魔獣(三)
リーラ姫は眠り続けた。
よほど疲労困憊の極にあったせいか昏々と眠り続ける。
途中、パスカル卿をはじめ何人かが部屋を訪れたが、彼女の熟睡している様子を見て無理に起こす事は遠慮した。
食事も何度か運び込まれたが、いずれも手が付けられていない。
「ウーン」
リーラはようやく眠りから覚め目を瞬かせた。
部屋の周囲を見廻しながら、ゆっくりと体を起こす。
しばらくその体勢のままで放心状態であったが、次第に自分が受けた屈辱の記憶が蘇る。
「私どれ位眠ったのかしら、今何時頃なのかしら?」
が、すぐに自分が刑を受ける立場であることを思い出し、気にするのを止めにした。
その途端、急に空腹を感じた。無理もない、ここ数日食事らしい食事をほとんど摂っていなかったのである。テーブルに食べ物が置かれているのを目にして側の椅子に移動、口にし始める。
「死刑を受けるかも知れないのに食事なんて・・」
と自嘲しながらも、すきっ腹に勝てず残らず平らげてしまった。
彼女はテーブルの横のソファにギリア国の軍装が置かれてあるのを不思議に思った。
「何故こんなところに、囚人は軍装を着せられるのかしら?」
窓が閉じられていて確かめようがないが、外はなにやら慌しい気配である。
だが、自分にはもはや関係のないことと心を戒めた。
その時、ドアがノックされた。返事をすると、見張り兵士が顔を出し、丁重に礼をした上で用件を告げた。
「リーラ王女、間もなく出発致します。ご準備お願いします」
彼女は諦めたように、もう覚悟は出来ていると告げて、出口に向かって歩き始める。
「そのお姿では。軍装にお着替えを。外でお待ち申し上げておりますので」
と兵は言い、扉を閉めた。
彼女は理解出来かねたが、判断力も失せており、素直に指示に従い服を着替えた。軍装姿で外に出たリーラを、数人の完全武装した兵士が待ち受けていた。
兵達は彼女に最敬礼をして、その内の一人が彼女に言った。
「もう既に皆集合しております。急ぎ参りますリーラ王女」
その言葉に彼女は不可解な思いを抱いたが、無言のままに伴われて通路を進む。
けれども結局好奇心が頭をもたげ、兵士の一人に質問した。
「いったい私はどこに連れて行かれるのですか?」
彼は意外そうな表情でリーラに答える。
「もちろん軍兵場です。サイアス将軍、パスカル卿も既にお待ちです」
「え!」
リーラは驚いた。軍兵場とはロンバード王国では、軍隊の召集、デモンストレーションの時に利用される場所である。自分の刑が言い渡されるには相応しくない。
通路を進むに従って疑問が広がり、一つの答えが頭をかすめる。
「まさか!」
と一瞬立ち止まる。
「そんなことが?」
リーラ姫は半信半疑である。
通路の彼方に明かりが見えている。兵士達は既に出口まで進んでいた。リーラ姫は陽の光に向かって、脳裡をよぎった可能性を確かめながら、再び一歩一歩進んだ。
そして、視界が広がり彼女ははっきり見た。軍兵場を埋め尽くした夥しい数の武装した兵士達。今まさに出撃するばかりの血気に溢れた兵士達であった。
彼等はギリア軍装を着用したリーラ姫を目にし、彼女の名前をコールし出した。皆人伝いに、今回のリーラ姫の勇気ある行動を耳にし、激励しているようだ。
サイアス将軍が彼女に近寄り話しかけた。その顔は好意に満ちている。
「リーラ王女、昨夜はぐっすりお休みになられましたでしょうか。間もなくバイブル殿下も来られ、ロンバード王国へ出発の運びとなりましょう」
リーラ姫は信じられないといった顔付きで聞き返す。
「サイアス卿、今なんとおっしゃいました?」
