレ。


 この法律事務所は、きっと流行りの退職代行をやるところなんだ。


「受任」ってそれのことだったんだな。


 この弁護士は私に退職代行を頼ませたいんだ。



 この新井弁護士。

 相談料は要らないっていうし、何を考えているのか分からなくて気味が悪かった。

 人の好さそうな笑顔とは裏腹に、やっぱり瞳の黒目は光を反射せず深い闇のようで怖い。


 けど、意図が分かれば、さっきまでの得体の知れない怖さは感じない。

 


「先生、最初からそのつもりだったんですね?

 私に退職代行を依頼させるつもりで」


 なんだか愉快な気分になってきた。

 この人も仕事をしていただけなんだ。

 


「退職代行を僕に頼むの、悪くないと思いますよ。

 あなた退職するのに引継ぎが必要で、退職届を受理させるのが大変だから退職するハードルが高いと思ってるんでしょ。

 でも僕に任せてくれれば、もう明日から会社に行かなくて良いんです」


 ふふ。セールストークと分かっちゃえばね。

 営業スマイルご苦労さま。


 って、ちょっと?


「明日から会社に行かなくていい?」


 いくらなんでも、それは急過ぎない?


「ええ明日から。

 退職の日まで有給休暇を使えばいい」


「そんな…、有給休暇なんてそう簡単に取れるわけが…」


「取れます。有給休暇を取るのは労働者の権利だし。

 話を聞く限りあなたにはたっぷり有給休暇が残ってる」


「でも、引継ぎしないで私が休んで、会社が黙ってるわけがないです。

 毎日電話が来ますよ」


「僕が会社に受任通知を出してしまえば、会社はもうあなたに連絡を取ることは出来ません。

 もしもこれに反してあなたに連絡を取ろうとしたら僕が痛い目に遭わせてあげます」


 まるでおもちゃを弄んで楽しむような笑顔。



「で、でも会社からスマホに連絡が…」


「あなたへの連絡は僕が全部引き受けます。

 そうですね、もしあなたが構わないのでしたら僕にスマホを預けてください」


 スマホに連絡してくるのなんて会社の上司くらいだから別にそれでも構わないんだけど…。


「でも、引継ぎしないで会社を辞めたら裁判とか起こされるって…」


 何百万円とか何千万円も請求されるって聞いたことがある。

 そんなお金は払えない。


「ふふっ、ふふふ…。裁判、起こされないと思いますけどねぇ」

「なんでですか?」


「だって、裁判起こしたってあなたから賠償金が取れる見込みなんて一ミリもないんですから。

 上司はあなたを脅すために言っただけですよ。

 脅しておけばあなたが退職届を引っ込めると思ってね」


「そ、そうなんですか?」


「だって、裁判起こされたりしたらさすがにあなただって弁護士つけるでしょ。

 弁護士がついた相手に勝てる見込みのない裁判起こすほど会社もヒマじゃないと思いますよ。

 それどころか不払い残業代請求を反訴請求されたりして要らない藪蛇やぶへびになるだけだし」



 これが新井弁護士の本性なのかな。

 なんだか相手を叩き伏せるのが楽しみでならないという感じ。



「労働者の無知に付け込んで脅して言うことをきかせようなんて卑怯な経営、許しちゃいけないと僕は思うんですよ。

 あなたさえ良ければとっても楽しいことにしてみますよ?」


 弁護士こわっ…



 怖い…けど、でも、任せて良いような気がしてきた。



「先生、でも私、仕事辞めたらどうしたらいいのか…」


「それなんですけどね。

 失業給付金も出ますし、退職金やら何やら会社からもぎ取ることもできるでしょうけど。

 その給付が来るまでの間の期間もありますからね」


 その間、生活できればいいってこと…?

 どうかな…。


「せめてその間くらい親御さん頼れませんか?

 メールとか着信があったでしょ」


 そういえば…メールが来ていたっけ。


「ええ、メールは読んでいないんですけど…」


 いろいろわずらわしく聞いてくるようなメールだと思ったから、開くのが怖かった。



「読んでみませんか?」


 そう言って新井先生は私のスマホを私に向けて差し出した。


 あれ?いつの間にスマホを先生に渡してたんだろ。


 まあいいか…。

 記憶があやふやなのは最近いつもなんだし。


 促されるまま、母からのメールを開いてみた。



¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨


 件名: メールで送るね    

 From: おかあさん

 To:  あかね



『 あかね


 電話をしても出ないから、メールも送ります。


 忙しく働いてて大変ね。


 でも、向いていない仕事なら、無理して続けることはないのよ。


 いつでもうちに戻ってきなさい。


  会社なんてやめても大丈夫。


 お父さんもそう言ってます。


 うちでゆっくり休んで、その後また就職活動すればいいじゃないの。


 また電話しますね 


 おかあさんより  』



¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨



 おかあさん…?

 他にも何通か来てる…。




¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨


 件名: おつかれさま    

 From: おかあさん

 To:  あかね



『 あかね


 あなたの仲良しな友達の早紀ちゃんがうちに来ました。


 あなたが疲れている様子だったのをとても心配していました。


 ゆっくり休めるように、お母さんからも言って欲しいって言われました。


 あかねがそんなに大変だなんて、全然気が付かなくてごめんなさいね。


 いつでも帰ってきていいからね。


 おかあさんより。



 追伸。おとうさん、メール打てなくて困ってるけど、

 

 あなたが帰ってきたら一緒に買い物に行こうって言ってます。


 センスのあるあかねに服を選んで欲しいって。  』



¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨




 お母さん…

 お父さん…


 それに、早紀ちゃん…。



 他のメールも、優しいメールばかりだった。





 私はなぜ、母が私のことを追い詰めると思っていたんだろう。


 どうして、早紀ちゃんに私は見下されているなんて思ってしまったんだろう。

 こんなに心配してくれていたのに。



 目からポロポロと涙がこぼれ落ちていた。



 私は酷い。




 ごめんなさいおかあさん。

 着信すら無視してゴメン。


 早紀ちゃんも、私、あんなに酷いことを言ったのに…。

 私のこと、心配して

 地元にまで戻ってうちのおかあさんに会いに行ってくれたんだ。


 そうだよね。

 デパスがなくちゃ動けないなんて、異常だよね。

 こんな生活、続けたらもっと心配かけちゃう。



 私は手で涙をぬぐって、新井弁護士に向き合った。



「先生、私、会社やめたいです。

 先生にお願いしたら会社ちゃんとやめられますか」


「もちろんです。退職代行、お任せください」


 新井先生は優しく微笑んでテーブルの上に契約書の用紙を差し出した。




 私はその場で契約書を取り交わした。







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