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デリアの世界   作者: 野原いっぱい
13/35

死獄(一)

闇の囁きに耳を澄ませ。宙の誘いに目を凝らせ。光輝く魂に触れてみよ。進むべき道が明かされよう。              

 死獄(一)


挿絵(By みてみん)


雪に閉ざされた山中、人里から遠く離れた一軒の丸太小屋で、三人の男達が粗末な机を挟んで話し込んでいた。

一人は五十過ぎの老人で、その乱れた頭髪には、所々白い物が混ざっている。


「もうあと一ヶ月、そろそろ山を降りる準備をする必要がある」


その額には今までの苦労を物語る幾筋もの皺が刻まれている。


「でも、既に十年経っているんだ、もう生きているはずはない」


と前の男が言うと、隣の男が気色ばんで反論した。


「約束じゃないか。俺達はあいつと誓い合った。生死に係わらず、見届ける義務があるんだ」


あとの二人は三十前後であろうか息子達と思われる。

いずれも顔といい手首といい雪焼けで真っ黒であった。長年の山暮らしの為か、大柄な体が一層逞しく見える。

ただ、三人の表情から沈鬱な相談事であるのが読み取れる。


「お前の言う通りだ。もし生きていた場合でも、充分罪の償いは果たしている。皆ももう許してやってくれるだろう」


老人は忌まわしい過去を思い起こしている風であった。


「おやじがそう言うんならもちろん一緒に行くよ。兄貴、あいつは俺達の弟だもんな」


「今、生きていれば二十五になるはずだ。さぞ皆を恨んでいるだろうな」


と兄の方が寂しそうに話すと、弟がむきになって言う。


「いや、自業自得だ。おかげで俺達は家族と離れ離れになり、こんなところに身を置く羽目になったんだ」


老人はその主張を無視し、再び強調した。


「必ず生きている。わしは神の声を聞いた。十年が近づいていることをあいつも薄々感ずいているはずだ」


その熱意に息子二人は圧倒された。


「わかった、いずれにせよ約束だ。あと一ヶ月、俺達は務めを果たしてやらねばなるまい」


「あと一ヶ月・・」


三人の声は山間の奥深くに埋没していった。



「早く歩け、もたもたするな!」


男は背中を剣先でこずかれ歩行を急かされていた。

両腕に堅固な手枷がはめられていて、鎧を着けた五人の兵士に取り巻かれ連行されている。

彼の足取りは覚束なげで、体のあちこちに生々しく残る痣、傷跡が、激しい拷問を受けたことを物語る。また、髪といい髭といい伸び放題で、長期間劣悪な環境下に置かれ、心身共に憔悴し切った様子。

彼らが辿っている石廊の奥は、ただ剥き出しの岩肌が見えるだけで、前方へは先頭を行く兵士が手にした火明かりだけが頼り。

足元に割れ目から浸み出た水が淀み、洞内に吹き込む風の音が、奥深い、幾重にも分岐した岩窟内に反響し、あたかも、女性のすすり泣きに似た声音に聞こえる。

時折、コウモリが騒がしく行く手を阻み、暗闇の不気味さは屈強の兵士ですら肝を縮み上がらせていた。


「おい大丈夫かこの道で、間違えると大変だ。戻れなくなってしまう」


と後ろの兵が不安そうに尋ねた。


「この方向だ。確かに印が続いている」


先導役もやや自身なげである。

かなり洞内を下っただろうか、半刻ほどしてようやく広い空間が出現した。頭上高く岩盤が円弧状に広がっており、人工的に造られたドームのようにも見える。

その広間の隅の何箇所かに灯台が設けてあり、兵士達が火をかざし明かりをつけた。

やがてその全貌が照らし出される。正面中央の突き当たりに、奥深く闇の狭い隙間が続いており、地面を這う水がその中に流れ込んでいる。

その境界に誰が作ったのであろうか、二重の頑丈な鉄柵が嵌め込まれている。彼らは一面に漂う冷気に身を竦ませていたが、その内の一人が虚勢を張り居丈高に、


「お前もこうなっては最後だな。いつまで生き続けられるかな?」


と言うと、他の兵士達も軽蔑したように薄笑った。

男は弱り果てていたものの、表情は穏やかで落ち着きが見られた。


「このような所に私を閉じ込めても、いずれはまたお前達の前に姿を現すであろう」


と小声で答えると、隊長とおぼしき一人がその胸倉を捕まえ、


「何言ってやがる、それじゃあ一つ教えといてやろう。ここに今まで入れられた奴で、再び出て来られた者は誰一人としていない。中には食べ物もなく、光も差し込まない暗闇だ。お前も一ヶ月ももたないで飢え死にしてしまうだろうさ。おい鍵を開けろ」