サイアスは事情がまだ飲み込めていないと知り、傍らのパスカル卿に確認する。
「パスカル、なんだまだお話していなかったのか」
二人の側まで来たパスカル卿は慌てて言い訳した。
「ああ、そういえば二回ほどお部屋にお伺い申し上げましたが、あまりにお疲れのご様子で、お休みでございましたので、ついお話出来ずにおりました。他の者がお伝えしているのではと思い違いし申し訳ござらん。やりましたぞ。リーラ様は成し遂げられたのでございます。リーラ様の強い熱意と国を思う愛情が、殿下の心を動かされたのでございます。あれより急ぎ兵を召集し、ようやく本日の未明に出発の段相整うこととなりました。全てリーラ様のお力の賜ですぞ」
リーラ姫は初め狐につままれた風であったが、徐々に喜びが込み上げ、嬉しさの余り目に涙を浮かべてパスカルに抱きついてしまった。
「ありがとうパスカル卿。私なんと言ってお礼をすればよいか、言葉もありません」
パスカル卿とサイアス将軍は共にリーラ姫の姿を見て、お互い満足の微笑を交わした。
「さあ、リーラ王女、兵士達が呼んでおりますぞ。お顔をお拭きになって彼等に顔を見せてやって下さい」
と彼女を優しく導いた。
「リーラ、リーラ」
兵士達の間に歓声が上がる。
もともとの友好国であったロンバード国と、共通の敵であるハーン軍に協力して戦うことに誰も異存は無かったのである。
そうこうする内に、軍兵場正面にバイブル王その人が現れた。
兵士達は王の姿を目にし、一斉に静まり返る。
もはや身体の一部となった仮面をかぶり、ゆっくり兵士達の前に立ったバイブル王は、威圧感を周囲に与えながら喋り始めた。
「兵士達よ、我がギリア王国の勇敢な兵士達よ。我々は再びハーンの理不尽な侵略を受けるに至った。今ハーンはロンバード王国に進軍している。やがて我がギリア王国にも再侵攻して来るであろう。今こそハーンを討つべき時がきた。我がギリア王国の正義と平和を守る為に立ち上がろうではないか」
「ギリア万歳、ギリア万歳」
「バイブル王万歳、バイブル王万歳」
と誰彼とも無く唱和し始め、兵士達は興奮の坩堝となった。
そしてバイブル王が右手を高々と振り上げ出発の合図を示すと、先発隊を先頭に整然と順列を組み進軍し始めた。数万の兵は打倒ハーンを胸に秘めて意気揚々と進んでいく。
戦場となるロンバード王国の首都ソロマまでの距離から、予定では三日目には一戦を交えるはずである。
*
「リーラ様、リーラ様」
と先陣のバイブル王からやや遅れた一行に加わる王女に、後ろから声が掛けられた。
親しみのある聞き慣れた呼び掛けに、思わず馬を止め振り返る。
「アリス、ダン」
リーラは満面に笑みを浮かべ喜びを表す。
二人ともギリア国の軍装を身につけていたが、ダンの方は包帯姿で見るからに痛々しい身なりであった。
「リーラ様、リーラ様はご立派です。とうとうギリア国を動かしたのですから」
アリスは王女に近寄り目頭を押さえながら褒め称えた。
「ダン、アリスこれもあなた方のお蔭よ。私感謝で胸一杯だわ。ありがとう」
とアリスの手を取った。
「ダン、あなたにはこんなに辛い目に合わせてしまって」
「いいえ、リーラ様、その甲斐あってギリア国が応援に動いてくれました。それを思うとこんな傷など大したことありませんよ」
「大丈夫なの、私が誰かに頼んで傷が治るまで休養させて頂くようにと・・」
「ギリアの兵士は私に静養するようにと言ってくれました。けれども強引に同行させてくれる様お願いしたのです。皆がロンバード国のために戦うっていう時に、私だけ暢気に寝ている訳にはいきませんよ」
