魔獣(二)
「リーラ様、アリスこちらの道を進みましょう。少し遠回りになりますが、恐らくギリア兵は少ないはずですから」
カルム河を渡り、北側の山沿いの道との分岐点でダンは進言した。
三人の若者は昨夜話し合った末、今朝早く避難する市民に紛れてソロマを出発した。
そしてひたすら馬を飛ばし、カンビアへの道を急いだ。
『今ごろ、アナシア国に行くはずの私が居なくなって兄のアルバートもびっくりしているはずだわ。でもお兄様、私を許して、必ずやり通すわ。ロンバード王国の為に』
リーラ姫は馬上で使命感を噛み締めていた。
実は昨夜、母親の王妃だけにはその決意を伝え、お別れを述べた。
王妃は娘の身を案じながらも、自分も若ければ同じ事をしたであろうと理解し逆にリーラを励ました。
そしてロンバード王家の証である純金のペンダントを授けたのである。
リーラ姫は母親の愛情の深さを思うと、改めて自らの役割を成し遂げようと胸に誓うのであった。
休憩もそこそこに、一刻の時間をも惜しみ、夜半も月と星の光を頼りに疾走、次の日の明け方にはギリア領内に入った。
かなり険しいライズ河寄りの山麓の道を選んで進む。馬一頭が辛うじて通れる幅の林道の連続で、普段利用されていないのか人との行き交いはない。
そしてその日の夕方には、領内の奥深く、ライズ河岸に近い位置まで到着した。
もうしばらくすると南下するが、監視兵が見回っている可能性が強く、注意を怠らず進む。ここからは首都カンビアまで一日半の距離にある。リーラ姫も気を引き締め、手綱を操る腕に力が入った。
ところが、しばらく走ったところで五、六人のギリア兵士と遭遇してしまった。三人は行く手を制止され、どこに行くのか尋問された。
ダンは商いでカンビアに行く途中だと言い張ったが、他の二人が女性で服装が他国ものと見破られ、怪しまれてしまう。ダンは二人に目配せして突っ切ってしまおうと合図する
。兵士の一部が馬から降りたのを機に、彼等は全力で馬を走らせた。
兵達は慌てた。隊長らしき男が追跡して捕らえるように命じる。
三人は必死に逃走する。彼等も子供の頃から馬で走り慣れているが、昨夜から乗りづめで疲れが出ており、追手の鍛えられた兵達も負けてはいなかった。徐々に差は縮まってくる。ダンは追い付かれると悟り、二人に声を掛けた。
「私が彼等の相手をします。その間にアリス、リーラ様を頼むぞ」
と言うなり、反転、剣を振りかざし兵達に向かって行った。
「アリス、ダンは大丈夫?」
と心配そうに聞いたが、
「大丈夫です。ダンはあれでもロンバードでは剣の達人ですもの」
との返事。が、後ろを振り返ると、ダンが争っているのを抜け出し、二頭が彼等の後を追ってくるではないか。
アリスは危惧し、リーラ姫に近寄り伝えた。
「リーラ様、向こうに分かれ道があります。リーラ様は左に入って下さい。兵は私が引き受けますから」
「アリス」
「もう余裕はありません。早く行って下さい」
リーラは急かされた。その指示に従い可能な限り馬を飛ばす。
背後で、
「リーラ様、ご無事で」
とのアリスの声が聞こえる。
アリスは二人の兵を牽制し、充分引き付けたところで右側の道に彼等を誘って馬を走らせた。
リーラは駆けた。無我夢中で遮二無二進む。
そしてかなりの時間が過ぎ、後ろから追手が来ない事を確認して馬を止めた。彼女はダンとアリスが無事であるよう心から祈った。
そして自分だけでもカンビアに到着しなければと焦ったが、道が皆目わからない。とにかくカルム河の方向に出ようと、南の方角を目指す。
しばらくして、一頭の馬が彼女に向かって来るのを認めた。咄嗟に林の中に難を避けようと暗がりに入り込んだが、相手もそれを見てゆっくり追って来る。
リーラは何としても逃れようと馬を急かせたが、運悪く窪みに脚を取られてバランスを崩してしまった。乗っていたリーラは馬から放り出されて、頭から地面に叩きつけられた。
万事休す。打ちどころがいけなかったようだ。
地面に横たわり、意識の遠ざかる中で、おぼろげに足音が近づいて来るのを感じていた。
*
リーラ姫は夢の中で、父ロンバード王に叱られていた。
『リーラ、お前の我儘には困ったものだ。私にもどうすることも出来ないぞ』
何度も繰り返し注意されていた。
彼女は身を竦めてその顔を眺めている。父王は激しく咎めながらも、優しそうな表情をしていた。彼女には慈愛あふれる心情が伝わってくる。
その父親の顔がぼんやりと年老いた男性の輪郭に変化していく。
そして、その横には比較的若い顔がもう一人現れた。今度ははっきりと男の声が聞こえた。
「父上、どうやら気がついたようですね」
「うむ、そのようじゃ」
彼女は意識を取り戻した。
「ここは何処、あなた方はどなた?」
リーラは弱々しく尋ねた。
「ここは私の山間の棲み家じゃ。加減はどうじゃな。この命水を飲むがよい。元気になるぞ」
彼女はその器を受け取る為、ゆっくりと起き上がり回りを見廻したが、家具、調度品が少なく貧しい様子が窺える。
「私はサラミスと申す者じゃ。これは私の息子でサライと言う。怪しい者ではない。安心して横になるがよい」
老人は穏やかな眼差しをしていた。
