破壊者(二)
サライとアモン親子は山奥の部落からの帰路、炭焼き小屋に立ち寄っていた。
平地近くの山間に位置し、老人が一人で暮らしており、いつもこの付近を往来する毎に覗いていた。
ところが老人の元気な姿は無かった。
彼は薄暗い部屋の中で死んでいた。
明かりを点けて調べてみると、寝具の周囲に水桶と布類が散乱していた。
部落の人々と同様、病魔と戦った後が見られた。
「全く同じ症状の様ですね。村の人から感染したのかな」
「いやそうではないな、ここから部落までは相当距離がある。お互い行き来したとは思えないな」
「じゃあいったい何が原因で病気になったのでしょうかね」
「わからんな。だが至急調べる必要がある。我々が知らない間に広まっているとすると大変なことだ」
二人は部落と同様に小屋も燃やした。
いずれも死後の確認で疫病かどうかもまだ断言出来なかった。
けれどもその次の日に少なくとも死因を直接目にすることになる。
平地に降りて通り道の民家数件を訪れたが、いずれも異常はなかった。
そして次に彼等が向かったのはギリア国最北の駐屯所であった。
北辺の警備がその任務で、要塞都市アダンから常に三名程度の兵士が派遣されており、いずれもサライ親子とは顔見知りであった。
その建物は森林道を抜けたライズ川支流の側にあり、小船で河川に沿って居留地を行き来することも可能な便利な場所にあった。
木材を切削、加工し組み上げられた家屋の入り口からサライが声を掛けた。
「おい、俺だ、サライだ。誰かいるか」
中から返答はなく、ひっそりと静まり返っている。
「皆、出掛けているのかな」
と言いながら取っ手を引くと、木戸は簡単に開いた。
ところが日射しを通して室内を覗くと、兵士達が床に横たわっているのが見えた。
彼は直感的に再び悪夢に遭遇したことを察知した。
念の為再度呼び掛ける。
「おい、どうした。大丈夫か」
後ろからアモンも心配そうに見守る。
ところが、その声に反応して一人が呻き声を出した。
サライは用心して口に布を巻き、物に触れないようにしながらその兵士に近寄った。
「俺だ、サライだ。喋れるか」
その兵士の顔は赤黒く変色しており、もはや絶望的な状態にあることは明らかであった。
他の二人は身動きもしなかった。
「み・・水・・」
サライは彼の願いを聞き留め、脇にあった瓶から柄杓で水をすくい、口元に持っていってやった。
もうほとんど飲む気力がないようで、唇を湿らせるだけであった。
それでも幾分息を吐いたようであった。
「どうした。何があった」
サライは薄情とは思いながらも感染を避けるため、ある程度距離を置いて彼に問い掛けた。
「わ・わからない・・三人とも高熱が出て・・動けなくなった・・気がついたら二人は死んでいた・・俺ももう駄目なようだ」
気の毒であったが、もはや手遅れの様子であった。
「何時からだ。病に罹った原因はわかるか」
「み・・三日位前から三人一緒に・・なんでこうなったか・・さっぱりわからない」
「思い出してくれ。その前に誰かに会ったか。何かおかしなことはなかったか」
兵士は喘ぎながら必死に記憶を手繰った。
「いつもと同じだ・・四日前アダンから食料が届いた。そして・・配達人夫が帰った後・・炭焼きのじいさんが来て・・木炭を置いていった・・」
「何、炭焼きの老人が来たのか」
この人物にはアモンも関心を示した。
「ああ・・そう言えば・・食べ物を・・持って・・帰らなかったな・・」
その言葉が彼の最期であった。
瞼の動きが停止し、呼吸も止まった。
サライはしばらく目を閉じて冥福を祈った。
アモンもそれに倣う。
三人とも親しかっただけに沈痛な思いであった。
「炭焼きの老人が立ち寄ったと言ってたな」
表に出るよう促しながらサライが言った。
「どうやら老人にうつされたようですね」
「いや、老人はそのころ病を患っていたはずだ。彼の足でここまで来て小屋まで帰ったとは思えない」