なおも心配そうなリーラ姫にアリスが横から声を掛けた。
「ところでリーラ様、あれ程頑なだったバイブル王が何故意を翻したのでしょう」
問われたリーラには答えようがなかった。
接見室での王の冷ややかな態度、鼻にもかけない応対であったのが、何故急に意志を変えたのか心当たりはなかった。
バイブル王は軍列の先頭付近を黙々と歩んでいた。
その周囲には将校達が固まっていたが、王には必要以上に誰も話しかけない。勘気を恐れてか遠慮している様子である。
王女はダンとアリスに、
「私まだバイブル様にお礼を申し上げてなかったわ。これだけの兵を集めて頂いたのはバイブル殿下のおかげよ」
と言いながら王との距離を詰める。
兵達は王女の為に道を開けてくれ、バイブル王の横に並ぶ形となった。
リーラ姫は思い切って話し掛ける。
「バイブル様、私この度のこと何とお礼を申してよいか。ありがとうございます」
王は彼女を一瞥し、普段と同様の感情を殺した口調で答えた。
「リーラ王女よ。勘違いするでない。私はこれ以上ハーンが領土を拡大することが、我が国にとって危険だと判断したから動いたのだ。ロンバード国の為ではない。もしハーンを打ち負かした後、どのようにするかは、まだ考えておらん」
とロンバード国を占拠する可能性を示唆した。
リーラは少し怯みはしたものの、気を取り直し王に返答した。
「私はとにかくロンバード国からハーンの軍隊を追い返してほしいのです。その後のことはバイブル様を信じております」
その言葉は彼にとって思いがけないようである。
リーラはその時のバイブル王の瞳の変化を見逃さなかった。
そして意外な気がした。いつもの冷淡な視線でもなく、時折見せる相手を射抜く様な鋭さでもなかった。
まるで子供のような照れた表情が垣間見られた。
その心の揺れを隠すかのように、前に向き直り王女に尋ねた。
「サラミスは元気であったか?」
リーラ王女は驚き狼狽した。バイブル王はサラミス様を知っている。そういえばサラミスと別れる際、困った折には名を出すように言われたことを思い出した。もしや王の心変わりの張本人ではなかったかと疑いつつ答えた。
「はい、北方の高原の住居で大変お世話頂きました。お元気そうでございました」
「そうか・・」
バイブル王は安心したように頷き、それっきり黙ってしまった。その後はひたすら軍を先導して馬を進ませる。
しばらくしてアリスがリーラ王女に追いついた。
二人は元の位置まで戻り、
「リーラ様、バイブル王は何かおっしゃいまして?」
とアリスが尋ねた。リーラは考え込んだ。そして注意深く答えた。
「アリス、私思うの、バイブル様は皆が思っている様な方ではないんじゃないかと」
アリスはそれに対して思いがけないことを言った。
「リーラ様、お怒りにならないで下さい」
「なあにアリス?」
「リーラ様。私後ろからバイブル殿下と並んでおられるお姿を拝見して、なにか、こうお似合いのカップルのように思われて」
王女はアリスの感想を笑って打ち消したが、バイブル王のことが気に掛かっている自分を意識していた。
そして彼女の視線はその後姿を追っていた。
*
その頃、ロンバード王国の首都ソロマ近郊では、既にハーン軍との戦いの火蓋が切られていた。
数日前、ロンバード王国軍はアルバード王を中心にハーン軍を迎え撃つ陣容を決め、ソロマに通じる三つのルートの要所に守備兵を配備した。
一つはソロマ湖沿岸ルートで、ここには王宮親衛軍の一部と、応援に駆けつけた北方三国の混成部隊が、二つ目はムガール国に直接通じる中央道、ここには現在国内の最強師団である無傷の第四軍を置く。
