2 精神安定剤『デパス』の副作用
その日、私はまた『御鳥法律事務所』の前に立っていた。
どうやってここに来たのか、またも私は憶えていなかった。
スマホがなくて、探していたんだった。
会社にもなかったみたいだから、ここに忘れてきたのかも。
そう思っていたら、知らずに来てしまっていたみたい。
インターフォンを押すと、今回もまた、新井弁護士が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「あの、私、スマホ忘れていませんでしたか?」
「ええ。預かってますよ」
やっぱりここだった。良かった。
新井弁護士に促されるままに、中に入り、ソファに腰かける。
「ちょっと待ってて」
新井弁護士が奥から戻ってくると、手には私のスマホがあった。
「あ、それです」
「確かにお返ししましたよ。手元にないと不便でしょう」
「え、ええ。まあ」
着信を見るのが怖い。
いつも着信履歴を薄目で目を通しているくらいなんだから。
「気になってるなら、今ここで中を見て構いませんよ」
言われるまま、私はロック解除パターンを指でスライドさせてスマホを開いた。
・・・・・・・。
相変わらずズラリと並ぶ会社からの着信。
それに会社からのメール。
「会社からですか?」
と、新井弁護士。
「他からは?」
他?
言われてスクロールを流してみると、会社からの着信の間に何度か母からの着信が入っていた。
そういえばメールもある。
「母からのメールが来てたみたいです」
「見ないんですか?」
「…母からは、どうせ『今どうしてる』だの『ちゃんとやってるの』だのと、そういう質問ばっかりだと思いますから」
疲れているの。
だから今はそんな母からの質問に答える気もなくて、メールを見たくなかった。
新井弁護士は私の顔をじっと見つめた。
なに急に。
「失礼ですけど、随分あなた、顔色が悪いです」
「え…。そうですか」
化粧で隠していたつもりだったけど、寝不足で目の下に酷いクマが出来ていることも分かっちゃうものか。そんなにジロジロ見ないで欲しい。
「あなたはこのまま、デパスを処方されながらその仕事を続けるつもりなんですか」
「ええ、まあ。働かなければ生きていけないですし…」
「なるほど。ただね、労災の申請を考えるということは、あなたの不眠は仕事が原因で起こっているとわかっているわけですよね」
・・・そうかもしれない。
『労災』を考えるということは仕事が原因であると自分が考えていたからだ。
「仕事が原因の不眠であれば そのまま睡眠薬をもらって仕事を続けることは あなたにとって良いことは思えないのですが」
そんなことは分かってる。
早紀ちゃんにも同じことを言われた。
早紀ちゃん、私と同郷の昔からの友達。
東京に出てからも、たびたび会っていた。私の仕事が忙しくてお茶するくらいしかできなかったけど。
だけど、あの子は変わってしまった。
地元にいたときには、あんなに無神経な子じゃなかったのに。
それを思い出して、胸が痛む気持ちが蘇ってきた。
でも仕事ってそういうもの。
良いとか悪いとかじゃなくて。
『やらなくちゃいけないこと』。
確かに、毎朝薬がなければ起き上がれないような状態はキツいと思ってる。
でもどうしようもない。
私だって抜けられるものならこの状況から抜け出したい。
だけど早紀ちゃんみたいに、夢を叶えてデザイナーとしてバリバリ働いてる人には分からない。
私みたいに、なんとか入れる会社に入って生計を繋いでる人間の気持ちなんて分からないよ。
『精神安定剤がなくちゃ続けられない仕事なんておかしいよ。そんな働き方じゃ身体を壊しちゃう。辞めて他の仕事探した方がいいって!』
最後に会ったとき、早紀ちゃんはそう言った。
簡単に会社を辞めろなんて。
そんな無責任なことを言うなんて。
好きで続けてるわけじゃないのに。
私は生活のために働いている。
他人事だと思って勝手なことを言う。
好きなことを仕事にしてる人には、こんな私はさぞかし滑稽に見えるんだろうけどね。
私の気持ちなんて分かろうともしてくれない。
「ひどい! そんなこと言われたくない。もう友達でもなんでもない。二度と連絡しないで!」
そう言って別れた。
あれから、私からは連絡を取っていない。
もう、早紀ちゃんとは道が別れてしまったんだ。
弁護士の先生だって同じ。
簡単に大金が儲かる仕事してる勝ち組の人。
私みたいに仕方なく仕事をしている人のことなんてどうせ見下してる。
そう口にこそ出さなかったけれど、私は新井弁護士を睨みつけた。
けれど新井弁護士はやはり何も動じる様子を見せない。
ただ笑顔で黙っていた。
沈黙の空気が流れる。
時間にしたら30秒くらいだろうか。
「あなたにはお母さんがいらっしゃるんですよね? ほかにご家族は?」
新井弁護士がそう口にした。
…私が落ち着くのを待ったのか。
「…田舎に、父もいます」
「そうですか。仕事を辞めてご両親を頼ることは考えてませんか?」
「そんなこと…」
「ご両親に弱ってるところを見せたくない? 迷惑かけたくない?」
それもあるけど…
「仕事を辞めたなんて言ったら、また無責任だのなんだのって非難されそうで…」