「何故あのような所に一人でいたのじゃ。息子のサライが出会わねば、この辺りは盗賊も多い。女性一人では危険なところじゃ」
彼女はその問いを聞き、自分の目的即ち、この地に赴いた理由を思い出した。
「私は行かねばなりません。ここに止まっている訳にはいかないんです。お願いします。私に馬を貸して頂けませんか」
と老人にすがるように頼み込んだ。
「落ち着くのじゃ。一体どうしたというのじゃ」
「時間がないのです。私がここで休んでいては、ダンとアリスに申し訳が立ちません。お願いです。行かせて下さい」
老人はリーラの必死の形相から、何やら深い事情があると察して、なだめるように微笑む。
「娘よ、安心するがよい。我々はこのようなみすぼらしい生活をしておっても、決して悪い者ではない。お主の好きになさるがよい。その言葉遣い、私が間違っておらねば高貴なお方と思えるが、もし差し支えなければ、急がれる訳を私に話されるがよい。力になれるかも知れぬ」
リーラは老人の誠実で穏やかなまなじりと、亡き父王の温顔がダブッた。また傍らのサライと呼ばれた青年も実直で人の良さそうな気がする。
彼女はこの二人は信用出来ると確信し、隠し立てすることなく、正直に打ち明けようと決心した。
「お話すれば、ここから出て行かせて頂けるのですね?」
「ハッハッハ、何を心配なさる。いつ何時でも自由に出て行かれるがよい」
「実は私はロンバード七世王の一子で、リーラと申す者」
「え!、あのロンバード王の娘子か」
サラミスは驚きを表したが、同時に納得した様子でもあった。
「美しくご成長されたと聞いておったが、正しく大きくなられたのう。それで王はご健勝であられるか?」
リーラは老人の面識があるかのような口振りが気になったが、そのまま続けた。
「父は侵略してきたハーン軍と戦い、十日程前に亡くなりました」
「なに、ハーンに!」
サラミスは絶句。
息子のサライと顔を見合わせ、後は言葉にならないようだ。その顔は幾分青ざめている。
彼女は更に続けた。
ムガール戦の後、近々ハーン軍がロンバード国に侵入してくるであろうが、敗戦の痛手を被り苦戦を免れないこと。
その為、唯一ハーン軍と立ち向かえるギリア国のバイブル王に、リーラ自身が面会し援軍を要請しようと決意したこと。
そして、ここに来る途中でギリア兵に見付かり、同行のダンとアリスが盾となり逃がしてくれた経緯も付け加えた。
「私はロンバード国の王女として、愛する国土を守る為、忠実で善良な人々の為に、この苦境に臨み何を成すべきかを考えました。そして、私にとって出来ることと言えばただ一つ、バイブル様にお願いすることだと。私はどうなっても構いません。たとえ無理だと解っていても、こうする事が、私が育ったロンバード国への恩返しだと思って・・」
サラミスとサライは彼女の話を聞いている間、苦渋に満ちた表情をしていた。
彼女が語り終えても押し黙ったまま何事か思案している。
リーラは二人の沈黙の理由が、自分の素性を明かした上で、彼等の日常と懸離れた話題に当惑していると察して謝った。
「ご免なさい。お二人に無関係なお話をしてしまって。でも決してご迷惑をお掛け致しません。お願いです。カンビアへの道、いや方角だけでも教えて頂ければ。もしロンバード王国が勝利し健在のあかつきには、お礼をさせて頂きます」
リーラは二人の好意に縋った。これに対しようやく老人は重くなった口を開いた。
「リーラ姫、我々こそあなたにお詫びせねばなりますまい。ロンバード王のご不幸、またロンバードの民の窮状をお聞きし、私は身を切られる思いを致します」
「あら、サラミス様がお謝りになることは全くないわ。ギリア国が私達の支援に慎重なのは当然です。多くの尊い命を犠牲にすることになりますもの」
リーラは謝罪の意味を彼女なりに解釈した。サラミスはその言葉に心を打たれたようである。何事か割り切った様子で返答した。
「いやいや、いずれ私の立場がお分かりになる日があるやも知れぬ。私達も微力ながらあなた様に出来る限りお力添え致しましょう。カンビアには息子のサライに案内させます。よいなサライ」
「はい、父上、お任せを」
サライも当然であるかのように答える。
「それとあなたと同行のお二人については早速調べさせましょう。まだ大事なければ、再びお会いなされる日もありましょうや」
「そのように言って頂けるとは、何とお礼をしてよいかわかりません」
リーラはサラミスの申し出に素直に感謝した。
が一方で、いとも容易そうな口調に、この親子がどのような身分なのか興味を持たざるを得なかった。
陽が昇るのを待って、サライは馬の用意、出発の準備を急いだ。
リーラ姫にはギリア国の軍装に着替えるように促した。
住居から外に出ると、はるか遠くに見通せる海岸線から、朝日が輝きを放ちながら頭を出す光景に胸が打たれ、飽きることなく見惚れてしまう。
そして、丁度この建屋が草原を経て、ライズ河に臨む高台にポツンと立っている事がわかった。
後方から呼ばれて、あてがわれた馬に近づく。
そして、サラミスには丁重に礼を述べ、感謝の気持ちを伝えた。
更に、はるか北辺境を眺めてパノラマに対する感動を表す。