「じゃあ、思い違いなんでしょうかね」
「わからない。だが非常事態であることだけは確かなようだ。たて続けに犠牲者が出ているんだ。早急に上層部に報告し対策を講じる必要がある」
「ここはどうします。やはり燃やしますか」
アモンが建物を見ながら憂鬱そうに質問した。
「そうするしかあるまい。近隣の者が室内の物に触れる恐れがある。可哀そうだが仕方がない。そして見届けた後、急ぎ舟でアダンに出よう」
*
悲愴な面持ちで駐屯所が燃え尽くすのを確めた後、二人は小舟に乗り川を下った。
巧みに櫂を操り、急流を相当なスピードで乗り切っていく。
一刻も早く目にした惨状を関係者に伝えようと、水しぶきを浴びながらアダンを目指す。
そして本流のライズ河に入ってからもペースを落とすことなく急いだ結果、その日の夕刻前には目的地に到着した。
ギリア国最北の都市アダンは、もともとが北辺境に閉じ込められた魔獣を監視するために設けられた軍事用の砦であった。
一定の規模の兵士が常駐し、年を経るに従って、その家族や関係者も移住するようになり、小都市に発展していった。
十数年前には異世界の侵入者が現れ、兵団を戦地に送る出撃拠点ともなって、それ以来ますます重要性を増し人口は膨れ上がった。
サライはアダンの最高責任者と面会し、北辺の村や駐屯所で遭遇した惨事を説明し、被害が広がらないよう家屋ごと焼却したことを報告した。
更に疫病の感染を避けるため、流入者のチェック、異変の発生には充分注意するよう求めた。
この都市では彼の類い稀な戦士としての経歴は知られており、誰からも信頼され、その言葉を疑う者などなかった。
その結果疫病に備えるため、緊急の非常体制が敷かれる事となった。
そして被害者の家族への連絡を依頼した後、休む間もなく今度は首都カンビアに向け馬を飛ばした。
昔からサライは夜に行動することには慣れていた。息子のアモンも子供の頃からの訓練で特殊な能力と並外れた体力を身に付けていた。そして迅速な通報で被害の拡大を未然に防ぐはずであった。
ところが思ってもいない状況が彼等親子を待ち受けていた。
*
翌日疲れを押してカンビア市内に入った。
そして軍務局で直属の上司の長官に面会を求めた。
ところが急病のため休んでいると告げられた。
代わりに軍務卿に報告しようと試みたがやはり同様に自宅で静養しているという。
サライは悪い予感がした。
詳しく聞いてみると、他にも多くの関係者が休務しており、そのいずれもが一昨日に催された謁見の間での演芸披露会に出席していた。
彼はアモンと共に茫然とその話を聞いていた。
それでは王や王族も対象になるのである。
二人はその足で公邸に向かった。
どちらも深刻な表情で必要なこと以外口を開かなかった。
その思いは共通し、今回の急病が北辺の惨事と重なり合い、最悪の状況が予想された。
ほどなく公邸に通じる庭園の正門に着いた。
いつものように馴染みの守衛にバイブル王との面談の要望を伝えた。
もちろんサライが王の従兄弟で、親密であることは知られている。
ところが今日はいつものように素直に通してもらえなかった。
典医長から誰であれ許可無く入門させることを禁じられていたのである。
そのことから国王一家が何らかの災禍を被っていることが予想された。
サライは面談相手を典医長に変更して返事を待った。
その際、今回の疫病に関して伝えたいとの用件を添えた。
すると、しばらくして典医長が一人で正門に現れた。
「サライ殿、ご無沙汰しております。訳があって入門を制限しておりましてな。ここではなんですから、どうぞこちらへお越し願えないでしょうか」
彼は疲れ切っている様子で顔色が悪く目の下に隈が出来ていた。
サライ親子は彼の後に従った。庭園に入り砂利道に沿って進み最初の休憩所に入った。
屋根と椅子が設けられただけの建屋である。
