破壊者(三)
カンビア郊外の簡易宿を目指して一人の男が向かっていた。
比較的安価で利用できる長期滞在可能な宿泊施設であった。
彼即ちサライは南方から来た旅芸人の一行を追っていた。
そしてようやく彼等がこの地域で興行をするにあたっての活動拠点を捜し当てたのである。
関係者によると、ここ数日姿を見せないので宿舎にいるはずとのことであった。
教えてもらった通りの道順を進み、カルム河畔近くの数軒木造の家屋が並んでいる場所に到着した。
その一軒の空き地に割合大きな二台の箱馬車が止まっていた。
市の中心部では、その乗り物が置き難いため、広いスペースのあるこの宿に寝泊りしているという。
サライはその建屋の玄関扉を開け中に入ると、正面の帳場に浮かない顔をした中年の男性が腰掛けていた。
いきなり彼は客と勘違いして声を掛けてきた。
「ああ、悪いが休業中なんだ。他を当たってくれないかね」
「いや、そうじゃないんだ。会いたい人間がいてね。ここに泊まっているって聞いたんだ」
「誰だね」
「南方からやってきた旅芸人で、6人の男女だと聞いたんだが」
管理人は途端に機嫌を悪くして答えた。
「ああ、いるよ。二階の部屋で寝ているよ。彼等のおかげで大迷惑を被っているんだ。どこで拾ってきたんだか悪い病気に掛かってしまって皆動けず寝込んじまっているよ。看病する羽目になった家内や使用人にもうつっちまって、踏んだりけったりさあね。早く出て行ってほしいんだが、全く動けない状態で困っているんだ。これじゃあ店も開けられないよ」
彼は一気にまくし立てた。
「どうやら探していた相手に間違いなさそうだな。彼等に会いたいんだがいいかね」
「そら構わないが、でも気をつけたほうがいいよ。うっかりしてるとうつされちゃうよ」
「わかってる。どこに居るんだ」
「二階の部屋にいるよ。あんたは彼等のなんだね。出来れば引き取ってほしいんだがね」
管理人が期待しながら訴える言葉を尻目に、サライは階段を上って行った。
二階の廊下を進んでいくと、中から呻き声が聞こえる部屋の前で立ち止まった。
彼は念の為扉を軽く叩き訪れを告げた。
「旅芸人の方かね。聞きたいことがあるんだが入っていいかね」
予想はしていたがやはり返事はなかった。
けれどもいる気配はしておりどうやら症状は重いようである。
サライは扉を開けた。
中は薄暗かったが、窓明かりを頼りに見回すと、寝台に3人の男性が寝込んでいた。
女性はどうやら別の部屋らしい。
サライは口元や皮膚を出来るだけ布で覆い、彼等に近づいた。
「おい、大丈夫か」
彼が声を掛けると、その内の一人が顔を向けて返事した。
「ああ、あんたは誰だ」
赤黒い表情は今までに見た患者や犠牲者と全く同じであった。
まだ口調はしっかりしており幾分ほっとした。
「私はサライと言う者なんだが、あんた達に聞きたい事があるんだ」
「何だね。こんな格好で申し訳ない。なにしろ体がだるくて起き上がるのも一苦労なんだ」
「ちっとも構わんよ。ところで君らの仲間に百面相の芸が出来る人がいるって聞いたんだが、誰かね」
「ああ、ピートかね。彼はもうここにはいないよ。出て行っちまったな」
「君たちは皆寝込んでいるって聞いたんだが、彼は動けたのかね」
「ああ、彼だけは病に罹らなかったんだ。我々が寝込むと不意にいなくなってしまったんだ」
彼だけはこの疫病に関して免疫があるのか、いずれにせよ犯人である可能性は濃厚であった。
「君たち仲間を残して出て行ったというのか。薄情な気がするが」
「いや、彼は最近メンバーに加わったばかりなんだ。だから元々我々とは縁もゆかりもないんだよ。だからあまり気にしてないさ」
「いつ、どこで知り合ったんだ」
「ああ、俺たちが宮中の催しに参加できる事になって、事前練習していた際に突然声を掛けてきたんだ。変わった芸が出来るんで加えて欲しいと。とりあえず見てみようということで彼がネタを披露すると、なかなか面白いんだ。どういう仕掛けかわからないが人の顔を真似るというか化けるんだ。ほとんど瓜二つに。俺達の芸も少々マンネリ化していたのでメンバーに加えたんだ」
「雪を降らしたらしいが、予定していたのか」