「この景色は、ロンバード高原と同様に大変美しいですわサラミス様」
「リーラ姫、今はまだお分かりになりますまい。何故私達がこの北辺を見渡せる場所に住まいを選んだか。説明は長くなり省略するが、我々はいわば見張り番なのじゃ。大いなる邪悪なものから、この世界を守るための」
リーラはどういうことか理解出来なかったが、サラミスが何か使命を帯び、強い意志を持った人物のように思えた。
サライに促されて馬に跨ったが、最後にサラミスから忠告を受けた。
「王女よ、カンビアでは大きな試練が待ち受けていよう。確かにバイブルは情け容赦のない、利己主義者で非情酷薄な印象を受けるだろう。だが決して希望を失うでない。仮面の下には、あどけなく優しい感情が隠されているはずだ。もしいよいよ困った時は私の名前を伝えるがよい。役に立てるかもしれん。さあもう行くがよい。明朝にはカンビア城に入っていよう」
リーラ姫は何度も感謝を述べ、サライの先導に付き従った。
サラミスは二人が遠ざかって行く姿をしばらく見送っていた。
その表情には期待を込めた眼差しが浮かんでいる。
「あの娘がバイブルの心を開けてくれればよいが。あと数年じゃ。数年しかないのじゃ」
と自分に言い聞かせていた。
*
リーラはサライの後ろに付き、言われるがままに進む。近道を知り尽くしているようで、何度も側動を通る。かなり順調なペースらしく、彼女一人ではとても辿れなかったであろう。
リーラにはサラミスの言葉が強く心に残っている。
いったいあの老人は何者なのか。大変親切で好意的であった。その言葉遣いは彼女が今まで接したことのない威厳に満ちたものであった。
またバイブル王とも親しいようで、
『困った時は私の名を言うがよい』
とのアドバイスもあった。
サラミスはバイブル王とどのような関係なのか。
また私の父とも面識があるようだ。
彼女の胸には次から次へと疑問が湧いてくる。
案内役のサライに色々質問したが、私達は草原の民ですと繰り返すばかりである。
カンビアへの行程は全くスムーズであった。途中で何人もの監視兵、見回り兵士に出くわし都度緊張したが、サライが声を掛けると難なく通してくれた。
昨日三人で人目を忍びながら進行していたのが、一転嘘のように造作なくカンビアに向かうことが出来た。彼女はますますサラミス親子の正体が判らなくなった。
ともあれサライに懇願して、休息時間、食事もそこそこに馬を走らせる。
夜半になって多少仮眠を取りはしたが、星明りを頼りに急いだ結果、思った以上早く、陽が昇る前にはカンビア市内に入っていた。
まだ大半が眠りから覚めていない時間帯で、市民の姿は全く見られない。
そして、朝日が東方の山裾から球端を現し始めた頃、彼らはカンビア城の正門近くに立っていた。
城門付近も早朝のためか兵士の姿はない。
サライは完全に夜が明けるのを待ってからと勧めたが、リーラはすぐにでも面談したいと決意していた。
いや、むしろ時間を経て決心が鈍ることを恐れ、意志の強固な内に実行しようと自らを励ます。
「リーラ様、私の役目はここまでです。最後までお供出来ないのは残念ですが、リーラ様のご幸運をお祈りし、首尾を果たされると信じております」
サライは名残惜しげに別れの挨拶を述べた。
「有難う、サライ。この御恩を私は一生忘れないでしょう。無事ここまで来られたことが信じられないほどです。サラミス様にも私からの感謝の気持ちをお伝え下さい」
「はい、では私はここで失礼します。くれぐれもご無理をなさらないよう」
サライは改めて別れを告げ、元の道を戻って行った。
リーラはしばらく見送っていたが、城門を眺め直し、深呼吸をして自らを奮い立たせた。
「ダン、アリス、私はとうとうここまで来たわ。あなた達の尽力を決して無駄にしないつもりよ。お父様、私を見守って、私を助けて!」
と心の中で念じる。
そしてゆっくりと無人の城門まで歩き、再び大きく息を吸い込む。
真近に来て襟を正して直立。勇気を振り絞って、大声を張り上げ唱え始めた。
「ご開門をお願い致したく、ご開門をお願い致したく。私はロンバード王国、ロンバード七世王の一子、リーラと申す者。バイブル王にお目にかかりたく馳せ参じました。なにとぞご開門の上、お取次ぎをお願い致したく」
その声は静寂で澄み切ったカンビア市内の隅々まで、大きく響き渡っていた。
*
「今ごろは、カンビア城まで到着していよう。あの娘の願い通りにうまく事が運べばよいが」
サラミスは夜明けの空を見上げ呟いた。それは正に期待している展開ではあったが、一方でその目は常に北辺境に向けられている。
ロンバード王国の戦局、ギリア国の内情を憂えつつも、彼の心の大部分を唯一の災厄が常に占有していた。
その時、草原のはるか彼方に人らしき姿が目に入った。どうやら彼の居る高台の建屋を目指して向かって来るようだ。
よく見ると徒歩のようである。この方角の先には、軍の砦のある小都市アダンがある。
この広大な丘陵地帯を歩いて横切って来るのは、兵士でも商人でもなさそうだ。目認できる距離のところで様子が変だと気が付いた。
かなり消耗しており足元がふらついている。
やがて途中で倒れてしまい、動かなくなってしまった。