と言い放つ。指図された兵士は手にした大きな鍵で、恐る恐る一つ目の鉄柵を開けにかかる。

他の者は剣を岩穴に向け厳重に監視している。中から何かが飛び出して来はしないかと極度に緊張。

二つ目の柵も開け慎重に中を探る。


「どうだ中の様子は?」


と隊長。


「どうやら生きている人間はいないようです」


「そうか我々がここに来たのはちょうど一年前だ。その時の囚人はもはや死んでしまったようだな。ふん、お前にもすぐにここの怖ろしさが分かる。この扉の向こう側には出口はない。一週間もすれば発狂してしまうに違いない。よほど王もお前に対してお怒りだ。王は死刑より残酷な刑を科せられた。生きながらにして死ぬという最も悲惨な罰をな。恨むのなら自分の犯した罪を恨むがよい。さあ、もうよい、こいつを牢へ放り込め」


命じられた兵士達は、力づくで疲労し切った男を暗がりの中に押し込んだ。


「よし、こんな所には長居無用だ。戻るぞ」


と再び二重の鍵を掛け兵士達は元の通路を帰って行った。

男は打った頭の片隅で、足音の遠ざかるのを聞いていた。彼はすっかり疲労困憊し意識を失ってしまった。




*

「ワッハッハ、そうかソロンもとうとうバンガル死獄に入ったか。今頃私に逆らったことを後悔していよう。だが、もう遅すぎたな。あの中に閉じ込められればもって一ヶ月。飢えと寒さに苦しみもがきながら死ぬのだ」


とガルガナ国のザボン王は満足気に言った。

王室には各地の贅沢な品々が並べ置かれており、王座の周囲にはかなり豪華な宝石類が散りばめられている。彼の前には忠実な重臣達が平伏していた。


「はい陛下、ソロンさえいなければ、リーマ都市ももはや我等のもの。我国も更に発展致し安泰でございましょう。反乱を企てようとする者がおりましても、統率できる人間は他にはなく規模も限られましょう」


と宰相ザイムが代表して答えた。

王は愉快そうに頷き、盃に酒を満たすよう侍女に命じる。


「ふむ、これでリーマ都市国家のもつ財力とパルサ鉱山はこのガルガナのもの。予定通り数日の内に彼の地に移り、余が自ら民を治めようぞ。私の意向に従ってさえいれば何も案ずることはないのだ」


この言葉に皆おもねるように賛同した。


「ところで、ソロンには娘がいたな。今はいかがしておろう?」


とザボン王は興味深げに尋ねた。


「はい、スーシャと申し、リーマ社交界の花と言われておりました。ソロンの取り巻きが彼女を連れ去ったようです。が間もなく彼らも捕らえられるでしょう。現在兵を総動員して郊外の隠れ家を捜査しております。幹部達はほとんど取り押さえましたが、若干の残党が山間部に潜伏している模様です」


とザイムは無難に報告。


「そうか、奴らを見逃すと面倒だ。徹底的に追跡せよ。殺しても構わぬ。一人も逃がすでないぞ」


「わかりました。全力を尽くします。それと、今捕らえております者達の処分はいかが致しましょう。そしてリーマ市民については?」


自己顕示欲が強く完全主義者として知られるザボン王はしばらく沈黙していたが、やがて顔を引き締め断固とした口調で命じた。


「主な幹部達については死刑とせよ。それも公開でな。我ガルガナに対し弓を引くことは許さない。今後の見せしめの為に、市民に反逆者が受ける制裁を注目させるのだ。よいな。それと捕虜達及びガルガナに反抗しそうな市民はパルサ鉱山に送り込んで奴隷として働かせろ。ちょうどよかったではないか。金鉱を掘らせる人夫が調達出来て」