「お母さん、心配していませんか?」
母からの着信が何件か来ていた。
心配?なのかは知らない。
単に干渉したいだけなのかも。
「先生は両親を頼って会社を辞めろとおっしゃるんですか?」
「頼りたくないならそれもいいでしょう。ただ、頼れる相手がいるなら頼った方が辞めやすいとは思いますよ」
「……辞めずに何とかしたいです」
「んん……。職場環境に納得いかない場合、辞める他にもいろいろ採れる手段がないとは言いません」
「じゃあ、それ……、教えていただけませんか?」
辞めようと思って辞められるものじゃないんだから……。
「法的に解決できることは時間とともに狭まっていくんです。事態が進行すればするほど取れる手段は限られてくる。残念ですが、あなたの今の状況で取れる手段はとても少ないでしょうね」
そういうものだろうか。時効ってやつかな。
「もうちょっと早ければ 待遇を改善するなり 職場環境を変えるなり 色々やれたと思うんですけどね」
「そんなことができるんですか。今からでも頼めばやってくれるんですか」
新井弁護士は首を横に振った。
「今さら遅いです」
酷いこと言う。
ざまあとか思ってない?
「あ、いえね。あなたもう限界じゃないですか。待遇改善なりなんなりは心身共に余裕がある状況でないととても耐えられないんですよ。長期戦にもなりますしね」
遅いって、そういうことか。
確かに長期戦と言われればそれは耐えられない。
毎日その日仕事に行くことだけを考えることしかできないのに。
今日を乗り切ることで精一杯なのに、明日、明後日、ずっと…朝起きて 仕事に行くことができるかと言われると…。
もう明日以降のことは考えたくもない。
だから……、死にたい。
死にたい、死にたい…
死にたいよう…
早く死にたい…
死にたい
死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいたい、たい…
たいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい死ニたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいシニタイたいたいたいたいたいたいたい死にたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいた痛いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたイタイいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい、た…い、たい…タいたい…
______________
あれから、どうやって帰ってきたのか。
やっぱり今日も覚えていない。
「あなたもう限界じゃないですか」
新井弁護士がそう言ったように、私は限界なんだろうか。
こんな記憶が飛んでしまうなんて…。
でも、これは単なる『デパス』の副作用。
デパスがないと仕事に行けないんだから。
これくらいの副作用とは折り合いをつけていけば大丈夫。
まだだいじょうぶ、だいじょうぶ…
ワタシはマダ、ダイジョウブ…
着信音ガ聞コエル…
会社から…
また私は呼び出されるの…
今度は何を言われるの…?
スマホ、見なくちゃ…。
「あれ…。またスマホがない…」
おかしいな。
さっきまでスマホから着信音が聞こえていたと思ったのに。
スマホがないなんて。
音、気のせいだったのかな。
さっき、新井先生に返してもらったのが、スマホを見た最後のときだったような…。
また、あの法律事務所に忘れてきてしまったのか。
忘れていったスマホを受け取りに行ったハズなのに、そのスマホを忘れてくるとか……。
なんのために行ったんだろ。
またスマホを取りに行かないと…。
時間、ないのに…。
少しでも、寝ておかないとダメなのに…。
寝なくちゃ…
寝ないと…
少しでも、寝ないと…
寝ておかないと…
早く、ちょっとでも…
眠れない…
眠れないよう…
眠りたい。
眠りたい。
永遠に。
寝たら目を覚ましたくない。
そのまま死んでいればいいのに。
だけど目が覚めてしまう。
死にたい。
______________
「はい。スマホ」
新井弁護士から、今回もスマホを渡された。
そそっかしく毎回スマホを忘れていくんだから、変に思われてるんだろうなぁ。
そこはさすがにプロというべきか、新井弁護士はそんな様子を態度には出さない。
前回同様に応接室に通された。
「あれからも毎日会社に行ってるんですか?」
「…当たり前です」
普通、仕事ってそういうものでしょ。
本当は週末にでも労災申請書類を用意したい。
こんな場所にいるのは時間がもったいない。早く帰りたいのに。
「あ、そうだ。新井先生。そろそろ相談料を払わないと」
一応労災の話は聞けたし、あんまり無料で話を何度も聞かせてもらうのは気が引ける。
それにこの弁護士、なんだか薄気味悪い。
さっさと相談料を支払ってしまわないと縁が切れないような気さえする。
「相談料は要らないですよ」
今回も新井弁護士はそう言って断った。
なにか私に変な呪いでもかけてるんじゃないの…?