「やれやれ、道に迷ったようじゃな、また放浪者じゃろうて」
この辺りはかなり広大な無人地帯で、迷い込む者が時々現れるため、彼は救出に乗り出した。
近くに来て男であることが確認できたが、大変奇妙なことに身に付けている衣類が焼け焦げ、ボロボロであった。
また、顔といい手足といい煤まみれのように汚れ、酷い状態であった。
サラミスは不吉な予感を覚えた。
馬から降りるや男を抱き起こし、
「しっかりしろ」
と揺さぶる。その男は酷く怯えており、全身小刻みに震えている。さかんに何か言いたげであったが、声にならない。
サラミスは筒を取り出して水を口に含ませた。
すると貪るように飲みだし、喉の渇きは潤せたようだが、震えは一向に止まらない。
「どうしたのだ一体、お前はどこから来たのじゃ」
サラミスが問い質すと、
「悪魔だ、悪魔が現れた・・」
と繰り返す。サラミスは悪い予感がした。
「まさか、まだ早すぎる」
不安が的中するのを怖れながら、その男を落ち着かせ、最初から順を追って話すよう促した。
途切れ途切れに語り出す。
「悪魔だ。奴にカムイ様をはじめ、皆殺られてしまった・・」
「何、カムイだと!」
サラミスは驚いてしまった。その名前には心当たりがあった。
「もしやお前は北辺境から来たのか?」
「そうだ、そこで俺達は三つ目の悪魔を見た」
もはやはっきり確信を抱いた。
男は続ける。
*
『今から十日ほど前、俺達山賊仲間は頭領のカムイに従って北辺境に向かった。
俺達はカムイの思惑、つまり、そこには魔力で封じられた怪物が眠っており、そいつの力を持ってすれば、この世界の一国や二国征服するのは簡単で、我々がその軟禁から助け出してやり、操ることが出来ればあのハーンですら屈服出来るだろうし、多くの国々を支配することが可能だとの話を信じ、総勢百名が大挙ライズ河を渡った。
厳寒の地であるがゆえに、樹木すら育たぬ岩山をいくつも越え、七日目にカムイの父親の言っていたという場所に到着した。
そこには大きな岩場が立ちはだかっており、その一箇所に以前に岩洞が崩れた痕跡があった。時間を掛け、総がかりで岩石を取り除いていくと、やがて奥深い洞窟が姿を現した。
とりあえずカムイの話は正しかった訳で、当初の予定ではその怪物を見届けた上で、封じ込め束縛しているという護符を探し出し、解放してやるつもりだった。
どんなに力を持った魔物であろうが、その護符さえあれば、言う事を聞き大人しくなるとの説明だった。俺達は気味が悪かったが、徐々に洞窟を掘り進み、ようやく倒れていた岩柱に護符が貼り付けられているのを確認した。半信半疑だった者も裏づけとなる証拠の品に納得して作業ピッチを上げ更に奥へと進んだ。
ところが奴はどこにも見当たらなかった。多人数で手分けして洞内を隈なく捜してもその姿が見付からない。時間が過ぎ、誰からともなく奴などいない。カムイの作り話だと騒ぎ出した。非難を浴びたカムイも考え込んでしまった。
そして護符を取り外そうということになった。けれどもそれは、取り返しのつかない大変な間違いだったのだ。実はその時点で奴は眠りから覚め、気がついていたんだ。俺達が侵入して来たのを。そして束縛から開放されるのを、今か今かと息を凝らして待っていたんだ。まさか目と鼻の先に潜んでいようとは思ってもみなかった。
護符を取り外した途端、奴は出現した。
俺達はその姿を見て驚愕した。誰もが恐怖に身が竦み、その場を一歩も動けない有様だった。奴は真赤な三つ目で睨み、こぶだらけの顔、全身を覆うヒダ状の褐色肌は身の毛がよだつ化け物だった。その怪物は大きな唸り声を上げた。その瞬間全員が身の危険を感じ、一目散に入り口に向かって逃げ出した。
だが、あいつは素早かった。その直後に目から光が放たれると、なんと、その光を浴びた者は全身火だるまになり、炎に包まれてしまった。命からがら洞窟から逃げ出した者も見逃さない。外に飛び出した者を追って、奴が睨んだ途端、光が放出されその場で焼け焦げ餌食となった。
俺だけが光を少し浴びたが、岩場に隠れ命だけは助かった。そして震えながら逃げるチャンスを窺った。しかし、そこで俺は恐ろしいものを見た。奴は焼かれ倒れている仲間達を食べ始めたんだ。それもあっという間に。カムイも俺の仲間達も全てだ。俺は体が硬直してその場を動けなかった。やがて、奴が洞窟の中に入って行ったのを見計らって、俺は意思を奮い立たせてその場を離れた。
必死で逃げた。この三日間ろくに物も食べず、眠りもせずここまで逃げて来た。まだ奴が追ってくるような気がする。この世界の人間全てをエサにするだろう。恐ろしい悪夢だ。この世の終わりだ』
サラミスは呆然としながら話しを聞いていたが、気になることを尋ねた。
「お前がここに来る前、辺境砦のアダンには立ち寄らなかったのか」
「俺は怖かった。アダンには兵がいる。俺がそんな事を言っても誰も信じてくれないと思って・・おまけに俺は山賊だ。捕らえられるに決まってる。そんなことになったらお終いだ。あの町は辺境近くで一番人間が多い。必ず奴がやって来る。奴のエサにしようと・・」
後は言葉にならなかったが、サラミスは全てを理解し、顔を紅張しながら言った。
