魔獣(四)
リーラ王女は再びロンバード高原を抜け、ギリア国北方域に馬を走らせていた。
数日前はロンバード王国を救う一心で駆け通した道を、今度は前を行くバイブル王に引き離されまいと必死に追走している。
彼女の心には、恩人であるサラミスに降りかかった災厄を案じる気持ちと、バイブル王の態度が変化した理由を見極めたい欲求が入り混じり、高原での再会に思いを馳せていた。
王自身は一言も発せず、まるで何かに憑かれたように、彼女達の存在を無視しひたすら目的地に向かっていた。
ギリア国領内に入り、以前リーラ達が難渋した山間の道を進む。
ここでもバイブル王は少し馬を休ませた以外、ほとんど止まることのない強行軍で走る。
彼女はダン、アリス共々遅れまいと遮二無二駆け通した。
リーラ王女はこのハイペースに拘らず不思議と疲れを感じなかった。
むしろ皆が恐れているバイブル王と一緒にいると、不安が鎮まっている自分を感じていた。
まる一日が過ぎ、ようやくギリア北高原に通じる道に至った。
南に下ると首都カンビアに通じる分岐点から、ひたすら北上する。ところが、その道々荷馬車に家財道具を積んだ人々、子供を抱えて歩く夫婦連れ、馬を走らせる兵士達と擦れ違った。
以前とは全く異なる光景で、この街道を次々と南に向かって急いでいる姿が目を引いた。
ダンが途中で訳を聞いたが、その時点では皆至急避難するように指示されて移動しているとのことだった。誰も理由を知らないようだ。
バイブル王に引き離される恐れがあり、詳しく聞くことは諦め、山頂に向かって歩を進めた。
しばらくして今度は一様に顔を恐怖で引きつらせた人々、一目散に南に逃げて行く一団に出会った。
「怪物だ!」
「殺されるぞ!」
「悪魔だ、この世の終わりだ!」
皆、物騒な悲鳴を口走っている。
その様相に王女を始め、ダン、アリス共々不安に駆られた。
「いったい何があの高原の向こうで起こっているの?」
胸騒ぎとその理由を一刻も早く知りたいと思った。
*
そしてようやく、以前王女が保護されてカンビアへの道を切り拓くことが出来た高原山頂に到着した。
相変わらず、人々が怯えながら行き違う姿が見られる。
北辺境を見通せる高台に以前出会った老人が立っていた。四人は近づいて行ったが、彼が眺めている北方の空が薄赤く燃え上がっている。
馬を降りたバイブル王が声を掛けた。
「叔父上、遅くなり申し訳ございません」
老人は振り返った。
「バイブルか、それとリーラ王女、先日は失礼致しましたの。だが、今はもうお話している時間がないのじゃ。もう間もなく奴がこの高原に現れる。全ての物、全ての生ある物を焼き尽くしに」
高台から見下ろせる高原には、この山頂目指して逃げて来る人々が数多く目撃された。
「私はアダンに行き、彼等に避難するよう忠告した。しかし多くの者は信じようとはしなかった。いや信じられぬのも無理はない。あのような怪物がこの世に存在しようとは。私も今もって理解出来んのじゃ。しかし、奴を止められるのは、バイブル我々しかおらん。この世の中を救えるか否かは我々次第じゃ。バイブル、私にそなたの命くれるか?」
そう言ったサラミスの目付きは、以前見た優しさから程遠かった。
まるで自分に課せられた宿命に立ち向かうべく、並々ならぬ決意が溢れていた。
「叔父上、私は今日のために全てを捧げて参りました。たとえ奴にこの身を焼き尽くされようと、後悔することなどありません」
バイブルの答えも同様に、魔王と呼ばれた人とは別人に思われた。
リーラ王女はバイブルがサラミスを叔父上と呼び、敬う姿を注意深く見ていたが、その感傷に浸るのも束の間、草原の彼方にその物が見え出した。
しばらくは皆無言で息を凝らして、徐々に近づいて来るのを見つめていた。
その前方には、その怪物から逃れんと、必死で草原を駆ける兵士達、右往左往している人々が見える。
