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デリアの世界   作者: 野原いっぱい
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異郷(三)

   (三)

挿絵(By みてみん)


デリアにとって待ちわびた春の到来。山の中腹から裾野にかけて積もった雪も大半が解け、冷水がはるか原野に流れ込んでいく。今までひっそりと巣穴にこもっていた生き物が活発に動き始め、周囲に明るさと躍動感が蘇ってくる。草花の開花とともに、白一色の世界が徐々にカラフルな自然の状景へと移り変わっていくだろう。

今しも彼女は、長期の屋外生活に必須の荷物を詰め込んだリュックを背にして、未踏の地への冒険に単身出発しようとしていた。即ち人間に似た知的な生命体を発見することを目的として、はるか彼方にそびえる高峰の反対側を目指す旅の始まりであった。

どれくらい日程を要するか想像もつかず、戻って来られるかも定かではなかった。また、辿り着くためにはかなりの危険を覚悟しなければならず、仮に着いたとしても無人の荒地である恐れもあった。けれども彼女の決心は翻らなかった。いや、以前にも増してまだ見ぬ異郷への思慕が強くなっていく。

もしかしたら素晴らしい発見と出会いがあるかもしれないとの期待感が、孤独を鎮める心の支えでもあった。

宇宙船が雪に囲まれた冬の間、来るべき旅立ちの準備に余念がなかった。短期間ではあったが探査のために船から離れて過ごした経験は大変役にたった。今度は途方も無く長期になるため、有用な所持品をピックアップしていった。そして、山林や沢の登降に関する注意点、食料調達の方法、大自然で生存していく上での便利な項目、緊急治療法等、必要と思われるあらゆる知識を頭に叩き込んだ。もし現地人がいた場合の接触の仕方、言葉の問題や生活習慣、早く順応するためのポイント、様々な知識の伝達手段等についてもレアの助けを借りて学んでいった。

そして長い冬季もようやく終わり、出立の日がやってきたのであった。


「じゃあ、レア行くわよ。色々助けてもらって有難う。でもお別れじゃあないわね。必ず戻って来るわ。もしママや仲間のことで分かった事があったら、どんな方法でもいいから知らせてね」


『了解しました。お知らせすべき事があれば連絡手段を検討します』


「おちびちゃん達も元気でね。私も決して忘れたりしないわ」


デリアは双子犬に向かって声を掛けた。二匹とも、別れの時を察知したのか幾分寂しそうであった。そして、彼女は我が家同然の住み慣れた宇宙船に名残惜しみながら、山を降り始めた。

再会を誓ったものの、戻って来られるという確証はなかった。彼女にとって今度は本当の意味での未知の世界への旅立ちであった。





ムラトの一族が放浪を繰り返した末、新たな土地に居を構えてから数ヶ月が経った。

大雨により村全体が水害で消滅する悲劇に見舞われた教訓を念頭に置き、祈祷師の進言を受け入れて、川から離れた高台に家屋が建てられた。背後は奥深い山裾の森林地帯で、一族総出で木々を切り出し、雨露を凌げる程度の応急的な村の造成が急ピッチで進められた。

その甲斐あって本格的な冬の訪れの前に普請作業も一段落し、住居としての体裁が一応整ったのである。


族長であった最愛の夫マロンと娘のカリンを、村を襲った洪水によって一度に亡くしたサラは、二人を死地に行かせてしまった後悔の念と深い悲しみのあまり、食べ物も喉を通らず、一時すっかり衰弱し体力が劣えて回りの者を心配させたが、熱心な世話と温かい励ましによって、少しづつ立ち直る兆しが見え始めた。けれども以前のような明るく誰からも慕われる温和な性格は影を潜め、内にこもるようになってしまった。たまに親しい者との会話に加わっても、心弾まず、一人になると涙ぐみ放心状態が続いている。誰の目から見ても元に戻るのは時間がかかるのは間違いなかった。

 ムラトも同様にショックで虚脱感が心を覆ったが、若いだけに回復も早かった。ただ、考える時間が多いと、家族の不幸を意識するため、出来るだけ体を動かして忘れるように努めた。そして懸命に新しい村の建築を手伝い、日常の仕事を覚えていった。