「奴め、とうとう復活してしまった。あのカリムの子カムイが、私もうかつであった」
その目は北の方角に引き寄せられていた。
*
「パスカル殿、パスカル殿」
朝早くギリア王宮内の政務大臣、パスカル卿が利用している寝室の扉を叩く者があった。
その物音と声に眠りを妨げられたパスカルは、目を擦りながらベッドから起き上がった。
年齢でいうと五十代半ばというところか、白髪の混ざった老政務卿は昨夜国政の処理に忙殺され、王宮に泊り込みとなった。
彼は欠伸をしながら返事をして、また厄介な反乱分子でも捕まったかなと思いつつ、ガウンを着け入り口に向かった。
このギリア国では、その実権はもちろんバイブル王が握っているが、こと細かな政治向きの処理は全てパスカル卿の責任において実施されている。
バイブル王が周囲から怖れられている為、とりあえず彼に相談に来る者がほとんどである。
扉を開けると、前に軍務長官が立っていた。
「どうしたのだ、こんなに早く。また誰か騒動を起こしたのか?」
「申し訳ありません、パスカル殿。どうしても卿にご判断を仰ぎたいことが持ち上がりまして」
と軍務長官は恐縮して頭を下げた。
「実は今朝方、城門に一人の娘が現れまして、王宮に向かって開門を要求致しました」
「娘?」
「はい、警備兵が見咎めまして拘留致しましたところ、妙なことを申します」
「妙なこと・・と言うと?」
「ええ、その娘が申しますには、バイブル殿下に会わしてほしいと。そして直接お願いしたいことがあるとのこと。気が触れたのではと思い、とりあえず尋問室に連行致しまして名前を聞きますと、ロンバード王国のリーラ王女であると申します」
「リーラ王女だと!」
パスカルは驚きの余り叫んでいた。
「はい、我々もまさかと思いまして調べましたところ、確かにその娘は、純金のロンバード王国の紋章が描かれているペンダントを持っております。また、物腰、言葉づかいとも気品に満ちたものがあり、我が国の軍装を着用しておりますが、噂で伝えられているように、なかなか美しい娘で、それでパスカル殿が存じておられるのではと思い、ご相談に伺ったようなわけです」
「うーん」
と彼は唸った。
「ロンバード国は今ハーン軍との戦いの真っ最中だ。そんな折何故リーラ王女が・・信じられん」
と言いながらも素早く頭を回転させる。
「わかった。それで今何処に居る」
「はい、一応尋問室に拘束して見張りを付けております」
「このことを知っている者は?」
「警備兵と私の部下だけです」
「バイブル殿下には?」
「いいえ、まだ、ご報告したものか迷いまして、それでご相談に上がったようなわけで」
「着替えしてすぐ行く。それとこの事はまだ誰にも言うでない」
とパスカルは命じた。
彼は大急ぎで服装を整え、寝所から尋問室に軍務長官と共に向かった。
信じられない疑いの気持ちが強い。
「まさかリーラ王女が、今ロンバード国はハーンの侵略に対し応戦準備に忙殺されていると聞く。通常、今回のような王宮を巻き込む戦時には、女性、子供達は安全な場所に避難しているはず。おまけに、我が国は今鎖国中で、警備は厳重だ。その最中一体どのようにして女性一人でここまで来られよう。まあいい、会えば解る事だ」
*
尋問室の扉の前には二人の見張り兵士が立っていた。
「ご苦労」
労いの言葉をかけて中に入ると、一人の女性が椅子にもたれて座っている。かなり疲れた様子で目を閉じていた。
パスカルはその娘の顔をじっくりと見据えた。
彼女は二人に気づき、顔を上げ目を開いた。
パスカルは思わず息を飲み込む。
「リーラ様・・」
驚きの余り後の言葉が続かない。
確かに成長してはいるものの、以前に見たリーラ王女の面影そのもの。
間違いない。リーラ姫ご自身だと彼は確信した。
すぐに気を取り直し、軍務長官に扉を閉めるように指示。
彼女は突然に現れた相手が誰なのか解らないようで、パスカルの顔をながめている。
「リーラ王女、お久し振りです。お忘れですか。パスカルです。最近では五年前に前国王の名代で貴国にお伺いしたことのある」
「ああ、パスカル卿ですね。ご免なさい。私ここのところあまり眠っていないもので、でも卿にお会い出来てほっとしましたわ」
リーラは旧知に会えて安心した様子。
「大きくお成りになられて、また益々お綺麗に。見違えるばかりですぞリーラ様」
「ありがとうパスカル卿。あなたもお変わりがなくて何よりですわ」
「で、またどうしてリーラ様がここに」
彼は怪訝な顔をして尋ねる。
「パスカル卿、もうご存知かも知れませんが、我ロンバード国はハーン軍と戦わざるを得ない状況に立たされております」
「ええ、存じております。この度のロンバード七世王のご悲運、何と申してよいか。ただただ愛惜の念に尽きます。私自身、ロンバード王国には度々訪問して参りましたが、その都度陛下には大変懇意にして頂きました。私が若くして政務に携わった頃、親切にご指導頂きましたご恩は片時も忘れず深く感謝しております。それだけにお亡くなりになったとは信じられない気持ちで、今もって残念でなりません」