「いや、あれは演目には入ってなかった。俺たちもびっくりしたよ。いったいどのよなトリックで行ったのか。後で聞いてみたんだが結局誰も分からなかったな」
彼の話からサライはいくつか判ったことがあった。
百面相の芸人はどうやらバイブル王をはじめ演芸会の鑑賞者を感染させる目的で旅芸人一座にもぐり込んだこと。
疫病の犠牲になった駐屯所の兵士が炭焼きじいさんに会ったと言っていたが、恐らく芸人の変装だったと思われる。
いずれにせよ容易ならざる相手に間違いなかった。
「どこに行ったかわかるか」
「いや何も言わずに行ってしまったからな。彼については北の方からやって来たことぐらいしか言わなかった。おまけに素顔すら定かでなかったよ」
「ありがとう。色々参考になったよ」
「ああ、彼の芸と俺達の病気は何か関係があるのかい」
「それを調べているんだ。彼を捕まえれば何かわかるかもしれん」
「くそ、妙な奴だと思ってはいたんだ。こんな目に遭うなんて考えもしなかったよ。俺たちはこれからどうなるのかな」
「頑張るんだ。きっと良くなる。もう少しの辛抱だ」
「ああ、分かったよ・・」
彼は話し疲れたようで口を閉じてしまった。
サライはこの病気に罹った者の末路を目にしており、慰めの言葉にすぎないことは分かっていた。彼等に対して何もしてやれない自分を責めながら、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。
*
アモンは驚いていた。
リーラ妃の後について馬を走らせているが、うかうかすれば離されそうなスピードで駆けていた。
父親から話には聞いていたが、王妃の乗馬の腕は相当なものであった。
ただ昔のことで最近は馬に乗る機会は減っているはずであったし、礼服着用のままであった。
けれどもそのような悪条件も斟酌せず、一心不乱に馬を操っていた。
時折危険な場面も見られ冷や冷やしたが、何とか乗り切っている。
悪路でもスピードを落とさず駆けどおしで、彼女の必死な思いが伝わってきた。
ほとんど休むことなく飛ばしてきた甲斐あって昼過ぎにはカンビア市内に入っていた。
けれどもいつも賑やかな街中は、妙に静けさが漂っていた。
リーラ妃もこの異常な雰囲気を敏感に察知しているようであった。
そして公邸の正門に差し掛かり、アモンは声を掛けられた。
「アモン、ここでいいわ。ありがとう。助かったわ」
「いえとんでもないリーラ様。それではここで失礼します」
アモンは心から彼女の幸運を祈った。
リーラは守衛や親衛隊員に声を掛けながら、邸内に入って行く。
それを見た者は彼女の突然の出現に肝を潰していた。
顔といい衣服といい体中跳ね返った泥土で真っ黒であった。
もちろん誰もが彼女をさえぎる事など出来なかった。
しばらくして館に着いたが、彼女を迎える者は誰一人いない。
馬から降りて入り口に向かう。
扉を開け中を窺ったがひっそりしていた。
いつもは侍従や侍女が見張り番をしているはずであった。
その余裕もないほど異様な事態に陥っているようである。
思った以上に深刻な様子であった。
玄関ホールから中央階段に向かうところで、侍女が彼女に気がついた。
「あ、リ、リーラ様」
彼女は驚きのあまり後の言葉が続かないようであった。
「帰ってきたわ。陛下のご様子はどうなの」
「お待ちを、少々お待ちを」
侍女はやっとそれだけ言って奥の部屋に駆けて行った。
リーラは構わず二階に上がって行こうとすると、今度は後ろから男性の声が聞こえた。
「お待ち下さい。リーラ様」
侍女からの連絡で典医が彼女の前に現れた。
「リーラ様、大変申し上げ難いことですが、今陛下にいつものように会われることは大変危険です」
「ということはバイブルは疫病に感染しているのね。かなり悪いの」
「もう既にご存知でいらしたのですね。正直申し上げまして非常に重症です。我々も治療に全力で臨んで参りましたが、残念ながら効力はございません。まことに断腸の思いでございます。今はこれ以上の感染を防ぐことに最大限の努力をしております。リーラ様のお気持ちは重々お察し致しますが、ご配慮をお願いする次第です」