しかしながら彼にとって頭の空白を埋めるために何かが不足していた。

もはや手の届かなくなった父親や妹に対する変わらぬ愛情を確かなものにし、母親を元気づける何かが必要であった。


 ある日、ムラトは一人で周辺の土地の見回りに出かけた。泉の湧き出る谷間を抜けて虹の見える丘に差し掛かったとき、野生馬の一群と遭遇した。その先頭を走るのはまぎれもなく、以前偶然目にしたヒーローであった。幻の名馬とも噂されるヒーローを二度も見られたことは、大変幸運で人によっては奇跡だと言うかもしれない。

その姿に見惚れながら、もしムラトが、あの馬を操ることができれば鼻が高いと、父親のマロンが言っていたことを思い出した。

その時、脳裡に閃きがあった。なによりも自分が成すべきことはこれであると。

このときから大きな目標がムラトの心に刻まれた。





 デリアは峰越えルートの登攀に挑み、ようやく最初の尾根までこぎつけた。出発してから既に一週間が経っていた。

宇宙船が不時着している山を下り、平原部の横断の行程は経験していたこともあってスムーズであった。その後、レアとの連絡も通信圏外となり交信を絶ってから、広大な山岳の麓から登り始めて相当日数を要していた。今まで彼女等が生活していた山とは比較にならないスケールの大きさで、高度もはるかに上回っていた。ただ、自生している樹木は杉、ヒノキ主体の針葉樹で雑草類も少なく歩行幅も余裕があって割合登りやすく、方角も目視で確認することが出来た。事前のレアとの打ち合わせで最も低い高度の峠越えルートを選択したが、それでも数千メートルの山塊を登る必要があった。

 背の高い樹木に覆われた森林には、多くの動物が生息していた。冬眠から覚めたキツネやリス、山野鳥類、そして熊の親子も見掛けた。万が一の場合に備えて、防御シールドや電子銃も持参していた。

更に、日中は暖かくなってきたとはいえ、夜は急激に冷え込み、防寒ユニフォームの着用なしでは凍えてしまっていたであろう。

もちろん今までのところ人のいる気配は全くなかった。

途中から森林限界を超え岩場と雪渓地帯に入った。急斜面とガレ場の連続で油断すると転落する恐れがあり、慎重に足場を選んでいった。

休憩の際、彼女が辿ってきた遠望に目を凝らすと、形容しがたい絶景が地平の彼方まで広がっていた。緑の平原と青い筋を描く河川がどこまでも続く。彼女の目には残念ながらその果てまでは見通せなかった。いつまでも見飽きることがなかったが、重い腰を上げ再び登り始める。ある程度予期していたとはいえ、空気も薄く呼吸も荒い。さすがにペースダウンし時間もかかったが、ようやく目指していた頂に到達したのだった。

 けれども、そこで見た反対側の光景に愕然とした。期待した風景とは異なり、延々と続く高峰の連なりがあった。


「何てこと、いったいどこまで続くの」


デリアは溜息を吐きながらしばらくその場に座り込んだ。

ここまでの道のりもまだ旅の始まりに過ぎなかった。






「ムラト、あのヒーローを乗りこなそうって考えは全く無謀そのものだな。出会った人の感想は驚くべき暴れ馬でずば抜けた早足で駆けるって言うぜ。近づくことは出来ても触らせてもくれないんじゃないか」


「俺なんかまだその姿を拝んだことすらないよ。二度も見掛けたことのあるムラトが羨ましいよ。でもめったに現れないそうじゃないか。捜し出すだけでも一苦労だな」


「だから余計に挑戦のしがいがあるのさ。あの幻の名馬の背中に少しでも乗る事が出来れば皆もびっくりするだろうし、僕もそれだけで満足さ」


「そうなれば俺もお前のことを見直すよ。いや村全体から祝福されるぜ。そう言やあ、お父さんのマロンは乗馬にかけては抜群のテクニックの持ち主だったじゃないか。実現すればさすが親子二代にわたる快挙だってもてはやされるぜ」


「いや、そんな大層な気持ちは毛頭ないよ。でも無理は承知で最善を尽くすことが二人に対する供養になると思ってさ。春になればヒーローは再びこの地にやって来る。なんとなくそんな予感がするのさ」


「わかったよ。お前の胸の内は俺にも理解できるよ。せいぜい俺達も応援するとするか。皆で草原に彼が現れないか目を光らせといてやるよ」


ムラトと同世代の若者達が語り合っていた。壊滅した村落の復興に、一致協力し合い助け合ってきた仲間達で、以前にも増してお互い親密に相談出来る間柄になっていた。誰もがムラトの家族を襲った災難に同情的で親切でもあった。彼の突拍子もない願望にも熱心に耳を傾けてくれたのであった。