更にソロマの東側を回り込むロンバード高原には、ムガール戦の退去兵、召集兵、志願兵を配備。現時点での戦力で、最善の陣容を構えた。
ソロマには、アルバート王及び重臣達が、各方面軍の作戦行動を指示出来るよう本部を置き、王宮周辺に待機させた親衛軍をいつでもどのルートにでも応援に繰り出せる体制を整えていた。
最初にハーン軍と一戦を交えたのは、ソロマ湖岸の混成軍であった。敵軍は並列の陣容で大軍を装って押し寄せたが、緒戦でよく守り抜き追い返す。
この報告は王宮本部に次々ともたらされたが、その後は積極的に攻撃してくる気配はなく膠着状態となり、あくまで防衛線上に止まるよう指示した。
次に中央道にハーン軍の本体とおぼしき軍兵が現れる。ここでは敵兵の波状攻撃で第四軍との間に激しい攻防戦が繰り広げられた。日頃の訓練が行き届いている第四軍は、さすがによく防戦。しかし続々と現れるハーン軍の、切れ目のない攻撃に対し、次第に疲労が目立ち始める。本部ではその報を受けすぐさま検討を行った。
「殿下、このままでは第四軍が崩される恐れがあります。至急増援部隊を送る必要ありと考えます」
参謀官の進言にアルバート王も親衛軍を動かす時期と判断していたが、念の為質問せざるを得ない。
「中央軍の敵軍が本隊である可能性が高いか?」
「いえ、それは何とも言えません。ハーン軍の規模を想定した場合、沿岸ルートの軍と同様、別働隊かもしれません。しかし、このままでは、中央道を抜かれソロマに直撃される危険があります。そうなっては防戦一方で反撃困難になってしまいます。殿下のご決断お願いします」
アルバート王は難しい局面に立たされていた。
今、親衛軍を応援に向かわせた場合、仮にロンバード高原に本隊が現れたとすると、戦場が広いだけに窮地に立たされてしまう。敗残兵、召集兵等の寄せ集めの軍隊だけで守り切れるかどうか。
けれども、中央軍の敵軍もかなり組織化された精鋭部隊が押し寄せており、このままでは危ない。
王は決断を下した。
「わかった。親衛軍を差し向けろ。またソロマ湖岸に配備した兵は、指図次第でいつでも移動できるよう連絡を保て。ロンバード高原の兵はそのまま動かすな」
その命により、首都を守る王宮親衛軍は中央道に向け出動した。
けれどもこれは賭けであった。もはや他のルートを支援する兵は無く、首都を防御する兵もいないのである。
あとは現在激戦中である中央道の戦果を期待するだけである。
その後、中央道では援軍の甲斐あって、ハーン軍を押し気味であるとの報告が入った。
一時疲れが目立ち始めた第四軍も親衛軍の到来で勢いを盛り返す。
これに対し敵軍も積極的に兵を繰り出すことを控え始めた。この報告にアルバート王は初めの頃は満足していたが、湖岸ルートに続く戦況の変化に悪い予感を覚えた。いずれのルートも一進一退、いったいハーンは何を考えているのか。いつの戦場においても策略を巡らし、兵を縦横無尽に動かしている。
今回も何か策を弄しているはず。アルバート王や参謀達は緊張感に囚われていた。そしてその悪い予感が的中する。ロンバード高原より伝令の兵が息せき切って駆け込んできた。
「報告します。ただ今ロンバード高原南方にハーン軍が現れ、防衛軍と戦闘中。敵の数は我が軍を上回る様子」
「なに!」
アルバート王をはじめ重臣達は色めき立った。
「もしや、ハーン軍の主力。軍将は敵の戦力をどう見ている?」
「はい、このまま我が軍も総力をもって守備するも、防御ラインが広く場合によっては増援をとの意向」
「わかった。ご苦労であった。すぐ検討しよう」