怪物は時折大きな呻き声を上げ、その頭から逃げ惑う人達に向かって、光線のようなものを浴びせ掛けていた。
外見が視界に入る距離まで近づき、リーラ王女は見た。今度ははっきりと。
額に三つ目を持っていて、上部から放たれた光は、辺りを瞬時に燃やしてしまう。
北方の空はもう既に真赤な炎が上がっている。
何物もその高熱によって焼き尽くされている感があった。
全長おとな十人分はあろうか。
体中、手といい足といい覆われた瘤に、身の毛のよだつ思いを禁じ得ない。
「サラミス様、あれは・・」
と王女は問おうとしたものの声にならない。
「魔獣、全てを焼き尽くし、食い尽くす怪物。三十年前私が出遭った頃より更に成長しておる。奴は生き物を焼き焦がした後、自分の食料にする。そして充分満足したところで増殖する。我々の考えられない早い期間に、そうなってはもう終わりなのだ。この地全て魔獣に覆われてしまう。今しかない。今しかないのだ。奴の息の根を止めるのは」
そしてリーラ王女に忠告する。
「王女よ、戻るがよい。今の内に安全な所に、もっとも我等が奴を倒せればの話じゃが」
そう言い置いてサラミスは小屋まで対決するための武器を取りに戻った。魔獣は徐々に山頂に近づいて来る。
逃げ後れた人々は発せられた光線にさらされて火に包まれ、時折勇敢な兵士が剣を振り上げ立ち向かって行ったが、触れることはおろか、近づくことさえ叶わず、燃え上がってしまった。
更に恐ろしいことに、焼け焦げた人と言うか獲物を鋭い歯で噛み砕き食べていた。
リーラ王女、ダン、アリス共々、このおぞましい光景を目の当たりにして、戦慄のあまり思考が凍りつき言い表す言葉さえなかった。バイブル王は言った。
「王女よ、還るがよい、ロンバード王国へ。安心せよ、奴は私とサラミスで必ず倒してみせる」
王女ははっと自分を取り戻した。その言葉には今までにはない優しさと思いやりがこもっていた。
サラミスが小屋から戻ってきた。
彼の手には十字の剣と夥しい文様が描かれた護符が握られている。
バイブルに剣を手渡し言う。
「分かっているなバイブル、奴の三つ目の間の急所を狙うのだ。他の場所を傷つけても何の意味もない。私がこの護符を直接体に貼り付け封印する間にだ。ただ、この光のもとどれほどの効き目があるのか私にもわからん。暗闇では全身を封印出来たが、恐らく無理だろう。但し、あの目の光は力を失くせるだろう。その時だ、その時奴にその剣を急所に突き刺し、気を放つのだ」
「分かっている」
とバイブルは相槌を打った。
そして二人は魔獣のいる方向に進み始めた。
と、その時後ろから不意に声がかかった。
「父上、その役目、私にお任せ下さい」
彼等は一斉に振り返る。
そこには既にリーラが面識のあるサライと、その横にはがっしり逞しい大男がいた。
額に傷跡があり、窪んだ目は見る者を射通せるような迫力が感じられた。
「ハーン」
とサラミスが呼んだ。
その名にリーラ王女はじめダン、アリスともびっくりしてしまった。まさか、あの覇王と言われたハーンが何故ここにと疑問を感じたが、その男がバイブル王に向かって伝えた。
「バイブルか、安心致せ。我が軍はそなたを恐れ散りぢりに逃散してしまったわ。やはり父上が見込んだのはお主だったか」
今度はリーラ王女を訝しげに見詰めた。彼女も負けずに睨み返す。
「ロンバード王国のリーラ王女だ。訳あって私と知り合いになった」
サラミスが紹介すると、一瞬怯みながらも頭を巡らせ王女に言った。
「そうか、ロンバード王には気の毒なことをした」
と目を閉じ哀悼の意を表す。
そして、再び草原の魔獣を見やりながらサラミスに声を掛ける。
「奴か、まったく見るからに獰猛な怪物だなこれは。父上のおっしゃる通りだったな」