典医長はサライの方に振り向き開口一番注意を述べた。
「このような場所で大変申し訳ない。事情がございましてな。私にもうつっているかもしれず、こうしてお話するのも危険で屋外である程度距離を置いたほうがいいでしょう」
「というと伝染病が公邸を侵しているということでしょうか」
「その通りですサライ殿。しかも非常に深刻な事態と言って差し支えないでしょうな。陛下をはじめタミア様、それと邸内の侍従、侍女の大半が病に罹っておられます。いずれも先日の演芸披露会に出席しており、同じ様に鑑賞された王族や国政の幹部の方々も臥せっておられると聞いております」
サライは唾を飲み込んだ。
アモンともども茫然自失の状態にあった。
「それで症状はどうなんでしょうか」
「それが我々医師団も全力をあげて治療に当たっておりますが、正直申し上げますが、状況は芳しいものではございません。いや、むしろ悪くなる一方と言うべきか。いずれもその日の夜半もしくは翌朝に発熱し、悪寒と喉の渇きを訴えており、食欲は減退し急激に体力を消耗しております。過去に症例がなく、似たような病気の治療歴を参考にして快復を図っておりますが残念ながら効果はありません」
それは彼等が出合った駐屯所兵士の病状と同じであった。
更に最北辺の部落、炭焼きの老人も同じ病の犠牲者と思われた。
「既に患者に付き添った人にも感染したケースもあり、早急の対策を講じる必要がありましてな。外部の医師や専門家とも連絡を取り合っておりますが、情けないことに今のところ有力な治療方法はございません」
「それでバイブル、いや陛下はどのような容態ですか」
「それが、最も悪いのが陛下でしてな。長年の激務で体を動かす機会が減ったせいで抵抗力が無く、持病も重なってかなり悪化しております。薬剤投与や瀉血治療等考えられるあらゆる手段を講じましたが正直言ってお手上げです。今は何かいい情報でもあればと藁をも掴みたい気持ちです。サライ殿も似たような症例に遭遇されたと伺いましたが」
「ええ、北辺境の地でおそらく同様の病を患ったと思われる人達を見ました」
「それでその方々はどうされました」
「いずれも亡くなりました。そして私の判断で感染を防ぐ為、建物ごと焼却しました。親しかっただけに断腸の思いで決行しました」
それを聞き典医長は絶句してしまった。
「それで陛下にはこのことをどのように伝えていますか」
「いや、仮にも我が主は国王でございます。うかつなことは申し上げられません」
その言葉にサライは典医としては重大でやむおえないことに思われた。
一方で患者であるバイブルの心中も察した。
「どうでしょう、陛下に面会できないでしょうか」
「ああ、でも・・」
「ご心配には及びませんよ。私達は既に疫病の犠牲者と思われる人々と行き会っております。今のところ大丈夫なようで接し方は心得ております」
「そうですか。いやむしろお願いしたいくらいです。リーラ妃が不在中で私どももどのようにお慰めすればいいか思案に暮れておりました。サライ殿であれば陛下も元気づけられましょう。参りましょう。私がご案内しますよ」
*
サライ親子はバイブル国王の寝室の前に立っていた。
典医長の案内で公邸館内に入ったが、建物の中はひっそりと静まり返っていた。
侍従や侍女及び邸内の居住者は医師団の指示で病人も含め全てが屋敷に留まっていた。
最も感染者の多い公邸から、外部に疫病を広めないようにするための措置であった。
従って別邸を含めそれぞれの部屋には病人や不安を抱いた人々がいるはずである。
空耳であろうか時折嘆き悲しむ声が聞こえてくるのであった。
隣室には精気のない侍従が控えていたが、典医長から席を外すように声を掛けられて部屋から離れていった。
そして国王の寝室にはサライとアモンだけが残された。
「バイブル、バイブル、俺だサライだ。分かるか」
寝台に横たわるバイブル王は呼び掛けに反応し、寝具から頭を出して彼等の方に顔を向けた。