「ありがとう。忠告には感謝するわ。でもバイブルは私の長年連れ添った夫よ。しかも娘のタミアもこの病に罹っているのね。二人が苦しんでいるのに私が逃げることなど出来ないわ」
「リーラ様・・」
「誤解しないで。あなたの心遣いは充分承知しているし、立場上当然の指導だわ。でも私には無理なの。とても自分だけが安全なんてとても無理なの」
と言いながら再びリーラは階段を上り始めた。
彼女の痛々しい様子に典医もそれ以上口を挟めなかった。
バイブル王の部屋まで来ると、側近の侍従や侍女が彼女の姿を見て一斉に振り返った。
「リ、リーラ様・・」
いずれも顔色が悪く疲れ切っているのは明らかであった。
涙にむせている者もあった。
「どう、バイブルの様子は」
彼女の問い掛けに返答は間があった。
侍従の一人が意を決して答えた。
「午後から私どもの呼び掛けに反応はありません」
彼はそのままうな垂れてしまった。
リーラは衝撃を受けた。アモンの説明である程度の覚悟は出来ていたが、ここまで重態に陥っていたとは思ってもいなかった。
ロンバード王国の華やかな祭典から帰ってきた彼女にとっては正しく悪夢そのものであった。
「わかったわ。私が話してみるわ」
彼女が寝室に進もうとするのを、一人が注意を促そうとしたが、傍らの者が制した。
彼女な悲惨な外見もさることながら、悲愴な思いが皆の心に伝わってきた。
彼女は寝台に横たわるバイブルの傍らに立った。
顔は青白くもはや誰が見ても絶望的であるのは明らかであった。
目を塞ぎ懇々と眠っているようであった。
彼女は寝台の横に座り、バイブルの片手を両手で握り締め、顔を近づけ声を掛けた。
「バイブル、私よリーラよ、帰って来たわ」
もはや感染の危険性など彼女の眼中にはなかった。
「バイブル、目を覚まして、リーラよ」
彼女が耳元で何度か呼びかけると、バイブルの瞼が微かに動いた。
リーラは両腕で体を押して更に強く合図を送った。
彼女の目からは涙が頬に伝わっていた。
そしてようやくバイブルの目が開いた。
「バイブル、私よ、気が付いたのね」
彼の透き通った瞳がリーラの顔に向けられた。
彼女を認め弱々しく声を発した。
「ああ・・君か・・昔の夢を・・見ていたよ」
「良かった、目を覚ましたのね。もう大丈夫よ。私が付いているわ」
彼女の涙は溢れ流れるままであった。
「でもリーラ・・君がなぜここに・・サライに頼んだがな」
「伝令は届いたわ。パリスを含め他の者はロンバード王国に戻ったわ。私だけが帰って来たの」
「相変わらず・・無茶をするな・・」
バイブルは微かに微笑んだ。
「私はあなたの妻よ。当然じゃない」
「でも・・君に一目会いたかったよ・・どうやら・・僕はもう駄目なようだ」
「あなたはまだまだこれからよ。しっかりしてバイブル」
リーラは必死で励ました。
離れて見守っている側近達にもその思いが伝わっていた。
「でも不思議なんだ・・恐くはないよ・・これで、僕が手にかけた・・兄達のところに行き・・謝ることが出来る・・」
「馬鹿ねえ、あれはあなたじゃない別の人格がやったことだわ。あなたの責任ではないって何度も言ったじゃない」
「君だけが・・僕を慰めてくれた・・ありがとうリーラ・・愛してるよ・・でも心残りは・・タミアや他の大勢が・・この病に罹っているようだ・・僕は何もしてやれない」
「人のことより自分が元気にならなくちゃ」
「そうだ・・彼女なら・・何とかしてくれるかも・・・・悪いけど・・頼むよリーラ・・」
「何言ってるのよ、バイブル」
「僕が・・生まれ・・変わることが・・出来たら・・君を・・探すよ・・・・」
それが、バイブル王の最後の言葉だった。
瞳は宙に止まり、リーラが握り閉めた手から生気が無くなった。
「バイブル・・」
リーラは彼の胸に頭をもたげ泣き伏した。
典医が寝台に近寄りバイブル王の脈を取った。
しばらくして彼は側近達を見て首をゆっくり横に振った。
典医が引き下がると、侍従や侍女のむせび泣く声が部屋中を覆った。
何人かが報告のために室外に出て行く。
悲しみが周囲を満たしていたが、一刻が過ぎ突然リーラが立ち上がった。
「タミア、タミアはどこ・・」
彼女は悲しみに暮れながら、娘の名前を呼んだ。
「は、はい、タミア様の自室で臥せっておられます」