もちろん、彼は真剣そのもので、父親マロンとの約束事でもあって、改めて心に誓った。


 その時、母親のサラが呼んでいるとの言付けがあった。どうやらかなり興奮し、取り乱しているようで、ムラトは仲間にことわって住居に急いだ。最近は落ち着いてきたものの情緒不安定な面もあり神経障害の再発を危惧した。

家屋の前にサラが待っている姿が目に留まった。意外なことに彼女は微笑みながら彼を迎えた。その印象は、以前の一家が健在な頃の、元気な表情そのものである。

彼女は近づきながら明るい声で言った。


「ムラト、喜んで、カリンが帰って来るわ。信じて待った甲斐があったのよ」


満面に笑みが溢れ、感激が身振りからも伝わってくる。

ムラトはどのように答えていいか解らず、


「そ、それはどうして・・」


と言い返すのがやっとであった。その中途半端な反応にも構わず彼女は続ける。


「マロンが私に伝えて来たのよ。カリンがようやく見つかったって。まだここから遠い所にいて時間は掛かるけど、必ず戻るって。やっぱりマロンは頼りになるわ。私の願いが届いて捜し出してくれたのよ。もう安心していいって言ってたわ」


その確信に満ちた言葉にムラトはすっかり困惑してしまった。彼はその場に立ち竦み戸惑ったままで、どのように応じていいのか頭に思い浮かばなかった。






 デリアは自分の背丈以上に繁茂した藪を掻き分け突き進んでいた。もう二、三の山越えをして来たと思われるが、一向に森林地帯を抜け出る気配はなかった。携えている方向指示器だけが頼りで、どこに向かっているのか全く視界が利かなかった。

 一つ目の高峰を越えてからは、それまでとは全く植生が変わってしまい、進むに従って蔦や熊笹があたり一面を覆う、一種の密林が前方に立ちはだかっていた。自ずと時間も余計に掛かり、山道も定かなものはなく、手探りで草叢を掻き分けたり、障害物が立ちはだかり迂回するケースが頻繁となり、デリアは疲労に加えて苛立ちが募った。またこの状態がどこまで続くのかも明確でなく、終着地点も漠然としておりはなはだ心細い単独行となっていた。

 それでも一刻も早くこの密林から脱出しようと休息も短めに進んでおり、かなり距離を稼いだものと思われる。いや、所々に得体の知れない虫やヘビ、トカゲが足元を這っていて、じっとしていると気味が悪く、動いているほうが気が紛れ安心でもあった。藪に囲まれ周囲の風景が見通せない変わりに、様々な音色が耳に入ってくる。葉や樹皮に接触するのは当然としても、風で枝葉が擦れ合う音、虫や小動物の鳴き声、鳥のさえずり、時折、山水が流れ落ちる音が聞こえてくる。


もう幾山通過してきたか分からなくなってしまったが、先程から今までと異なる気配を感じるようになっていた。無秩序に動き出すざわめき、何やらひそひそとした囁き、気のせいであろうか。立ち止まって後ろを振り返る。誰も居ないし変わった事もなかった。けれども気になる物音も消えている。錯覚かもしれないが薄気味悪い。


「誰か居るの?」


と大声で叫んでみた。

こだまが返ってきたものの反応はなかった。再び歩き始める。

そういうことを何度か繰り返したが、長時間歩き詰めでさすがに疲れ、適当な木株に腰を下ろし暫く休む事にした。リュックを開け固形食を口にする。一粒で一定時間食欲も満たされ喉も癒される。山菜や野の果実も食料としての知識はあったが、やはり一抹の不安がありまだ食べた事はなかった。