「ハーン、構わぬのか、この様な怪物に命を賭けるようになって?」
「ふん、こんな奴にこの世界を蹂躙されてたまるか。サライ槍をもて」
ハーンはサライに武器を持って来させた。そして、ハーンも加わり男達は魔獣に向かって進み始めた。
「私が奴を誘き寄せます」
サライが馬を走らせると、サラミスが怒鳴る。
「サライあまり近寄るでないぞ。奴の目の光に気をつけろ!」
すぐ後ろからハーン、サラミス、バイブルの三人が立ち向かう。
リーラ王女はその状況に釘付けとなり、心配そうにダンとアリスにささやく。
「どうしようと言うの。あの恐ろしい怪物をどうやって・・」
ただ祈るのみである。
傍らのダンが答える。
「わかりません。ただはっきりしていることは、我々が行っても全く役に立たないという事です」
三人は彼等の後姿を山頂で息を凝らして見守っていた。
*
魔獣は逃げ遅れた人々を狙って、光線を放ち焼き尽くしていった。
通り道周辺は草木が無残にも燃え上がり、炎と煙が至る所でたちこめている。
囮役のサライは馬を操り近くまで進んだ。
その姿を魔獣が捉える。即座に額から光を放ったが、距離がありすぎ届かない。サライの挑発に魔獣は苛立つ。
彼が引き付け逃げる後を、かなりのスピードで追い掛け始めた。魔獣は二本足で素早く動くことが出来た。サライもこれは予想外だった。魔獣は徐々に近づき、射程範囲に捕らえるや光線を放つ。
サライは馬共々光を浴び、地面に投げ出されてしまった。彼はその熱さに芝の上を転げ回り、衣服が燃えるのを防ぐ。
魔獣はその獲物を目指して更に光を放とうとした矢先、サラミスとハーンが同時に腕を伸ばして、気風を浴びせた。
この気風は人ならば一度に十人余り吹き飛ばせることが可能であるが、十頭身近い魔獣は不意打ちを食らったものの、よろめいたに止まった。
すぐに立て直し二人の方に振り向き、光線を放つ。
サラミスとハーンは左右に動き気風を送りながら高熱を防ぐ。その熱気は距離が縮まるにつれ気風で抑え切れないほどのパワーがあった。二人ともその熱さに後退し始めた。バイブルはその時魔獣の背後に忍び寄っていた。
そしてすかさず前に回りこみ、十字剣を振りかざし飛び上がる。
「バイブル、まだ早い!」
サラミスが叫ぶ。が既に十字剣は三つ目の真ん中の急所に突き立てられていた。
しかし、その瞬間目が光輝きバイブルは剣もろ共弾き飛ばされてしまった。
魔獣は怒りをあらわにしながら、彼に向かっていく。
「ハーン、バイブルが危ない。助けるのだ」
サラミスが指示すると、ハーンは横に回りこみ、その目を狙って思い切り槍を投じた。
槍はみるみる魔獣の額に迫り、右目を貫く。
魔獣はその直撃に一瞬動きを止めたものの、すぐに立ち直り、瘤だらけの右手で槍を引き抜きながら、ハーンに対して光を放つ。
ハーンは熱線を避け地面を転がった。
「何て奴だ、こいつは不死身か?」
魔獣は更にバイブルに近づき、光線を放とうとしたが、今度は死角に入っていたサラミスが持っていた護符を目の前の足首に押し当てた。
まさに効き目が表れ、魔獣は苦しがり目から光が消えた。
バイブルは辛うじて起き上がり、再び十字剣を手にする。
しかし反撃のチャンスも束の間、魔獣は狂ったように暴れ足に張り付くサラミスと護符を払い除ける。
彼は大きく飛ばされ地面に激しく叩きつけられた。
高台でこの壮絶な戦いを見ていたリーラ王女、ダン、アリスは魔獣の途方も無い凄さに、ただただ圧倒されるばかりであった。
と同時に、彼等には何の力もなれずもどかしい思いに苛立った。
何という怪物なのか、何という化け物なのか、王女リーラは両手を合わせ、
「神様、あの人達を助けて下さい」
と祈り続けていた。
サラミスはもはや立つことすら覚束ない有様であった。
バイブルは焼けた仮面を投げ捨て、魔獣に立ち向かおうと身構える。