赤黒く変色した表情は駐屯所の兵士と明らかに同じ症状であった。
「おお、サライか。見舞いに来てくれたか。悪いな」
けれどもまだ口調ははっきりしており幾分安心した。
「どうだ、加減は」
「ああ、見ての通りの体たらくだ。長年の不摂生のツケが回ってきたんだな」
「思ってたより元気そうだ。ゆっくり静養していればその内直るさ」
「いや、そうではないんだ。今は投薬の効果で少しは息が吐けるが、これが切れれば熱が上がる一方で苦しくって堪らん。医師達が色々手当てしてくれてはいるが悪くなっていることが自分でもわかるさ。どうやら不治の病に侵されているようだな」
「そんなことないさ。直らない病気などないよ。今までもっと大きな試練にも打ち勝ってきた君のことだ。こんな病気などなんということないさ」
サライは言葉を選んで出来る限り勇気付けた。
けれどもその努力もバイブルには通用しなかった。
「ありがとう。でも今度はどうやら駄目な予感がするんだ。それに私だけでなくタミアや親族も患っているようだな。それに軍務卿、侍従長や幹部達も。よく顔を見せる侍従や侍女もな。見舞いに現れたのは医師を除いて君が初めてだ。私は眠りながら考えた。この病はどうもあの演芸会と関係があるのではないかと。それと介護人の動作から判断して伝染性の病ではないかと思うんだよ」
さすがに繊細で洞察力の鋭いバイブル王であった。隠し事は無理に思えた。
「君の言う通りだ。この病気はあの演芸披露会で感染したようだ。ほとんど全員が同じ症状で寝込んでいる。教えてほしいバイブル。あの日いったい何があったのかを」
サライはありのままの事実を伝えたが、その言葉にバイブルは目を閉じて考え込んだ。
しばらくして彼は答えた。
「恩に着るよ。正直なところ話してくれて。私は大丈夫だがタミアや他の者は可哀そうだな。あの催しでは出席者の全員が驚き楽しんだ。特技や曲芸に奇術と出演者の芸に目が釘付けになったんだが特に体に影響を与えるような出し物はなかったな。食べ物も飲み物も出るには出たが口にしなかった者も大勢いたしな」
「いや、何かあったはずなんだ。思い出してほしい。病に罹っている者や顔色の悪い人間はいなかったか」
「私が見た限りではそのような者はいなかったな。ただ・・」
「ただ、どうしたんだ」
「顔色が悪いんではなく、その場に居合わせた見物客の顔を真似るんだ。いや一瞬にして作り変えていたな。不思議だったな。私もタミアも唖然として見惚れていたよ。一種の百面相芸人だったな」
「お父さん。確か百面相って書いてあったよ」
後ろからアモンが不意に声を掛けた。
サライもその言葉を思い出していた。
北辺の山間の村で遺族の子供の日記にその文字が書かれていたのを。
「そいつだ。そいつが疫病を広めたんだ。その芸人は他にどんな技を披露したんだ」
「彼は持ってきた袋からいろんな動物を取り出したんだ。そしてあの日もっとも盛り上がったんだが袋の中から雪を取り出して我々の頭の上に降らせたんだ」
「それだ、それが病原菌だったに違いない。だから場内の全ての人々が病に感染したんだ」
サライにはようやく真相をつかんだような気がした。
けれどもそれが何者なのか、何が目的で行ったのかまだまだ五里霧中であった。
「バイブル、俺はこれからそいつを追いかけ捕まえる。そしてこの病が何か聞き出すんだ。だから頑張るんだ。決して諦めるんじゃないぞ」
「ああ、わかったよ頼むよサライ。他の者も助けてやってほしい」
「必ず白状させるから待っててほしい」
「君のことだ間違いないさ。それとリーラ達がもうそろそろ帰って来るころだな。サライ君にもう一つお願いがあるんだがな」
*
ロンバード王国とギリア国を結ぶ山岳街道。
一昔前は辛うじて人が通れるだけの高峰を伝う隘路であったのが、両国の往来が頻繁となるに従って、道幅も広げられ所々休憩所も設けられるまでに整備されて、今や両国を結ぶ交通の要路になっていた。