全身がだるく俄かに眠りに引き込まれてしまった。

緊張が解け煩わしいことも忘れ束の間の休息が得られると思われた。

が、しばらくして、騒々しい物音で目が覚めてしまった。一瞬、彼女の前を通り過ぎる黒い影が目に入った。

それは二足歩行で走り去る子供のような姿であった。


「まさかこんな所に人が」


デリアは一気に目が覚め跳ね起きた。


「待って!」


彼女は必死でその子供の後を追った。かなりすばしこかったが徐々に間合いを詰める。このまたとない機会を逃さないよう全力で追いかける。

遮蔽物も悪路も気にせず早足で走った末にようやく追いついた。いや、むしろ彼女がやって来るのを待っていたようだった。

そこにはその子供を囲んで、三人の大人が立っていた。彼女は立ち止まりじっと目を凝らして彼等を観察した。

しかしそれは彼女の念頭にある人間ではなかった。

顔はのっぺりと平坦で目鼻及び口の周辺は白く、外見は薄茶の毛に覆われている。いつしか宇宙ステーションの動物エリアで見たことのあるヒヒに似た種族であった。もちろん体に身につけている物などなかった。どうすべきか思案していると、その内の大柄なヒヒが彼女に強い関心を示し近づいて来た。そしてゆっくり長い腕を掲げ指先を伸ばしてきたが、その瞬間電流が走った。バリア装置を働かせたままだったようで、急いで電源を切った。けれどもヒヒの方は初めて味わった感電に大パニックとなり、元の場所に戻り歯を剥き出して体中に怒りのポーズを表して威嚇した。

そして、仲間に合図するや茂みの奥に姿を消してしまった。


「どうやら彼等ではなかったようね」


あっけない対面に終わり物足りなかったが、彼等には物を加工する知能はないと推測できた。ましてや、紐を編む能力など期待出来ないであろう。

より人間に近い動物と巡り合ったものの、この星の生態系はどこまで進化しているのかまだ明確な情報はなかった。

あれこれと考えながら休息場所まで戻ったが、大変なことに気がついた。そこに置いておいたリュックが見当たらない。あたりを見回した。影も形もない。

犯人に心当たりがあった。ヒヒである。あのヒヒの仲間が奪って行ったのに間違いはなかった。


「待って、私のリュックを返して!」


デリアは必死の勢いで彼等の後を追った。あの中には、固形食等の食料品、方向指示器、電子銃、双眼鏡、その他屋外生活の必需品が入っている。今まで曲りなりにも無事に山林を乗り越えて来られたのもそれらの用具があったからにほかならない。紛失したままでは、どの方向に進んでいいのか分からず、食い物も自分で確保しなければならない。


「あなた達には必要のない物よ。私に返して、お願い!」


探す当てなど全くなかったが、大声で訴えながら辺りを歩き回った。藪が深く途中からすっかり道を迷ってしまっていたが、ヒヒ達の姿を求めて無我夢中で密林を漂った。さらに悪いことに崖から足を踏み外し転落してしまった。幸い雑草が繁茂している場所だったため、ケガをすることはなかったが、着衣の温度コントロールを兼ねたシールド機能が故障してしまった。バリアも働かず外敵から身を守ることさえ覚束なくなってしまった。


「ああ、どうしよう。これからどうしたらいいの・・」


デリアは疲労困憊してしまい、すっかり落ち込んでその場にへたり込んでしまった。

その周囲は抜け道さえ定かでない密生した雑林に覆われていた。






 ムラトの村にも明るい日差しの、清々しい春の季節が訪れていた。山野草が開花し蝶が舞い燕の飛び交う光景があちこちで見られた。巣穴から這い出した小動物達も活発に動き出す一方で、成虫へと変貌を遂げた昆虫の姿が辺り一面で見られようになり、新しい生命の息吹きが感じられる。

彼は早朝から村を出て、自分に与えられた狩猟の準備作業を速やかにこなし、虹の見える丘に向かっていた。

 母親のサラが、亡くなったはずの妹が帰ってくると信じ切って、誰彼と無く吹聴している様子を心配し、長老達や祈祷師とも相談したが、今までのように殻に閉じこもらず見た目に明るくなって、気の病いによる夢想であってもむしろ本人にはいいのではとの意見であった。村人達はサラを好意的に見守ってくれており、その点で安心ではあったが、戻って来るはずのない娘を、期待を込めていつまで待っていられるか一抹の不安があった。

 そのような懸念材料はあったが、彼のもとに待望にしていた朗報が届いた。草原に野生馬が走っているのを久し振りに見たというもの。ヒーローさえ見掛けなかったが、群れをなして移動する光景に出会ったそうである。