と伝令兵を労い、引き下がらせた。
「今、動かせる兵は?」
本部の者は皆一様に深刻な表情を隠せなかった。
「ええ、中央道は敵と互角で、兵を引けば苦しい状況に追い込まれることは明白。湖岸の親衛軍を回すことは可能ですが、すぐには無理です。ここは高原守備軍に頑張ってもらう以外には・・」
「やむを得まい。至急湖岸軍に連絡せよ。そして高原軍には援軍が到着するまで何としても食い止めよと」
とアルバート王は命じたが、彼は既に覚悟していた。
ハーンは湖岸ルートと中央道にそれぞれ兵を分散し、陽動作戦に打って出てきた。
ロンバード王国軍を上回るハーン軍は、最初から時間を微妙にずらして、高原方面より主力でソロマに進出することに決めていたのであろう。
湖岸軍が間に合っても、撃退出来るか疑問であった。
「ご報告します。ハーン軍の兵力、我が軍の倍近くに思われます。はなはだ苦戦中です」
「防御地点、二箇所を敵に崩されました。必死に防戦しておりますが、もうあまりもちません」
時間を経るに従い戦況は緊迫感を増し、敗色濃厚となってきた。
「湖岸軍はまだか!」
「殿下、まだ一時は掛かると存じます。高原軍も全力で防戦しておりますが、もう半時もつかどうか。この場所も安全とは言えません。避難されることを進言します」
「何をバカな。我がロンバード兵士が生死を掛けて戦っている時に、私がおめおめと逃げ出せようか。馬を引け。私も一矢報いてくれるわ。馬を引け!」
とアルバート王は興奮して叫ぶ。
「殿下、気をお鎮めに、決して逃げる訳ではありません。軍司令部を別の場所に移すだけ・・」
「ええい、黙れ、同じことではないか。ハーンがこのソロマに入ればロンバード王国はその時点で敗れる。そんな事が分からぬ私だと思うか」
「殿下、殿下だけでもご無事であれば再起も可能です」
と重臣達は必死で王を諌めた。そして、更に追い討ちをかけた伝令がもたらされた。
「高原軍に対して、東方からもハーン軍の大軍が現れました。もはやなすすべがありません」
この報に全てが声を失った。万事休すである。今や完全にロンバード軍の息の根が絶たれてしまった。
いったいハーン軍にはどれだけの兵がいるのか、誰もが見当もつかない。アルバート王は唇を噛み締め椅子に座り込んでしまった。
彼は弱々しい声で呟いた。
「終わった。ロンバード王国五百年の歴史は今終わった。私の非力のせいで、多くの兵の犠牲に報いることが出来なかった」
周囲の者は皆悔し涙に暮れていた。
「残念だ、皆の者。ロンバード王国を最後まで愛し、忠誠を尽くしてくれた者達よ。大変ご苦労であった。私は王として深く感謝に堪えん」
「殿下、ぜひお逃げ下さい。後は我々が処置致します」
「いやいい、私のことは自分で責任を取る」
王は優しく拒んだ上で、付け加えた。
「このまま各方面の兵に負けると分かって戦わせるに忍びない。それぞれ、独自の判断で撤退を指示するように」
重臣、参謀達はこの言葉にしばらく返答出来なかった。それを見て今度ははっきりと、
「命令だ。至急各方面軍に伝えよ」
と命じた。重臣達は躊躇いながらも、
「は、そのように指示します」
と言い、伝令兵に伝えようとした。
*
その時、一人の兵士が息を喘がせ飛び込むように入って来た。
「ほ、報告します。高原東方面よりの大軍、我が軍への援軍であります。旗印からギリア国軍だと思われ、現在ハーン軍を撃退中」
この報に、アルバート王はじめ重臣達は思わず耳を疑った。
「なに、ギリア軍が、そ、それはまことか?」
「は、バイブル王自ら指揮されている様子で、ハーン軍に対し軍団を展開中です」