侍従から聞き、リーラは目を真赤に腫らしながら廊下に向かった。
覚束ない足取りの彼女を侍女が両側から支える。
彼女にとって夫を亡くして、娘まで続くことはとても堪えられることではなかった。
タミアの部屋まで行く途中である名前を思い出そうと頭を巡らしていた。
その部屋の介護の侍女がリーラの突然の出現に目を丸くして椅子から立ち上がった。
リーラは恐る恐る尋ねた。
「タミアはどんな具合」
「はい、先ほど喉が渇いたようで、お水を差し上げたばかりです」
それを聞いて少し安心した。
まだ意思は働くようである。リーラは進みタミアの枕元でしゃがんだ。
彼女の顔は明らかに熱があるようで赤黒く呼吸も荒かった。
このままではバイブルと同様の悲劇を迎えることは間違いなかった。
リーラは娘の手を握り締め耳元で呼びかけた。
「タミア、私よ、リーラよ、帰ってきたわ」
彼女はすぐに薄目を開け答えた。
「お母様、お母様なの」
「そうよ、ご免なさい、こんな目に遭ってるなんて知らなかったの」
リーラは涙をこぼしながら伝えた。
タミアは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「体はどう、苦しくない」
「ううん、でもとっても寒いわ。それと眠いし喉も渇くし」
リーラはそれがこの病の症状であると理解した。
「わかったわ。きっと良くなるわ。タミア、よく聞いてね。あなたにお願いがあるのよ。もちろん私もついているわ。私やお父様の為に、あなたが4歳か5歳の時、公邸の庭園の池に咲いていた真赤な花を取ろうとして水の中に落ちたことがあるでしょう。覚えてる」
タミアはしばらく考えゆっくり頷いた。
「その時あなたを助けてくれた人がいるの。今もあなたを見守ってくれているはずよ。望みさえすればここに現れて病気を治してくれるわ。いい、こうするのよ。4,5歳の頃を思い出して、彼女の名前を呼ぶのよ。デリア、デリア、助けてって。繰り返し呼びかけるの。私も側で一緒にするわ」
タミアは頷きリーラの言う通りに唱えだした。
「デリア、デリア、助けて・・デリア、デリア、助けて・・」
何度か呼び掛ける内に次第に幼児の頃を思い返していた。
その横でリーラは祈った。
「お願い、デリア、この娘を救って、お願い」
二人の声は虚空に何度も何度も伝わっていった。
*
どれくらいの時間が経過したのか定かではないが、母娘が寄り添っている部屋の窓が開き隙間風が吹き込んだ。
室内の布類、飾り物がゆらめく。
と同時に二匹の山猫が忽然と現れた。
ほとんど目と鼻の先の出現に二人とも全く気がつかない。
一匹が相手に話しかけた。
「どういうことなのこれは。この病は治せないの」
『どうやらそのようです。この時代の医術では対応しきれない伝染病のようです』
「いったい誰の仕業なの。まさかあなたの敵がこの世界にばら撒いたとでもいうの」
『自然発生の疫病ではなさそうです。人為的なものに相違ありません。あなたがご存知のサライが今犯人を追っています。恐らく異世界から持ち込まれたものでしょうが、時間軸の歪みをキャッチ出来ませんでした。相当巧妙に忍び込んだのでしょう』
「もうこの娘は自我が強すぎて私がのり移るのは無理なようね。それよりひどい熱だわ。このままでは死んでしまう」
『気の毒なことにバイブル王は亡くなったようです。生死の境にいる者も大勢いるようです』
「可哀そうに。気の毒としか言いようがないわ。もうこれ以上の犠牲者を出してはいけないわ。助けるのよ。こんな目に遭わせた敵は憎いし許せないけど、この娘達の命を守る事が先決よ。レア、何とかして」
『デリア、残念ですが私にはこの病を治す能力はありません。ある種の創造は出来ても修復は出来ないのです。ましてや起こった出来事を変更することは不可能なんです』
そのことはデリアもある程度予想していたが、自分を頼ってきたリーラ、タミア母娘の願いを何としてでも叶えたかった。
そしてあることを思いついた。
「方法はあるわ。でもあなたの力が必要よ」
『もちろん私の出来ることならご協力しますよ』
「私のママならこの病気を治してくれるはずよ。ママは医学博士よ。病原菌にもくわしいわ」