ムラトは自分が行けば必ず彼が現れると直感した。理由は定かではなかったが、以前と同じコースを通るはずとの確信があった。気持ちがはやり立ち、即座に現地へ向かう。

急ぎ足で辿り着いた丘陵は、まさに色とりどりの草花が咲き乱れていた。ヒーローが出現するおあつらえ向きの場面に相違なかった。

彼は慎重に待機場所を選んだ。


「そうだ、ここだ。ここを彼は通った。間違いない」


そう断定すると、走行コースに隣接した潅木の陰に身を屈めた。

そして待った。

念願であった夢を叶えるために。じっと息を凝らして。





 デリアは密林をさまよっていた。陽光も遮るシダやツル植物のトンネルの中を手探りで進んでいた。頼りにしていた方向指示器等の用具を全て失い、もはやどの方角に向かっているか知る由もなかった。リュックを盗まれ絶望状態に陥ったが、とにかく動く以外なかった。けれども案の定状況は悪くなるばかりで、足元はコケ類が密生する湿地に踏み込んでしまい滑りやすく、何度も転んで全身ずぶ濡れの有様であった。また、保護服のシールド機能が働かなくなったため、蚊やブヨ等の虫に顔や肌を刺され、用心しないと蛭やイモリが生血を求めて皮膚に吸着する恐れがあった。

ヒヒと出会ってからもう二晩が経過している。いまだにこの樹海から抜け出せそうになかった。行けども行けども薄暗い灌木帯の深い茂みが立ち塞がっていた。いわば迷路に入ってしまい出口を求めて右往左往している状況である。おまけに空腹であった。野イチゴや木の実を見つけ口にしてみると、大変苦くとても味わえる代物ではなかったが、我慢して飲み込んだ。

髪の毛からつま先に至るまで全身薄汚れてしまい、顔といい手首といい露出している所は傷だらけであった。もはや疲労と睡眠不足で精魂尽き果ててしまっていたが、気力だけで前進していた。


 時間を重ねるに従って、意識も薄れがちになり何度も倒れては起き上がり這うように進むことを繰り返すようになっていた。

そしていよいよ体力の限界が近づいている。目の下に隈ができ、瞼がくっ付きそうであった。足場の雑草が濡れているのも構わず、その場にしゃがみこんでしまった。


「もう駄目だわ。一歩も動けない・・」


眠ってしまうと二度と目覚めないような気がして起き上がろうと試みたが、体が麻痺してしまったようで身体が重く感じられた。


「何とかしなくちゃ。頑張るのよ」


心の奥で自分自身に言い聞かせたが、思うように体が動かなくなってしまっていた。むしろ逆に眠りに引き込まれて、そのままうつ伏せで横たわってしまった。

どれくらい時間が経ったであろう、前方から微かな物音が聞こえてきた。ゆっくり首を持ち上げる。茂みの隙間から何かが動いているのが見える。


「何かしら、あれは・・」


デリアは気力を振り絞って四つん這いになって見える位置まで近づく。

するとそれの正体が明らかになり驚いてしまった。

立派な角を持った大柄なトナカイだった。

前方に少し開けた所があり、岩場に立っている。

なぜこんな場所に居るのか不思議でならなかったが、彼女を誘っているような気がして、ゆっくり起き上がった。そしてふらふらしながらも徐々に近づいて行った。

時間を掛けてその場所に到着したが、トナカイはそこには居ず、別の場所に移動していた。

再び彼女はその後を追った。

ペースは極端に遅かったが追い付こうとする執念だけで突き進んでいた。

けれども居たはずの場所にはその姿はなく、またもや離れた所に移っていた。

そして同じ事を何度か繰り返した。まるでイタチごっこである。


 気がつくと小高い丘の頂きに来ていた。今度はどこを探してもその姿が見当たらなかった。その代わりに前方に目を転じると、緑豊かな草原が広がっていた。抜けたのだ。ようやく樹林地帯から脱出したのだった。更に空一面に虹が掛かっている。高峰の反対側の原野の景色も見ごたえがあったが、また違った美しさがこの土地にはあった。


「綺麗だわ。見ていて飽きないわね」


うっとりしながらその場所に座り込んでしまった。草花の種類も豊富で、鳥も飛び回りウサギや野ねずみが動き回っている。自然の魅力も満載であり、本来であれば駆け出して思う存分喜びを体感しているはずであったが、彼女にはもうその体力は残っていなかった。全身がけだるく熱もありそうで、眺めているだけで精一杯であった。