これを見たハーンは咄嗟に声を掛けた。
「待て、バイブル」
彼はサラミスに近づき、護符を取り上げた。
「父上、私の最後を見ていて下さい」
その言葉には穏やかだが覚悟を決めた響きがあった。
「何をするハーン!」
サラミスが彼の身を案じたが、ハーンは自分の革帯を解き、護符を懐に入れ、魔獣に向かって行く。
獲物を見定めた魔獣が光を投じてきたが、構わず気を放ちながら突き進み、その足元に食らい付いた
。そして手にした革帯を足首に回し、両手で掴み体ごとしがみつく。
魔獣の目の光は消えたが、苦しさに悶え、その硬く大きな腕で足元のハーンを何度も殴りつける。
「ハーンお主死ぬ気か!」
バイブルが叫ぶ。
ハーンは魔獣の爪で体中血を流していたが、
「バイブル、今だ、止めを差せ」
と瀕死の声を張り上げた。
魔獣は更にハーンを打ち据え、護符を引き離そうと試みたが、彼は満身創痍でかじり付く。
バイブルはもはやこれまでと、再度跳躍、剣を振りかざし、額の急所に渾身の力を込めて突き刺した。そしてあらん限りの気を、十字剣を介して魔獣の体内に放った。
その瞬間、剣と魔獣の額は青白く輝いた。そしてバイブルは発散する強力なエネルギーによって、気を失い弾き飛ばされた。
又、ハーンも力尽き地面に転がり落ちる。
その後、魔獣は体中の瘤が真赤に変色、高熱を発し始め、やがて燃え上がりのたうち回る。
その間、サライがバイブルとハーンを必死に安全な場所に移動する。
魔獣はその後も全身を炎に包まれ、呻き声を上げていたが、完全に倒れてしまい、その内動かなくなった。もはや、燃え残っているだけの物体と化していた。
サラミスは自ら起き上がった。
そして魔獣が完全に消滅したことを確認し、足を引き摺って二人の側まで来た。バイブルは気を失っていたが、ハーンは魔獣からまともに殴打され、体中ズタズタで虫の息であった。
サラミスは膝を付き耳元で声を掛けた。
「ハーン、ハーン」
もはや僅かな意識しかなかったが、
「魔獣は?」
と囁いた。
「魔獣は消滅した。ハーンお前が奴を倒し、この世界を救ったのだ」
ハーンはその言葉を耳にし、微笑みながら満足したように目を閉じた。
サラミスはしばらくハーンを抱きながら感慨に浸っていた。その顔は悲しみに包まれている。
リーラ王女、ダン、アリスもサラミス達の許にやってきた。
いずれも勝利の実感はなく、この惨状を目の当たりにして放心状態にあった。
サラミスは魔獣の残骸を見やりながら言った。
「終わった。今魔獣はこの世から消えた」
もはや原型を留めていず、燃え殻しか残っていない。
「ハーンは死んだ。我が息子ハーンは自分の野望に取り憑かれ、多くの人々の命を奪ってしまった。全て私が失敗を犯してしまったばっかりに、使命を引き継がせようと、私の期待が招いた結果だ。だが最後に魔獣からこの世界を救った。リーラ王女、静かに眠らせてやってくれまいかの」
子の冥福を祈るサラミスは普通の父親と何ら変わりがなかった。
「はい」
リーラ王女は返答し、横たわるハーンに対し手を合わせた。
「そしてバイブルは、私がその優しい純情な性格を取り上げてしまった。この魔獣と戦わせる為に、楽しいはずの青春を奪ってしまったのじゃ・・」
サラミスは声を落として嘆いた。
サライもその横で目頭を押さえている。
リーラ王女は仰向けに意識を失っているバイブルを見た。そして彼女は驚きの声を上げた。
仮面の内側の、炎を浴び真っ黒になった素顔は、まぎれも無く彼女が五年前ロンバード高原で山賊達に襲われた時、助けてくれた青年そのものであった。
「この方がバイブル王?」
その顔は魔王として怖れられた面差しはどこにもなく、罪を知らぬ無垢な青年としか映らなかった。
「何故この方があのような・・」
サラミスは少し物思いに沈んでいたが、王女の問いを受け静かに語り始めた。