『パジル博士のことですね。まさか彼女を異次元空間からここに連れてこようとでもいうのですか』
「いえ、そうじゃないの。ここには設備はないし、パパが許さないわ。逆よ、この娘をママの世界に送り込むのよ」
『ああデリア、あなたは思い切ったことを考えますね。だが問題があります。まず一つは移動先の時間と場所の設定が適切に行えるかどうかです。彼女をワープさせた地点にパジル博士が存在しない場合が考えられます。もう一つは移動にはかなり体力が消耗します。病気の彼女が持ちこたえられるか定かでありません』
「やるしかないわ。このままではタミアは助からないわ。お願い何とかして」
『わかりました。実行するしかないようですね。ただ、今も言ったように成功の約束は出来ません。最善を尽くしますが、ご了承願います』
「もちろん、後は運を天に祈るだけね。念の為私からのメッセージも添えるわ」
『では、作業にかかりましょう』
*
リーラの指先から突然触れていた手の温もりが消えた。
思わずタミアの掛け布から顔を起こす。
二人で願いを唱えだしてどれほどの時間が経過したのか判然としなかったが、リーラの目の前にいたはずの娘の姿がなかった。
「タミア、タミア」
彼女は慌てて呼びかけながら周囲を見回した。
けれども部屋のどこにも娘の姿はなかった。
思わず開いている窓に駆け寄った。
部屋は三階で外を見下ろしても誰もいなかった。
「誰かいる、答えて」
リーラは大きな声で人を呼んだ。
すぐに返事がありタミア付きの侍女が顔を覗かせた。
「はい、リーラ様。何か御用で」
「タミアがそちらに行かなかった」
「いいえ、部屋の外にはお出でになりません。それにお一人ではとても動ける状態ではないはず」
侍女が不思議そうに答えると、リーラはにわかに閃いた。
デリアが来たのだ。そして彼女が娘を連れて行った。
病を治すために。そうとしか考えられなかった。
このようなことが出来るのは彼女しかいない。
そう思うとリーラの目から嬉し涙が流れた。
(バイブル、彼女が来てくれたのよ)
リーラは亡き夫が彼女を導いたとものと確信した。
「タミア様がどうかされました」
侍女は彼女の涙を見て不安そうに尋ねた。
「いえ、大丈夫よ。タミアのことなら心配ないわ。それより同じ病に罹っている者はどこにいるの」
「はい、皆自室で臥せっています。主にこの建物と別邸に分かれて療養しています」
「わかったわ。ここはいいから案内してくれる。これから直ぐにお見舞いに行くわ」
「え、リーラ様自ら、ですか」
「そうよ。私が行っても何にも力にならないけれど、励ますのよ。諦めずに頑張るようにと。必ず助けが来るわ。その時まで希望を失わず生き抜くのよ」
彼女は行動を開始した。自分に言い聞かせながら。
(バイブルこれでいいのね。デリアお願い、あなたを信じるわ)
と。
*
「わかったわこの娘の病が。非常に毒性の強いコレラ菌の一種が病原体よ。専門機関から情報を得て、すぐに抗菌剤を作ってこの娘に投与するからもう大丈夫よ」
「そう、良かった。応急処置も効果があって峠は越えたようよ。最初彼女を見たときもう駄目じゃないかと思ったけどママのお蔭ね」
部屋の中央には寝台の上の透明のカプセルの中にタミアが眠っていた。
「この伝染病は潜伏期間がほとんどなくて、症状も急激に重くなるの。体力のない人の場合、数日で死に至るわ。ただ、その一方で抗体には案外弱く、適正な治療薬を投与すればすぐに快復するし免疫も持続性があるわ」
「でもこの病気、恐らく感染力は強いんでしょう。もし彼女が以前の私や今お母さんがいる世界の住人だったとすると、流行しているのかしら。だとしたら医療技術も未熟な世界よ、手の打ち様がないと思うわ」
「その通りね。もう一つ疑問なのはこの病原菌は相当複雑な過程を経て進化したものなの。パット、あなたの話から判断すると、その世界で現れるのはまだ早いんじゃないかと思うわ」
「だとするとあの世界で何が起こってるのかしら。それと彼女をこれからどうすればいいの」
「ああでもその疑問なら答えてくれる者が身近にいるわ。そもそもこの娘を連れて来たのはあなたなんでしょ、レア」
一瞬パットはパジル博士が投げかけた言葉に戸惑ったが、即座にその意味を知った。