この王の非情な指示に一部の者は戦慄し緊張したが、


「さようで、大変名案でございますな」


と宰相が口を挟むと、ザボン王をはじめ周囲の重臣達は一斉に相好を崩し笑い出した。


「よし、これで我国も莫大な財を手に入れた。一層領地を拡大しようぞ。皆の者よいな」


「はは!」


王室内の全てがこれに呼応。ガルガナ王宮はリーマ都市を力ずくで制圧に成功した自信に溢れていた。


*

ガルガナ国はカルム川南方の草原地帯を発祥とする騎馬主体の武力国家である。

もともとが遊牧、狩猟以外見るべきものがなかった二流国家を、ザボンが王位を継承して以来、急速に強兵を図り、戦闘集団を組織していった。

そして、富と領土拡張に野心を抱くザボン王は、育て上げた強力な軍隊を武器に、周辺諸国を徐々に自国に組み込み、従えていった。ある時は、圧倒的な兵力を率い侵略行為により、又ある時は謀略、脅迫により弱小国家を屈服させ併合していった。


一方、カルム川沿いにお互い交易によって発展成立していったリーマ都市国家群は、農作物栽培に適した肥沃な土壌と、カルム湾入り江に世界でも有数の良港をもち、また、山岳地帯に良質の金脈が発見されたパルサ鉱山を管理していたのである。

もちろん支配意欲が旺盛で、金銀財宝には貪欲までの関心を示すザボン王は、この地方を見過ごすはずはなかった。

初めは積極的な交易を呼びかける程度であったものが、その内過大な要求を突きつけるようになった。

仕舞いには、鍛え抜かれた戦闘力で脅しながら、明らかに理不尽な口実を理由にして、パルサ鉱山の共同管理を強要した。

当然、この都市国家の代表指導者であるソロンはきっぱり拒絶。ところが、ザボン王も簡単に引き下がるはずはなく、以前にも増して不当な挑発行為に及んだ。しかし、ソロンを始め各都市の首長は申し合わせ、決然とその圧力を撥ね付ける。

そして、業を煮やしたザボン王は、ある意味では目論み通りであったろうか、軍隊に出動を命じた。それに対し、リーマ都市側も兵を召集し防戦した。もちろんガルガナとの正面切っての戦いを想定し、備えていたものの、元来本格的な戦争を体験していない平和都市は、訓練され経験豊富なガルガナ軍に次々と敗れ、あっけなく占領されてしまったのである。

ソロンをはじめ都市側高官は捕らえられ、急造の志願兵士の多くは、敗北と知るや抵抗することなく投降していった。

わずかに逃げ延びた市民達の中に、ソロンの愛娘スーシャが含まれていた。


 戦いに敗れ、降伏した段階でも、市民のガルガナに対する認識は甘いものと言わざるを得なかった。

パルサ鉱山の権利を譲渡すれば済む、まさか、族長国家であるガルガナが、より進んだ文化をもつリーマ都市に進駐することはないと高をくくっていたが、期待は大きく外れ、この都市国家の征服、支配を目指していたのであった。

兵士達は市中に侵入した後、重要施設を次々と占拠し、市民を監禁していった。又、婦女子はあちこちで乱暴され、貴重品、宝石類を盗まれたり、脅し取られたりの被害が頻発。武器を取り上げられた市民はガルガナ軍の情け容赦ない乱行に、指をくわえて見ているほかなかった。

また、捕らえられた各首長は直ちに刑が執行され、特にリーマ市の長ソロンは、最高指導者であり、頑強に抵抗した張本人であることから、連日激しい拷問が加えられ、不帰の監獄と言われるバンガル死獄に入れさせられたのである。

この獄は数年前にガルガナが併合したバンガル地方にあり、カルム湾に面した半島の突端に位置していた。海岸線は非常に険しい崖がそそり立っており、眼下は何者も寄せ付けることのない絶壁であった。