「そう言って頂けると私も少しは心が安らぎます。亡き父に代わり深く感謝致します。ただ私達ロンバード国民はいつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかないのです。残された私達は、兄アルバートを中心にムガール戦で敗退した軍隊を何とか建て直し、来るハーンの進軍を迎え撃つために今は必死です」
とリーラは唇を噛み締める。
「けれども、私もここまで来ているのですから正直にお話いたしますと、兄の予測では我軍は不利とのことです。ハーン軍は勢いを得て益々膨張しているとの情報です。兄はそのことを私に打ち明け、アナシア国に避難するように言いました。でも私は、ロンバード王国が存亡の危機に立たされている時、逃げ出す訳には参りません。それで私なりに我国を救う方法を考えてみました。兄達は貴国、ギリア国の応援が得られればかなり有利となるが、不干渉主義の立場の現状では不可能だと言っておりました。恐らくバイブル殿下はその責任上、ギリア国の人々を戦争に巻き込みたくない、犠牲を出したくないとのお考えと賢察します。でも私はわずかな期待を頼り、昔からの両国間の友誼にすがって、何とか我国にお力を貸して頂くよう、無理は承知の上で足を運んで参りました。なにとぞバイブル殿下にお会いしてお願い出来ればと存じております」
パスカルは目を伏して聞いていた。
そして悲しそうな面持ちで話し始めた。
「リーラ様のお国を愛されるお気持ち、私も胸を打たれ申した。また、ソロマからここまで来られたお骨折りは並大抵のことではなかったと推察します。私自身、いや多くの者がロンバード国民の窮状を憂い、すぐにでも支援に赴きたいと思っていることでしょう。我が国とロンバード国とは、ここ数十年来友好を保ってきた間柄です。我が国が苦境に陥った際、何度か貴国に援助して頂いたことを知らぬ者はないほどです。しかしリーラ様。私からも同様に正直な告白をさせて頂きます。あなたのお国でも知られていると思いますが、我が主バイブル王は、ある意味で我々と全く異なった考えの持ち主です。そして、その命に背いた者に対しては、重い処罰が課せられています。我が国が今鎖国政策をとっているのも、もちろん王の一存です。いわば、この前のハーンとの戦いに見られますように、我が国に侵入して来る敵に対しては、総力を挙げて戦うが、逆に他国へは何があろうとも介入しないとのお考えです。一方で国内の反対勢力への締め付けを厳しくしており、不平不満は各所でありますものの、表向きには安定した状態にあると言えましょう」
「そのことは私も充分承知しております。それでもお目にかかった上でお話したいのです」
「リーラ様、王のご気性についてお耳にされていると存じますが、一旦決断されたことは我々重臣が束となって説得しようと翻すことは不可能です。又王の逆鱗に触れた者は重罰に処せられます。このことを周囲の者は皆残念に思っていますが、誰も王をお諌めできないのが実情です。リーラ様、悪いことは申しません。このことはまだ王の耳に入っておりません。私がお取り計らいを致しますので、安全な所までお戻りになって下さい」
「いえ、私の決心は変わりません。パスカル卿のお申し出には深く感謝します。が、私と幼馴染のダンとアリスと途中ではぐれてしまいました。彼等はもう生きていないかもしれません。二人の為にもやり通す覚悟です」
リーラは真剣な眼差しで強調した。
「リーラ様、バイブル王は通常の感覚の持ち主ではありません。王はお二人の兄王子を処刑されたように、平民であろうが、高貴な身分の方であろうが一切区別なされません。王女に悪い結果が生じるやも知れませんぞ」
「私のことはどうなっても構いません。たとえ牢獄に繋がれようとこのまま引き返すよりましです。ご迷惑はお掛けしません。なにとぞお力添えを賜りたいのです」
「お命に係わることにもなりかねませんぞ」
パスカルは念の為問いかけてみたものの、説得は無駄と諦め溜息を吐いた。
「ロンバード国を出た時から死ぬ覚悟は出来ております。ですからぜひお取り成しを・・」
もはやこれまでと判断せざるを得ない。
ただ彼女の目に並々ならぬ決意が秘められている様子を見て心を打たれてしまった。
軍務長官と顔を見合わせたが、明らかに彼も王女に同情的であった。
少し思案した後、腹をくくった。
「わかりましたリーラ様。私もそこまで意志が固く決然とされていようとは思いませんでした。微力ながら王にお取り成し致しましょう。ただ私が出来ることと言えばそこまでです。我々がいかに献策しようと、決定は王が独自に下されます。私も一国を預かる政務大臣として情けない限りですが、お許し頂きとう存じます」
その言葉を聞き、リーラは顔一面に喜びを表した。
「有難うございますパスカル卿。このご恩は決して忘れません。私の我儘で困らせてしまって、お詫びの言葉もありません」
「いえいえ、私はロンバード王に何かとお世話になった身、その王女のリーラ様に喜んで頂けて大変光栄です」
「感謝しますパスカル卿」
リーラ姫は卿の手を取った。彼は優しく温顔で何度も頷き、
「それではもうしばらく休まれるがよい。私はこれからバイブル殿下にお願いしてきましょう。すぐにお部屋を用意させますゆえ、おくつろぎを」