草原は遥か遠くまで広がりを持ち、あらためて人探しを始める余力はもう彼女にはなかった。


「やっぱりここにも居ないんだわ」


双眼鏡こそなかったものの、左右を見渡しても人影はなさそうである。


彼方から動物の集団が近づいて来るのが見られた。今までに見たシカやバッファローの群れを思い起こしていた。うつらうつらし始めた。顔を腕枕に寝かせ体を横たえた。本当にこのまま起きる事が出来ないかもしれない。

 目の前を野生馬の群れが通り過ぎる。ぼんやりではあったが、先頭の馬が金色に光輝きひときわ目立つ姿が印象的であった。その魅力に取り付かれ、視線がその後を追う。


ところが、馬群が行く手に林立している灌木を横切った時、思ってもみなかった事が起こった。

その馬に木陰から突如駆け寄る者がいた。

更にその背に飛び乗り食らいつく。

馬はびっくりした様子で狂ったように走り回り始めた。


デリアはその成り行きを見て夢ではないかと疑った。顔を起こし両目を擦り再び彼等の行方を追った。

しかしながら、それは夢でも幻でもなかった。

栗毛の馬は暴走しユーターンして、彼女の方に戻って来た。その背にはたてがみを手で握り跨っている人がいた。目前を通り過ぎた際、遮二無二乗りこなそうとしている必死の形相が見えた。

更には男性と思われる。


「ハイ、ハイ!」


と言う掛け声までも耳に入って来た。

デリアは驚喜し起き上がった。

そして彼等を追って丘を駆け下り始める。もはや疲れなど吹き飛んでしまっていた。


「待って!」


彼女は必死に声を掛けたが、もちろん彼等に追い付けるはずもなかった。

だが幸いなことに前方でその男が馬から振り落とされるところが見えた。





ムラトは待った。

一刻の後、その甲斐があって野生馬の群れが現れた。やはり思ったとおり先頭にヒーローがいる。

以前にも増して一段と逞しくなっていた。ほれぼれするその馬体にしばし我を忘れてしまった。

真近に迫り思わず自分を取り戻す。コース予想と待ち受け場所の設定は間違いなかった。あとはチャンスを逃さず飛び出す瞬間を窺うことに専念する。少しでもタイミングがずれれば、失敗するだろう。何度もイメージを頭に描いた。一瞬の判断が勝負を左右する。

 そしていよいよその時がやって来た。金色の馬体が目前に迫っていた。その迫力に圧倒されそうになり深呼吸をする。

真横に来た。


『今だ、今しかない』


彼は猛然と駆け出した。

そしてその背に向かって体を斜めにしてジャンプした。

うまい具合に跳ね上げた両足は後部に跨ぐことに成功し、片手で白銀の頭髪を握り締めることが出来た。驚いたヒーローは乱暴に走り始めた。振り落とされずにしがみついているだけで精一杯で、乗りこなすことなど不可能である。何度も立ち上がり辺りを暴れ廻ったが、ムラトはかろうじてもちこたえた。

そして来た道を逆走し始める。一段とスピードが上がった。背後から人の声が聞こえた気がする。あまりの速さに風圧で体が飛ばされそうな錯覚を覚えた。腕に一層の力を込めたが、ヒーローは逆にブレーキを掛けた。

その瞬間ムラトの体は背中を離れ宙に放り出された。

単なる暴れ馬ではなかった。人間を翻弄する才覚も持ち合わせているようだ。落下した場所が厚い草叢であったため、打撲や怪我は避けられた。

ヒーローは振り飛ばした相手を嘲笑し、勝ち誇ったように仲間を引き連れ去って行く。

しかしムラトは満足だった。とうとう意志が叶い、短時間であったが伝説の名馬に触れることが出来たのだ。


「やったぞ、ついにやった!」


その掲げた腕の指先にはしっかりと銀白の頭髪の毛が握られていた。感激のあまりしばらく仰向けのまま笑いが止まらなかった。


そして戦利品を大切に保管するため起き上がろうとした瞬間、彼を覗き込む顔に気がついた。





デリアは馬から転落した男に近づいた。盛んに何やら叫んでいるようである。仰向けの姿勢のまま、声を出して感情を表しているようだ。

顔が見えた。

それも笑顔である。彼女と同じ人が喜んでいる表情そのもの。

とうとう出会えたのである。サルでもヒヒでもない正真正銘の人間に間違いなかった。

頭髪、目、鼻、口、そして顔の輪郭そのものが、今まで接した男性と何ら変わったところなどなかった。

彼女は憑かれたようにその顔を上から覗き込んだ。

その間も男は笑いが止まらない。デリアも釣られて笑みがこぼれた。

そして男はようやく我に帰り、初めて彼女の存在を知ったのである。





「なんなんだお前は!」


ムラトはびっくりして起き上がった。

まさか真近に人がいるとは思いもよらなかった。よく見ると相手は顔も服も汚れており何日も洗ってないような身なりであった。容貌からはまだ幼さが残っていて少女のように察せられたが、あちこちに痣や傷を負っており痛々しい限りであった。