*
「もうお話してもよかろう。バイブルは私の甥で、その父、つまり前ギリア国王のギニスは私の弟なのじゃ。そして我々の祖先は、この魔獣と同様、この世界とは別の世界からやって来たのじゃ」
「別の世界?」
とリーラ王女は驚きのあまり聞き返していた。
その後サラミスが語った話は、想像すら出来ない、途方も無く衝撃的なものだった。
「今から五百年前、我々の祖先はこの世界にやって来た。どこから、どのようにして来たのかは分からぬ。その後を追って敵対する者達もこの地に降りた。壮絶な戦いになったが、我々の祖先は驚くべき能力を持ち、姿形を魔物に変貌した敵を次々と仕留めていった。だが、その力も徐々に低下し、最後の一体だけは、あの北辺の洞窟に閉じ込めるのが精一杯であった。しかも魔獣の休眠期間は五百年と限られていた。あの護符が生命活動を阻止する信号を魔獣に送っており、期限が来ればその効果が働かなくなるらしい。
元の世界に戻れなくなった祖先は、魔獣の息の根を止められる戦士をこの世界で探した。しかし、その頃の世界は教養の低い未開の地であった。とても彼の期待するような人間はいない。そこで彼は自らを人間の生態に同化し、子孫にその仕事を委ねた。一方で文化の発展を促すために、この地の人々に様々なことを教える。つまり、文字、通貨、交易、彼が生活の向上に必要と判断した知識を多くの人々に授けた。
そして彼は社会が発展し、いずれ魔獣を葬るべく能力を備えた人間が育つことを期待しながらこの地で永眠した。又、その時のための内容を子孫に言い伝え、書き残した。人々が学んで進歩し、築き上げたせっかくの文化が魔獣のために滅びないように。
いつしかこの地も数百年が過ぎ、次々と新しい国が興った。伝承は途切れ、文書は散逸、かの魔獣の存在も忘れ去られようとしていた。
ところが、今から百年前に祖先から受け継いだ能力を自覚し、魔獣の存在を知り得た男が現れた。それが私の祖父じゃ。今のギリア国を建国したギリア王だった。祖父も最初はその力、気を発して風を起こす能力を何故自分が持っているのか理解しようとしなかった。
が偶然祖先から伝わる書付を目にした。彼は驚愕した。その時点で、魔獣が復活するのにあと百年しかない。真偽を確かめようと祖父は、兵を率いてライズ河を渡った。そして、洞窟を発見し、恐る恐るその中に入って行った。そこで彼が見たものは、あの瘤だらけの怪物が、唸り声を発して眠っているおぞましい姿であった。彼は愕然とした。書付は正しかった。けれども、とても今の自分の力では、この怪物を倒せないと悟った。
それから彼は首都として築いたカンビアに戻り、その魔獣を打ち倒す準備に全力を挙げることに専念する。まだ最新の武器や技術で対抗することは不可能と判断。書付に示された十字剣と護符を、八方手を尽くし捜し出す。また気風を操り、更にパワーアップする為の訓練を自らに課した。けれども、祖父にも十字剣を自在に操るほどの力はなかった。祖父は焦った。特殊能力の所有者は肉親に限られる。時が過ぎ、彼の子にもその能力は見出せない。ところが、祖父が年老いて、生まれた孫の私がその力を所有していることを発見した。安堵する一方即座に、子供であった私に懇々とその使命を言い聞かせ、潜在能力を引き出し、魔獣を倒す訓練を施した。
だが私が完全にマスターするのを見届けないまま、祖父は亡くなり後を私に委ねた。私は祖父の遺志を引き継ぎ、弟にギリア国を譲り、更に訓練を重ねた。
そして、ついに今から三十年前、私の相棒のカリムと一緒にライズ河を渡り、洞窟に入った。だが我々は失敗した。もう一歩のところで、魔獣を目覚めさせてしまい、仕留めることは出来なかった。辛うじて洞窟を崩し、再び奴を閉じ込めた。私は気を揉んだ。この崩れた岩盤を取り払い、魔獣を倒すことは不可能だ。もし誤って打ち損ねた場合、奴はこの世界を滅ぼすだろう。私に出来ることは、三十年後に奴が目覚め開放された時、奴を倒すことの出来る戦士を養成する以外ない。