アルバート王は一瞬信じられなかった。まさか鎖国を頑なに続けていたあのギリア国が応援に駈け付けるとは。
「殿下、殿下!」
周囲の一斉の喜びの声でやっと我に返った。藁をも掴む思いが一転現実になったのだ。
「ギリア軍が我が軍の応援に加わった。よし勝ったぞ。我々は勝利したも同然だ。バイブル王の陣頭指揮だ。相当兵力の軍に違いない。各方面にそのように伝え、すぐに応援に当たるので、敵を積極的に攻撃するように指示せよ」
王宮内は少し前の意気消沈ムードが嘘のように、活気に満ち溢れた。
そして本部に残る全ての兵が、各方面に駆けつけて行く。
ギリア兵は高原方面に展開中のハーン軍本隊を、真横から不意を突いた形となった。
奇襲を受けたハーン軍はもろくも崩れ、一気に統制を乱し逃走し始めた。更にギリア軍の一部は中央道に向かった。両軍戦力拮抗していたが、ロンバード兵の士気が一度に上がり、ここでも敵軍を圧倒し出した。
ギリア軍の強さ、兵力もさることながら、魔王と呼ばれたバイブルの威圧感は絶大で、寄せ集めのハーン軍は恐れをなして逃げ出す者も少なくなかった。
今までの劣勢が一気に逆転、多くの犠牲を出したロンバード兵は、恨みを晴らすべく逃げまどうハーン軍兵士を追う。
そして全ての兵士が喜色に包まれていた。
*
ギリア国王バイブルは軍将を従え、ソロマ近郊で指揮をしていた。
王自身は興奮することなく、いつもと同様に淡々と各戦線からの報告に耳を傾けていた。
その陣所にアルバート王が数人の重臣を引き連れて現れた。
アルバート王は配下の将校に伴われ、バイブル王に紹介される。
噂通りの仮面姿に多少戸惑いを感じたが、冒頭丁重な挨拶を述べた。
「バイブル殿下、この度の参戦、我が軍へのご協力厚く御礼申し上げる。ロンバード国を代表して心から感謝させて頂く」
「アルバート殿下、間もなくハーン軍は完全に撤退しよう。もともと恩賞目当ての寄せ集めの軍、しばらくハーンも立ち直れまい」
「我々も貴国のことを思い違い致しておりました。申し訳ござらん。戦闘終了後、改めて御礼に参上しとうござる」
「礼を申されるならば、そちらに居られるリーラ王女に言われるがよい」
と王女の方を指差した。アルバート王はギリア軍装に身を包んだ彼女を見て、目を丸くして驚いた。
王女は顔一杯に喜びを表して
、
「お兄様!」
とアルバート王のもとに駆け寄り抱き付いた。
「リーラ、いったい何故ここにいるんだ。お前が居なくなって心配したんだぞ」
「お兄様、ご免なさい。話せば長くなるから。でもギリア国の方達皆優しい人ばかりだったわ」
慈悲深い目で見ていたサイアス将軍が捕捉する。
「アルバート殿下、リーラ王女は死を覚悟して・・」
と言ってしまった後、しまったという顔をしながら説明し直す。
「いや、貴国への応援依頼の為に馬を走らせ、我が国の王宮に一人して来られたのです。ご立派でございました」
アルバート王は呆れた顔で、涙ぐんだ妹に一言。
「カンビアへか、まったくお前って奴は」
「ダンとアリスに助けてもらったのよ。私ロンバード国のためを思って矢も盾も堪らず。ギリア国の皆様には大変ご迷惑をお掛けしてしまって」
「この度のこと、バイブル殿下には大層ご迷惑をお掛け申した。まったく私の不徳の致すところで申し訳ござらん」
「アルバート殿下、この戦いによってハーン軍は敗退しようが、ハーンその者には決して止めを刺すことは出来まい。我々はその復活をこれから食い止めることを考えなくてはならない」
「まことにおっしゃる通り、私も同感です」