と言い、軍務長官を伴い部屋から外に出た。
「リーラ姫を別の部屋にお通しするように、それからお食事と着替えもして差し上げろ」
さらに付け加えて、
「すぐにサイアス軍務卿を呼んでくれ、私のところに」
「ハイ!」
と軍務長官は勇んで答えた。その後パスカルは一人になり難しい表情で腕を組む。
「さて、これからどうしたものか、バイブル様がご機嫌であればよいが」
パスカルは宙を睨み額の皺を寄せた。
*
その日の午後、リーラ王女は王宮内の接見室中央に立たされていた。
最近はほとんど使用されていないが、外国使節との会見、国内外の公的行事に利用される大広間である。
もう既に両側にはパスカル卿、サイアス軍務卿をはじめ、王族、政軍務に携わる重臣達が居並んでいた。
その中にはリーラ王女が見覚えのある顔が何人かいる。
彼等はリーラ王女を小声で激励したが、皆一様に緊張した面持ちである。
昼前にパスカル卿から特別にバイブル王が面会を許すとの連絡があった。
だが、王の意向としては出兵には悲観的で、むしろ王女の身を守る為、重臣達が知恵を傾けて接見室での会見という形になんとかこぎつけた。
彼女の両側に並んだメンバーはいずれも王の怒りを怖れていた。それぞれ今回のリーラ王女の勇気ある行動について、称賛する一方で同情的なことから、側面から応援したい気持ちを抱いており、この部屋で何が起こるか分からない不安と好奇心で皆ハラハラして、王が現れるのを今か今かと待っていた。
そして、ついに正面奥の控え室に通じる扉が開いた。
王はゆっくり正面中央の王座の位置に進んだ。
広間に並んだ面々は全て片足の膝を付け、頭を下げている。
リーラも同様に頭を垂れていたが、上目づかいの視線は否応無くバイブル王の顔に惹きつけられた。噂どおり仮面で顔を隠している。
両目と鼻の部分だけがくり抜かれた白色の仮面は、見る者に無言の圧迫感を与えていた。確かに情け容赦のない、冷酷な印象を周りに放つバイブル王が、魔王と呼ばれて恐れられている理由が分かるようだった。
王は一段高い装飾を施した椅子に腰掛けた。
そして合図があり、皆が頭を上げ正面に顔を向けた。やがて、やや陰鬱そうな硬い声でリーラ姫に質問した。
「リーラとやら、私に話したき事があるとか、申してみよ」
リーラは威圧感を覚えたが勇気を奮い起こして話し出した。
「バイブル殿下にはこの度、お時間を割いてお目通り頂き光栄至極に存じます。私ロンバード七世王の一子、リーラと申す者。ロンバード国の王族の一人として、長年貴国から親密なる友誼を賜り、深く感謝させて頂く次第でございます」
「待たれよ」
と王は急に割って入った。皆一様に固唾を飲み込んだ。
「私はロンバード王国から、王族を招待した覚えもなければ、使節の受け入れも許可をしていない。従って、私はそなたを王女として認めておらん。その様に心得よ」
この一言で接見室は一気に緊迫した空気が覆った。
リーラ王女も思わず息を飲み込む。今まで味わった事のない、人前での恥辱を禁じえなかったが、とにかく冷静になろうと自分に言い聞かせた。
そして考え貫いた末、再び慎重に言葉を選び話し始めた。
「わかりました。殿下の仰せのこと私も当然のことと理解致します。貴国の禁を破ってこのカンビアに潜入してきた身の上で、処罰されても致し方ないと存じます。しからば、私はロンバード国の王女としてではなく、一市民として殿下にお願い致したき儀がございます。既にご承知のことと存じますが、我がロンバード国はハーン軍に侵略され戦わざるを得ない状況にあります。それに対して応戦準備に全力を挙げ体制強化を図っておりますが、先般のムガール戦の痛手から完全に回復できていないのが実情です。唯一我が国が生き残る道は、長年ご厚誼を頂きました貴国の応援を得ること。私女の身で僭越とは思いましたが、矢も盾もたまらず馬を走らせ、ここに参った訳でございます。なにとぞ我がロンバード国の窮状をご理解頂き、ご支援をお願い申し上げる次第でございます」
室内はシーンと静まり返っていた。
誰もが王の次の言葉を待っていた。
そして事務的な調子で答えが返ってきた。
「そなたの申す通りまことに僭越至極である。我が国は他国に繰り出せる一兵の戦力も持ち合わせておらぬ。ましてや、ロンバード国とハーン軍の争いについては、我が国は預かり知らぬ事。それよりも、女の身であるとはいえ、我が国の法を破って潜入して来たこと、まことに重大な罪と言えよう。その点充分承知していような!」
「もとより」
と言いながらリーラ姫は幾分頬を凍ばらせて付け加えた。
「もとより、私は死を覚悟して国から出て参り、お願いに参上した次第です。私はどうなろうと一向に構いませぬ。ですから何とぞロンバード国民をバイブル殿下のお力に縋って助けて頂きたいのです」
リーラ姫は必死であったが、列席していたパスカル卿もなすすべがなく悄然として成り行きを見守っていた。バイブル王は冷然とした態度で言い放つ。
「まことに思い上がった言動。そなたは死を覚悟していると申すが、女性が屈辱を受ける刑罰も存在する。辱めを受けそれでもそなたは耐えておられようか」
リーラ姫は口惜しさで唇が震えていた。側にいたパスカルも、もはやこれまでと判断し言葉を挟んだ。