それとも単に商売っけのない儲からない弁護士なのかな?
「ねえ、池原さん」
「はい?」
そういえば私、先生に名前を名乗ってたっけ…?
ダメだなぁ。ホントに最近、ぼーっとしちゃって。
こんなんだから上司にいろいろ言われてしまうんだ。
私がダメだから、何を言われても仕方ない。
結局、残業や休日出勤が多くなってるのだって、私に能力がないからで…。
「改めて、よく考えてみてください。あなたの本当の希望は何ですか」
この弁護士は何を聞いてくるんだろう。
改めても何も、始めから言ってる。
「希望は もちろん 労災をもらうことです」
「違うでしょ。労災は薬代のためなんですよね? で、薬を飲むのは仕事を続けるため。ということはあなたの望みは仕事を続ける事なんですか? そんなに仕事が続けたいですか」
「そんなわけないじゃないですか」
イラっとくる。
仕事をするのは仕方がないから。
「ね? もっとよく考えてくださいよ。労災のお金が降りて薬が買えて仕事が続けられる、それがあなたの本当の望みなんですか? その望みが叶えば満足なんですか」
「もちろん満足じゃありませんけど…。でも本当に望むことは言っちゃいけないことですから」
「言っていいんですよ。弁護士は守秘義務がありますから絶対に誰にも漏れません。あなたの本当の望みは何ですか?」
「私の… 望みは…」
言ってはいけない。
それを言っては、ダメ。
だけど、聞いてくれるというなら…。
誰かに聞いて欲しいと思ってた。
「死にたいです」
呟くような小声だったけど、言ってしまった。
これが願い。
だって毎日毎晩願ってる。
『死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい』
こんなにも願っている。
通勤中も、食事時も、何をしていてもずっと願っている。
私の願い。
だけど、言ってはいけないことだった。
死にたいなんて、気持ち悪いと思われる。
そう思うでしょ…?
新井弁護士の表情をうかがってみる。
「んー」
口に軽く手を当てて、首を傾けて。
「違うな」と、表情でそう言っている。
こっちはすごく思い切って言ったのに、まったく深刻さを感じないんですけど……。
ま…引かれるよりはマシか。
「そんなに死にたいですか?」
強く、そう願っています。
それ以外の願いはないくらいに。
「死んでもね、楽にはなれないですよ」
なに分かったようなこと言ってるの。
死んだこともないクセに。
死ねば楽になれると思うけど?
もう仕事にも行かなくていいし、会社からの着信に怯えなくてもいい。
生活のために働く必要もないし、再就職を考えることもない。
全てが無になるの。
なんてステキ。
何も考えなくていい。
眠れない苦しみも消える。
消える。全部。
「消えませんから」
新井先生はまるで私の考えを読むかのようにそんなことを言ってきた。
「あなた、死にたいって言ってるけど、本当は違いますよね」
なにそれ?
本気にしてないってこと?
私は必死の思いで口にしたのに、本気すら伝わらないの?
「違うなんてないです! だって…」
だって、毎晩毎晩毎晩
眠るのが怖い。明日が来なければいい。
だから眠れない。
朝が来る前に、死んでしまってたらどんなにいいだろう。
そう思いながらデパスを飲む。
そして毎朝。
起き上がれない。苦しい。
起き上がるべきなのは分かっているのに体が動かない。
「死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい」
そう考えながら、会社に向かう。
こんなにも願っている。
「違うでしょ。死にたいんじゃない。『死ぬ』のは手段でしょ」
手段…
「あなたは、死ねばそれが手に入ると思ってる」
『それ』…?
「よく考えて、まとまったらまたいらっしゃい。でも繰り返し言うけど」
「 死んでも『ソレ』は永遠に手に入らない。 」