アルバート王は、バイブル王の感情を押し殺した返答、顔を覆う仮面に不気味な印象を受けながらも、その沈着冷静な指摘に感心した。
*
その時、近習の兵士がバイブル王の側に寄り用件を伝えた。
「お取り込み中、申し訳ございません。ただ今、サライと申す男が、どうしても至急殿下にお目にかかり、お話したいことがあると申してますが、いかが致しましょう?」
「何、サライが!」
王は少し驚いた様子。
リーラ王女もその名前を聞き、意外な感を抱いた。
「構わぬ、すぐ通せ」
王は少しの躊躇いもなく命じた。
王女は命の恩人であるあのサライであるなら、何故この様な場所に、又、なぜバイブル王が知っているのか疑問に思った。
が、しばらくして彼等の前に現れたのは、まさしくあのサライその人であった。
彼は馬で走り詰めであったようで、息遣い荒く切迫した用件に思われる。周囲の人達のことなど全く無視し、バイブル王に走り寄って来た。
「バイブル、奴が復活した」
前置きもなく、王を呼び捨てにした。
「まさか、まだ早すぎるのではないか・・」
王は絶句、表情は隠れているが、驚愕の様が伝わってくる。
「あのカムイが奴の封印を解いてしまった。奴を操って世界征服を果たそうと企て、部下達と一緒に北辺境に渡ったが、逆に総勢百名余りあっという間に殺られたそうだ」
「カムイがか、何てバカな。それで今奴は?」
「間もなくアダンに。今父上が市民に避難するよう説得しているはずだ」
「そうか、それでサラミスとは何処で」
「いつもの高台の小屋だ。そこにおびき寄せ迎え撃つ手はずだ」
「分かった。すぐ行く」
と答えたバイブル王の全身が小刻みに震えている。
周囲の者は王のこの様な緊張した姿を見るのは初めてで、全く何が起こっているのか理解出来ず呆気に取られていた。
ただ、リーマ王女だけは、サラミスの名前が出て、ただ事ならぬ事態がギリア北方高原で起こっていると感じた。
以前にサラミスが、
『我々はこの世界を邪悪なものから守るためここに居るのだ』
と話した言葉が頭をよぎる。
その内、サライはもう一人に伝える必要があるとのことで、急ぎ辞去していた。
サイアス将軍が心配そうに話しかける。
「殿下、大変な問題が発生したご様子。何でしたら兵を差し向かわせましょうか?」
王はすぐさま答えて、
「兵など何の役にも立たん。馬をまわせ、私はすぐに行かねばならん。アルバート殿下、一刻の猶予もならぬ事が生じた故失礼する、お許しを。後はサイアス将軍、任せたぞ」
と有無を言わせず命じた。
将校たちはただバイブル王の指示に従うのみで、理由を聞く勇気のある者などいなかった。
馬が引かれて来て、王が乗ろうとした時、リーラ王女が声を掛けた。
「私も行きます」
とダンとアリスに馬の用意を指示する。
アルバート王をはじめ、周りの者は皆、唖然とこの成り行きを凝視。
バイブル王は訝しげに言った。
「リーラ王女、王女が来ても危険なだけで手助けにはならん。ここに居るがよい」
「いえ、サラミス様は私の命の恩人です。何が起こったか分かりませんが、私も行きます。止めても無駄です」
とむきになって言った。アルバート王ははらはらしながら、
「リーラ、そんな無理言うもんじゃない」
と戒めたが、
「お兄様、お願い今度こそ最後のお願いよ。行かせて」
と兄王に甘えながら、バイブル王に目を向ける。
「好きにするがよい」
王はそう言いながら馬を走らせ始めた。リーラ王女も遅れまいと馬に乗り追いかけ、ダンとアリスも当然のようにこれに続く。
後に残ったアルバート王、サイアス将軍、その他重臣達はただただ茫然と彼等が走り去って行くのを見送る以外なかった。