『さすがにパジル博士だけのことはありますね。よく分かりましたね』
コンピューター音声のレアの声が突然変化し質問に答えた。
「そう、以前にパットからも船内でデリアとあなたとの会話を聞いていたようだし、微妙に本来のレアの受け答えと違うわ。途中であなたがレアと入れ替わった事を薄々感じていたの。あなたの事をどう呼べばいいの」
『一般的には創造者と呼ばれていますが、今まで通りレアで結構です』
「じゃあ、あなたなのね移民船からデリアと双子犬を連れて行ったのは。そしてパットをこの世界に寄越したのも」
パジル博士は語気強く頭上の空間を睨みつけた。
『その通りです。新たな世界の構築にどうしてもデリアの力が必要でした。ただそのために彼女を失ったパジル博士のお怒りは当然だと思いますし、心からお詫びいたします』
「あなたも人間の感情を理解できるようね、今は複雑な心境よ。それより今回の件よ。最初から話を聞かせてくれる」
『わかりました。その娘はタミアと言う名前でデリアの子孫にあたります。ここからすると別世界ですが、そこではパット、あなたが去ってから既に五百年の歳月が流れており、デリアの要望で私が連れて来たのです』
「五百年と言うとデリアは今どんな姿なの」
『はい、残念ながら彼女の肉体はもう存在しません。ただ、事情があって精神は健在で特定の生命体にのり移ることで第三者への意思表示が可能となります。今はもう無理ですがタミアもその一人です』
パットは溜息を吐いた。
彼女が別れた家族は皆過去の存在になるのであった。
『その世界はデリアの影響が各地に浸透して、徐々に発展してきましたが、一方で破壊しようとする存在が異世界から難敵を送り込んできました。その都度デリアが中心となって撃退してきましたが、今回は何者かがこの病原菌を持ち込んできたのです』
「それに罹った一人がこの娘、タミアなのね。他にも被害者がいるようね」
『タミアはある王家の一人娘ですが、父親のバイブル王は亡くなってしまいました。他にも大勢の者が集団で感染したようで、被害は深刻です。このことを知ったデリアはあなたに縋るしかないと考え、この娘をここに送るように私に要請したのです。さすがにパジル博士だけのことはあります。あのままでは彼女は死んでいたでしょう』
「どうもありがとう。でも他にも多くの患者がいる訳ね。相当感染力の強い、致死率の高い伝染病よ。放置すれば広がる一方だわ」
『その通りです。デリアとすれば治療方法が分かれば、その世界の人々に伝えて治癒予防していこうと考えております』
「でも私が教えたとしても、精神的な存在のあなたやデリアが直接人々とコンタクトが取れるのかしら」
『ええ、そこが頭の痛いところです。タミアが早く快復すれば元の世界に戻して活動することが可能となるのですが』
その時、パットが両者の会話をさえぎった。
「私が行くわ」
「え、パット何て言ったの」
「私が行くのが一番いい方法よ。
私はもともとあの世界の人間だし言葉も解ると思う、それに医学知識も学んでるわ。タミアはもう少し時間がかかるし、治療方法を短時間で覚えられるとはとても思えないの」
「パット、駄目よ。あなたにそんな危険な所に行かせられないわ」
「お母さんが期待しているわ。もしかしたら会えるかもしれない」
「あなたがいなくなると淋しいわ。ハワードももうすぐ帰って来るしここに居れば猛反対するわ」
「大丈夫よ。大勢の人々が感染症で苦しんでいるの。私の生まれた世界のことだけに他人事とは思えないのよ。行かせてママ。必ず帰ってくるわ」
「困ったわ。いったいどうすればいいの」
いつも冷静沈着なパジル博士が娘の意見に狼狽してしまった。
彼女は本当の娘デリアと永遠の別れを経験しているだけに無理はなかった。
『博士、彼女の提案に一理あります。ある程度目途がついた段階でこちらに戻すことをお約束します。恐らくデリアも彼女をあちらに残すことを望まないでしょう』
レアがそのように話すと、パジル博士は悲しみを込めた顔でパットを抱擁した。
「わかったわ。でも約束よ。終わったらすぐに戻ってきて」
その姿は愛すべき孫を手放したくない祖母そのものであった。