けれども急な斜面の続く険しい行程であるのに変わりは無い。
その街道に数台の四輪馬車が多くの兵士に警護されて進む行列があった。
彼等はギリア国の使節団で、ロンバード王国の皇太子婚礼の祝典に出席してからの帰路であった。
一行はいくつもの峠越えを繰り返して、ようやくギリア国内に入っていた。
その集団のほぼ中央にひときわ目立つ豪華な馬車があった。
その中には今回の使節の主役であるリーラ王妃とパリス王子が乗っていた。
「母上、ようやく山林から抜けたようですよ。小窓からカルム河が見えます」
「そうねえ。後は下り道だから移動は早いわね。急げば今日中にはカンビアに着きそうよ」
久し振りにいつもの見慣れた光景に惹き付けられているパリス王子に母親のリーラ妃は答えた。
王子にとって国を離れての遠方への旅は初めての経験で、リーラもギリア王妃として長期間の不在は今回が初めてであった。
それだけに二人は我が家に戻って来た安心感に浸っていた。
「今回は土産話がありすぎて父上や姉上に何から話せばいいか迷ってしまいますよ」
「まあ、贅沢な悩みね。でも婚礼式典の様子や花嫁や参列者の豪華な衣裳、それに贅沢な料理、式場や披露会場の派手な装飾、確かに目移りすることが盛りだくさんだったわね。困る事も無理はないわ。皆、私達の話を聞きたくてうずうずしてるわよ」
「それにロンバードの人達は親切な方々ばかりでしたね。ソロマ湖もとっても綺麗でしたし。ぜひもう一度行ってみたいな」
「あなたの年齢だったら、これから何度でも行けるわよ。そのために多くの人達とも面識が出来たでしょう。楽しみにしていていいわよ。あら、この馬車止まってしまったわね。何かあったのかしら」
「他の地域から多くの人々が参加していたのにはびっくりしたな。いろいろ話を聞いてみて僕が知らない国もいっぱいあるんだなって」
「そういう意味からもあなたにとっていい経験だったわね」
その時御者から声が掛かった。
「リーラ様、どうやら急使が参ったようです。今親衛隊長が対応しております」
「あら、いったい何かしらね。変わったことでもあったのかしら」
馬車は停止してしまい、前後を人が行き来する気配が感じられた。
すぐに動き出すだろうと予想し、二人の間に感激した話題が引き続き交わされた。
ところが一向に出発する様子はなかった。
「どうしたのでしょうね。もうかなり時間が経ちますよ」
パリス王子が焦れて小窓から外に首を出した。丁度その時馬車の外から呼び掛けがあった。
「リーラ様、リーラ様、申し訳ございません。ご相談したいことがございます」
その声は今回の使節の最高責任者であるパスカル卿であった。
「どうしたの。待って、今扉を開けるから」
馬車の引き戸を開けると、困惑した顔のパスカルが立っていた。
一瞬嫌な予感を覚えた。
「ただ今王宮から陛下の伝令を急使が知らせに参りました」
「先ほど聞いたけど何か重要な内容なの」
「はい、首都カンビアで不測の事態が発生し、我々使節団の帰国を一時見合わせるようにとのことです。事態が正常化するまでの間、ロンバード王国に留まり、待機するようにとの指示にございます。玉印の押された文面もあり、陛下からのものに間違いはございません」
リーラにとっては全く寝耳に水の心境であった。
彼女は馬車の外に降りた。
「もうギリア国領内に入っているのよ。ここまで来て私達にロンバード王国に戻れって言うの。いったい何が起こっているの」
「ええ、急使に聞きますと、どうも疫病が発生し広がっているようです。それも感染した者は相当重症で現在のところ有効な治療方法はなく、しかも伝染性が強く落ち着くまでの間、帰国は避けたほうがよいとの進言です。ロンバード王宛の嘆願書も持参しております」
リーラは胸騒ぎを感じた。