「いったいどこから来たんだ?」


そう言って思わず周囲を見回したが、仲間がいるような気配はなかった。

土がこびり付いてはいるが頭は銀髪、目の色は青く、鼻は高めで彫が深く、少なくとも彼の部族にはいなかった。また、彼の知っている他の部族の特徴にもなかった。

それと今まで見たことのない妙な衣類を身につけていた。履物も変わっていた。

少女はどういうわけか彼の言葉に心から感激した様子である。嬉しそうに笑みを浮かべて喋り始めた。かなり速口であったがムラトにはさっぱり理解出来ない言葉であった。


「どこの部族なんだ?、仲間はどこにいる?」


更に声を掛けると、少女は思い出したように首に大事に掛けていた紐を取り外し彼に見せた。


「これは獲物の仕掛けに使った物じゃないか。どこで見つけたんだ?」


彼の肯定的な反応に気を良くして少女は盛んに彼方に聳える高山の頂きを何度も指差した。

まさかあの山の向こう側からやって来たのか、半信半疑でいると、今度は手のひらを自分の胸にあて、


「デリア、デリア」


と繰り返した。恐らくそれは少女の名前であることは理解できた。彼が相槌を打つと、逆にムラトの方を指差し名乗るように促された。


「俺はムラト、ムラトだ。この近くの部落に住んでいる」


と答えると、


「ムラト、ムラト」


と言い返した。

ところがその後、満足した表情で両手を地面に突いて、座り込んでしまった。愛くるしい顔をしてムラトの方を見てはいるが、酷く具合悪そうであった。どうやら何日も一人で荒野をさ迷い、疲れ切ってようやくここまで辿り着いたような様子である。

ムラトはもう一度、高山を仰ぎ見たが、壁のように立ちはだかり、何人も寄せ付けない威圧感を覚えるだけであった。

 そのうち少女はまどろみ始め、そのままの姿勢で安心したように首を傾けてしまった。ムラトは困惑して揺り起こしてみたが、顔を上げはするものの、もはや体力の限界であったようで、すぐに目を閉じてしまう。更に悪い事に身体が異常に熱くかなり無理して移動して来たように思える。

いったいどうしたものか。このまま放っておけば気温も下がり病状は悪化するだろうし、獣に襲われる心配もあった。あれこれ思案するまでもなかった。面倒でも一緒に連れて帰る以外ない。

そう決心すると、少女の体を起こして屈みこんで背中におぶった。そして立ち上がり歩き始めた。意外と軽くほとんど負担にはならなかった。彼女は半分うなされているようであったが、

後ろから、


「ありがとう、ありがとう・・」


という言葉が聞こえてきた。

もちろんムラトには意味は分からなかった。

途中で彼は名状し難い思いに取り付かれていた。

かつてあった同じような状景を思い出す。それは彼にとって在りし日の懐かしい追憶であった。けれどももう二度とあり得ないのだ。その感慨を振り払いながら帰路を進む。

そして日没までには部落に着くことが出来た。





 入り口付近に数人の若者達がいて近づいた。彼は慎重に少女を木株の台座に降ろしながら彼等に声を掛けた。


「やったぞ。今日僕はヒーローに乗ったんだ。やっと願いが叶ったんだ」


それを聞いて彼等はムラトの周りに集まった。彼は懐から証拠品を取り出し頭上に掲げた。


「これがヒーローのたてがみだ。振り落とされたけれど、抜き取ることが出来たんだ」


得意満面で皆に見えるように示した。白っぽい毛はまだ心なしか光沢があった。


「そうか、とうとうやったな。よかったなムラト」


それぞれが口々に賛辞を送った。皆、彼の強い願望と家族の悲哀を知っているだけに、惜しみなく褒め称えた。

そのうち騒ぎに気がつき村人達が集まって来た。再びムラトはヒーローとの遭遇と乗馬に成功したことを説明した。彼にとっては生まれて初めての人々から脚光を浴び自慢すべき日となった。