「しばらく、しばらくバイブル殿下。リーラ王女、いやこの娘も国法を破った罪は充分心得ており、反省しております。どうか寛大なご処置を」
「控えよパスカル卿」
とバイブルは容赦なく黙らせた。
「お主が拝謁を特にと申した故この接見を許した。ところが何という醜態だ。まさかお主もこの娘に籠絡されているのではあるまいの」
リーラ姫はすぐに打ち消す。
「お待ちを。この会見は私の一存でお願い致しましたこと。全ては私に責任があることでございます。パスカル卿には一切関係なきこと」
「軍務卿!」
今度はサイアス軍務大臣に矛先を向ける。有無を言わせぬ調子であった。
「お主も現在我が国の侵入者に対しては厳重に取り締まる責任を負っているはず。我が国の首都に娘を入らせた事態をどのように弁明する所存か」
「は、まことにもって申し訳ございません。心からお詫び申し上げる所存でございます。ただ、この娘と一緒に潜入した者共につきましは取り押さえてあります」
「何、別に潜入した者もいたと申すのか。かまわぬこの場に引き出せ!」
王は強い口調で命じた。
リーラは一瞬わが耳を疑った。がすぐに二人が生きていたという喜びと、三人が待ち受けている刑への不安が胸に交差する。
そして諦めの表情で語り始めた。
「殿下、私はもう覚悟を決めました。私にどのような刑罰が下されようと後悔は致しません。ただ、一言お伺い致したき事がございます。実は私、今から五年前にロンバード高原で馬を走らせていました折、山賊に襲われたことがございます。その時、一人の男の方に助けて頂きました。その方は真っ黒な顔で衣服はかなりほころんでおりました」
リーラの話を聞いていたバイブルの瞳が一瞬輝いた。
「私は、その時の山賊達が倒される記憶を思い出し、もしやあの方はバイブル様ではなかったかと・・」
王はやにわに狼狽し、勢い椅子から立ち上がりリーラに言った。
「何を申す。私はそのような事一向に覚えがない。嘘を申すと許さんぞ」
その時、鎖に繋がれたダンとアリスが導かれ入ってきた。
二人とも疲れ果てておりフラフラの状態である。
又ダンは体の何箇所かに傷を負っている。
「ダン、アリス!」
リーラ姫は二人の無事を安堵し名を呼ぶ。
「リーラ様」
ダンは痛みをこらえ近寄ろうとしたが、途中で力尽きて倒れてしまった。
「ダン!」
リーラは心配のあげく側に寄り、抱え起こそうと手を差し伸べる。
そして腕と顔から血を流しているのを見て、涙を浮かべた。
「ご免なさい。私の為にこの様な目に合わせて、私を許して」
と彼女は自らの衣服のショーツを破って、傷を拭い始めた。
バイブル王はこの動作を釘付けになって眺めている。
しばらく突っ立ったまま何事かを思い出し、心が動揺するのを意識した。やがて気を取り直し言った。
「もうよい。これでこの接見は終わりにする。この者達の処置は追って沙汰する」
と出口に向かって歩き始める。その背にリーラ姫は涙ぐみながら声をかける。
「バイブル殿下、サラミス様が申しておられました。殿下は優しい心の持ち主のお方だと。私は今でもその言葉を信じます」
バイブル王は思いがけない名前を聞き、思わず立ち止まってしまった。封印されていた過去の扉が開く。
「サラミス、サラミス」
と口先で繰り返し、リーラの方を振り返り見つめ直す。リーラ姫はひたすらダンを介抱していた。
「サラミス」
誰にも聞こえない声で囁きながら、今度はゆっくり扉に向かって進んだ。
*
リーラ姫は接見が終わった後、ダン、アリスと引き離され、あてがわれた部屋に戻された。
心身ともにくたくたであった。ロンバード王国を出て、馬に乗り詰め、カンビア王宮に入ってからも緊張の連続で憔悴しきっていた。
室内に入ってベッドに倒れ込む。そして涙ぐみながら今日のバイブル王の言葉を思い起こす。
『女の身でこのような振る舞い、僭越至極』
「その通りだわ。お父様、私また皆に迷惑を掛けてしまった。ダンにアリス、そしてお兄様にも、お母様私やっぱり駄目だった・・」
と呟きながら、貪るように眠ってしまった。彼女にとって長い長い一日であった。
*
バイブル王は自室に戻った後も、リーラ姫の一言が頭から離れなかった。
壁際の鏡の前に立ち、自分の姿を眺める。
そして慎重に仮面を外す。
内側には疲れ切った青年の顔があった。
その表情には深く沈潜した憂いと悩みが含まれていた。
鏡面に映った自分自身に問いかける。
「サラミス、お主なのかあの娘をここに寄越したのは。一人で来られるはずはなかろう」
心の中で葛藤を繰り返す。
「サラミス、お主は私に行けというのか」
尽きることのない自問自答。その時扉が叩かれた。
「少し待て」
仮面を付け直し、入り口まで移動。鍵を外し開けると、軍務長官の顔があった。
「おくつろぎのところ申し訳ありません殿下」
「どうした」
「偵察兵からの報告で、ハーンが動き出したとのことです」
「ソロマにはいつごろだ?」
「もう一両日で戦闘に入ると思われます」
バイブルは何事か検討する仕草で目線を宙に向けた。
「わかった」
と王は答え、扉を閉めた。
そして再び鏡の前に立ちささやく。
「サラミス」
と。