伝染病とはいっても予防措置の徹底を図るとか、患者に近寄らないようにするとか方法はあるはずであった。
「誰が罹病しているの。王城内にも浸透しているの」
「いえ、そこまでは話したがりません」
「使いは誰なの」
「はい、サライ殿の息子のアモンです」
国王の急使としては妙な人選だった。
通常は王宮親衛隊の専任兵士が選ばれるはずであった。
サライはバイブルの従兄弟ではあったが、息子のアモン共々常は城外の任務に携わっており、直接のつながりはなく、よほど特殊な事情があるとしか考えられなかった。
もちろん彼女はアモンとも面識はあった。
「彼と会って話を聞きたいのだけどいいかしら」
「ええ、差し支えは全くございません。ただ、少々変わった装いをしております。どうやら今回の件と関係がありそうにございます」
そう言ってパスカルは部下にアモンを伴うように指示した。
しばらくして親衛隊員に案内された急使がリーラの前に現れた。
けれども彼はある程度の距離を開け膝をつき、それ以上近寄ろうとはしなかった。
さらに異様なのは顔中に布を巻きつけていた。
「リーラ様、大変ご無沙汰しております。この様な身なりでお目にかかることをお許し願います」
彼は一瞬顔を見せすぐにまた布で覆った。
「ああ、確かにアモンに間違いないわね。ご苦労様。でもまさかあなたも感染しているのかしら」
「いえまだその兆候はありません。ただ父と一緒に多くの患者と接触しております。その可能性はあり、あくまで皆様への伝染を防ぐことを念頭に置いています」
「パスカル卿から聞いたけど、その病は相当悪質なようね。直る見込みはないの」
「今まで医師たちが経験したことのない病気のようです。市中の医師団とも連絡を取り合いながら全力で対応しています」
アモンの一言は公邸内に浸透していることを示唆していた。
「私の想像では陛下もこの病に罹っているのね。もしかしたら、バイブルが私達への感染を恐れて、直接サライやあなたに伝令を頼んだのだわ」
アモンは無言のままであったが、否定もせず認めたも同然であった。
「感染力が強くて重症患者がいるって聞いたわ。じゃあ、タミアや侍従達も無事ではすまないわね」
「先日、城中で催しがあった際、何者かが病原菌をばら撒いたようです。父がその行方を追っています」
リーラは束の間不安を感じて考え込んだ。
聞けば聞くほど深刻な事態であった。
そして熟考した末に彼女は決断を下した。
「わかりました。陛下の指示に従いましょう」
アモンはその言葉に安堵したが、次の説明で例外のあることがわかった。
「パスカル卿。王子のパリスを含めこの使節団とロンバード王国に戻ってほしいの。兄のロンバード王も快く受け入れてくれるはずよ」
「で、ではリーラ様は・・」
「馬を一頭借りたいの。私はアモンとカンビア城に向かうわ」
パスカル卿は使節団長ではあったが、王妃リーラから依頼があれば断ることは不可能であった。
リーラは馬車に戻りパリス王子に言った。
「パリス、今の話を聞いたでしょう。せっかくここまで来たのに残念だけど皆とロンバードに戻って。念のための措置よ。大丈夫、私の兄もいるしお母様もいるわ。事情を話せば親切にしてくれるはずよ。私はこれからお父様やタミアのところに行くわ。きっと二人とも元気なはずよ。心配しなくていいわ。すぐに様子を知らせるから待ってて」
「わかりました、母上こそお気をつけて」
パリス王子は少々戸惑いながらも、リーラの気持ちを察して困らせることはなかった。
「ありがとう。じゃあ行くわよ。一刻も早くカンビアに辿り着くわ」
リーラは連れてこられた馬に着替えもせずそのままの格好で跨った。
彼女にとっては乗馬は昔からお手の物であった。
そして寸時も無駄を惜しむかのように早速馬を走らせた。彼女の頭にはもはや病に苦しむ人たちのことしかなかった。
その後をアモンが続く。
パスカル卿をはじめ使節の一行はその様子を呆然と見守っていた。