月日が過ぎて、私は息子ハーンにその力を認めた。ハーンを特訓し気の力を教えると、めきめきと上達し、十字剣を使いこなす間際までこぎ着けた。だが思いがけず断念する日がきてしまった。ハーンは私の期待を裏切り、その力を自分の野望、即ち世界征服のために利用しようと考えていたのだ。ある日、ハーンの部屋に入ってみると、私から逃げ出したことが分かった。カリムの子カムイと語り合って出奔してしまった。彼等にとって、見た事もない怪物を相手にするよりも、より現実的な欲求を実現したいと思うのは無理もなかった。そして、その力を私の手の届かぬ南方の弱小国を制圧し、侵略する為に利用した。そこで私はハーンを諦めた」
サラミスは横たわるバイブルを見ながら続けた。
「そして他の血縁者を見回してみると、弟の子バイブルにその能力を認め、白羽の矢を立てた。大人しい子であるが、時々思いがけない力を発揮する事が分かった。
私は弟ギニスに頼み込み、バイブルを預かり仕込んだ。徐々に気を放つ力は上達した。しかし魔獣と戦うにはその性格が優しすぎる。バイブルは虫一匹殺せぬ、争いごとを極端に嫌う少年だった。その気質は魔獣と対した時、致命的な弱点になることを私は承知していた。一方で時間が刻々と迫る。私は短期間でその性格を自力で修正するのは無理だと判断、強制的に変える決心をした。即ち、私の気をバイブル自身に送り、その性質を強引に矯正してしまった。確かにバイブルは変わった。最初は全ての物事に不安を覚え、怯えるようになった。また、自分に近寄る相手には、自制出来ずにその力を行使しようとする。
その内、ギニス王の容態が悪くなり、バイブルを帰してほしいと懇請された。しかしカンビアに戻ったバイブルは感情を抑制できず、以前と別人になっていた。ギニス王が亡くなり、私も心配で何度か忠告、気を鎮めさせる為、仮面で顔を覆わせた。が、その内バイブルも煩わしく感じたのであろう、私にギリア国のことを口出ししないよう言い出した。私は残すところ数年しかないであろう魔獣との対決を控え、バイブルが心変わりするのを恐れて、カンビアを離れた。いずれバイブルも理性的になってくれるだろうと願ったが、あとのギリア国の状況は知っての通りじゃ。
だが結局二人して力を合わせ魔獣を倒してくれた。私が見込んだ通り、使命を果たしこの世界を救ってくれた。しかし、その為に私が二人の運命を変えざるを得なかった。全て私が三十年前奴を打ち損じたばっかりに。全て私の責任じゃ・・」
*
リーラは意識を失っているバイブルの近くに寄り、その顔を眺めていた。
恐らく彼は自分の本来の意思とかけ離れた決断を、一人で行っていたのであろう。
孤独であったろう。辛かったであろう。
もしこの魔獣がいなければ、もしこの能力に恵まれていなかったら、一体どのような青年に育ったのであろう。
リーラはしみじみとした思いを胸に、北風が吹き始めた草原で、バイブルの側にたたずんでいた。
「ウーン」
バイブルは意識を取り戻し唸った。
「バイブル様」
リーラは薄目を開けたバイブルに声を掛けた。彼は自分の目の前に寄り添う女性に気がつき、ゆっくり上半身を起こした。
その目は皆から恐れられている冷徹な眼差しはどこにもなかった。
純粋であどけないと言っていい青年の目であった。
そして、躊躇いながら、照れた表情で尋ねた。
「ここはどこですか? 何故あなたのような方が・・あなたはどなたですか?」
リーラはニッコリと笑顔を見せながら、バイブルに答える。
「私はリーラと申します。あなたの許婚と言われてますリーラです」
二人は恥かしげに見詰め合っていた。