旅籠のお花
お花は居た
月明かりの下、客のいない部屋を通り越して階段を下りていく大将の後ろをこっそりとついて行く太郎は、遠くから聞こえたお花ちゃんらしき声がはっきりと聞こえてくるのがわかった。
それと同時にお花ちゃんの母親らしき人の声も聞こえてくる。
お花、おまえ、どうしちゃったんだい。お花ってば。
聞こえない?ねぇ、おっかさん、ほら、聞こえるでしょ?
何も聞こえちゃいないよ。お花。
するとお花は怒りだし、おっかさんは私の幸せが何かわかっているの?
と聞いた。母親らしき人はわからないと答えた。
太郎はその声の主が本当にお花ちゃんかどうか見に行ったら、お花だった。両手、両足に縄がかけられていた。
お花、どうしてあんた、気がふれちゃったんだい?声なんて聞こえないよ。ねぇお花、お花。
お花は、また誰もいないのに誰かと会話をし始めてしまった。その様子はなんとなくだが楽しそうにもみえた。
太郎は黙ってそこから離れた。
部屋に戻った太郎は、言葉なく座り込んだ。
どうした?太郎?
お花ちゃん、気がふれちまっている。誰もいないのに誰かと話していた。どっか行っちまうのか手と足に紐がくくりつけられていたよ。俺、そこから黙って帰ってきた。
太郎、お花ちゃんは2、3日、旅行に行ってんだよ。2、3日したら帰ってくるさ。また帰りにここへ寄って帰ろうじゃねえか。きっと元気に笑うお花ちゃんに会えるさ。
会えるかな?また本当にお花ちゃんに会えるかな?
わかんねー。
鎌太郎は最後はそう言って笑った。
失礼しますよ。
と、大将がお酒とアテをさげて部屋へと入ってきた。飯時には少し早いのですが、それまでこちらで。
と酒を見せた。そして太郎に言った。
あとをつけてきてましたね。
太郎は頷いた。
どんな人だってある日突然そんな風に気がふれてしまうことがある。それは他人からみたら小さな小さな事でも、本人には大きな事で、その事を受け入れられなくて気がふれてしまう。
現実から逃げたくて幻を作り出す。そこが一番居心地の良い場所に感じてその幻のなかへ逃げ込んでしまう。それが今のお花です。腕の良い医者に見せたところ、そんな風に言っておりました。
治るんですか?
良くはなっても治りません。またなるかもわかりません。
良くなるなら良かった。なったらまた治せばいい。
鎌太郎はそう言った。
私ども達があの世へ行き、あの子が1人になってしまったらあの子はどうなってしまうだろうと思う事がございます。
大将は少し力なく笑い、頭を摩りながら、
そんなことを考えるからでしょうか。頭の毛が真っ白になってしまった。
、、、。
鎌太郎たちは黙って酒を飲んだ。
いつも笑顔で迎えてくれたお花の事を思うと言葉が何も見つからない。ただ思うのは早く良くなってまたあの笑顔が見れたならと願うばかり。
見れるかどうかはわからないが、鎌太郎は大将に言った。
帰りにまたここへ寄って帰ります。お花ちゃんの笑顔が見たいですから。
大将はありがとうございますと頭を下げた。
次の朝早く、鎌太郎たちは江戸へと旅立った。
雲一つない晴れ渡った空を見上げたら、絵に描いたように美しい富士山が見えた。
3人は手を合わせ、顔を上げた。
明日には絶対に江戸に着くぞ!
兄貴、それはちょっと無理。
いや!着く!
兄弟、無理!
そうだな。のんびり行こうか。
3人の旅はまだまだ続くのであった。
綺麗な富士山が旅のお供に加わった。