 一通りの話の後、ようやく一人が木台に横たわる少女の存在に気がついた。今度は反対に困った顔で彼女と出会った経緯について説明することになった。そしてかなり弱っていて、見過ごすことも出来ず連れ帰ったことを付け加えた。村人達の視線は一斉にその少女に向けられたが、祈祷師が分け入って来るや、強い調子で忠告しだした。


「駄目だ。その娘をこの村に入れてはいけない。災いをもたらすぞ!」


部族の占いの能力者である彼の言葉は、長老や幹部達に信用され重みがあった。


「この娘はこの世の者ではない。いわゆる魔物と言っていい。我々にいずれ害を及ぼすことになる」


その声が耳に入ったせいか、少女はゆっくりと起き上がった。

その容姿はいたいけな子供そのもので、ぼんやりと周囲を眺めはじめた。


「でもすっかり疲れ切ってるようだし、おまけに熱もあるようで・・」


とムラトは言い訳をしたが、祈祷師はそれを遮り容赦なく繰り返した。


「可哀そうだが仕方がない。我々の安全のためにも一刻も早くこの村から追放するんだ!」



 その駄目押しの言葉で、もはや反論する余地がないと思われたその時、


「追い出すなんてとんでもない。その子は私の娘よ」


村人の間から声が上がった。憤然と前に出て来たのはサラであった。


「娘のカリンよ。とうとう帰って来たのよ。マロンが言ったことに間違いなかったわ」


「だがサラ・・」


「カリンに間違いないわ。放り出したりしたら私が承知しないわ」


その剣幕に祈祷師も黙らざるを得なかった。彼も前族長の妻であるサラには、一目置いていて遠慮しがちである。

村人達も目を丸くしながら、明らかにカリンとは言えない少女とサラを交互に見やった。


「さあ、カリン一人で辛かったでしょうね。こちらにいらっしゃい。あなたが戻ってくるのを待っていたのよ。もう安心してこちらに来るのよ」


とサラは少女に両手を広げて誘った。





 デリアは睡魔に襲われ、夢うつつの状態であったが、騒がしい声で目が覚めてしまった。けれども意識は曖昧模糊としており、自分の周囲にいる人々が何者で、自分が今どこにいるのか全く理解出来なかった。

一人の男が恐ろしい形相で彼女に向かって怒鳴り声を上げるのが聞こえてきた。一瞬、彼女は恐怖に捉われた。と同時に無性に心細く感じた。

大勢の人の目が彼女に注がれている。

以前に夢の中ではあったが、仲間達と共に行くことを望んだものの、何者かに阻まれ実現しなかった事を思い出した。

前にいる男が今度も邪魔をしているような気がする。

彼女は悲しくなった。そして涙が目尻から溢れ出てきた。また駄目なのであろうか。また一人ぼっちになってしまうのか。


 その時、一人の女性の声が聞こえてきた。

その声は力強く、毅然としており先程の男が明らかにうろたえていた。

デリアはその女性の顔を見た。すると彼女の母親の顔が重なった。


「ママだ。ママがあの男をやっつけてくれた」


その女性はデリアの方を見て、笑顔で声を掛けてきた。


『デリア、一人で辛かったでしょうね。こちらにいらっしゃい。あなたが戻ってくるのを待っていたのよ』


そのように言ってるのが聞こえてきた。

彼女は思った。ママが迎えに来たんだ。もう大丈夫なんだ。誰にも引き止められはしない。

そして、彼女は起き上がり駆け出した。


「ママー、ママー」


泣きながら、何度も何度も母親を呼びながら駆け出した。


 少女はサラの胸の中に飛び込んで来た。彼女は泣きじゃくりながら震えている娘をしっかりと抱擁した。


「寂しかったのねカリン。もう大丈夫よ。私がいるから安心しなさい。まあ、なんて熱いんでしょ。苦しかったでしょうね。何か温かいものでも作るわ。さあ、一緒に家に入りましょう」


サラは泣き続けている少女の肩に優しく腕を回しゆっくり歩き出した。

祈祷師はもはや何も言うべき事はなかった。

また、もらい泣きする者もいて、ムラトを初め村人達もこの成り行きを受け入れる以外なかった。









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