その岩場の数箇所に死獄に通じる横穴が点在している。しかもそこに辿り着く通路は迷路のように入り組んでおり、初めての人間は一端方向を誤ると戻れなくなってしまうと言われている。その洞内の一番奥に、仕切りをされた牢があり、その中は全くの暗闇に包まれており、過去に多くの囚人がそこに入れられたが、一人として出てこれた者はいない。食べ物もなく闇に閉ざされた牢内は、数日で発狂してしまうと言われ、たとえ、我慢出来たとしても飢えと寒さに苛まれ一ヶ月ももたないと信じられている。

そこに彼等の指導者ソロンが閉じ込められたと知ったリーマ市民は絶望と落胆の思いを禁じ得なかった。


この不帰の檻とも呼ばれるバンガル死獄は、いつ、誰が、何の為に設けたのであろうか。洞窟そのものも人工的な産物と見られなくもない。誰も知りえず、誰一人答えられる者はなかった。



*

アルガニア連山はリーマ都市の西南に位置し、そびえ立つ高峰がはるか彼方に思えるほどの威容を誇っていた。

峰々は年中白い笠を帯びており、見上げる者は皆、手の届かない威厳と、圧倒されるような畏怖を交互に感じることだろう。

この山塊を背後に抱いた樹木の密生する中腹の炭焼き小屋に、リーマ都市からの避難民と見られる五、六名の男女がいた。

紅一点はガルガナに捕らえられたソロンの娘スーシャであった。彼女を囲むように重装の男達が気難しい顔で話し合っていた。


「スーシャ、ここもその内ガルガナの手が伸びてくるだろう。いつまでも止まっている訳にはいかないんだよ」


と一人の男が言った。


「でも、どこに行こうというの。私達の国はリーマよ。私達を迎えてくれる所などないわ」


疲れきった表情ではあったが、口調はしっかりしている。

彼女は彫りの深い、目鼻立ちのくっきりした顔立ちで、父親譲りの教養の高さと、洗練されたセンスの良さ、それに加えての美貌が都市国家中人気の的であった。

早くして母親を亡くし、幼い頃より、リーマ都市の融和と発展に心血を注いだ父ソロンの側を、片時も離れず、多くの人々に可愛がられ、愛されて彼女は育ったのである。

常は明るくさわやかな笑顔を絶やさない彼女も、この悪環境のもとではさすがに悲痛な様子がうかがえる。それだけに、男達は彼女だけはガルガナの魔手から救いたいという思いがあった。


「あの連峰を越えるんだ。それしか方法はない」


「連峰を、誰もあの山を越えた者などなかったと聞いているわ。雪に閉ざされた霊峰と皆が怖れているわ」


とスーシャは反論した。


「もちろん、直登すると言うんじゃない。迂回するんだ。山麓沿いに北に進み、カルム川に出るんだ。渓谷にはなっているが、決して我々が行けないことはない」


「じゃあ、私達はリーマを見捨てるっていうの?」


「だがスーシャ、このままでは捕まってしまうだけだ。それしか君を逃すすべはない」


周りの男達は重苦しく沈黙したままである。彼女は気丈に言い返した。


「戦うのよ。ガルガナ軍に立ち向かうのよ。人々を募ってリーマを取り返すのよ」


「その気持ちは充分理解出来るし、我々ももちろんそのつもりだ。けれども今は時期が悪すぎる。兵を集めるにもリーマ市から脱出した市民は、ちりぢりの状態で連絡も付けられない有様だ。又、残った多くの人々も厳重な監視下に置かれている。おまけに戦いを指導できる幹部達は敵兵にほとんど捕らえられ近く刑が執行されると聞く。更に私達の中心的な指導者である君のお父上は、バンガル死獄に入れられてしまった。残念だが今はどうすることもできない」


「なんとか、お父様を救い出す方法はないの?」


スーシャは藁をも掴む思いであった。


「不可能なんだ。あの死獄から脱出もしくは救出された者は今だかつていないんだ。又洞窟は迷路で、牢まで行き着くのも命懸けだそうだ」


と男は無念そうに答えた。


「でも私は諦めないわ。最後まで戦うわ。父もきっとそうすると思う」


スーシャは覚悟を決めたようであったが、男達はあくまで説得しようと試みた。


「スーシャ、決して我々は尻尾を巻いて逃げるんでもないし、戦いを放棄する訳でもないんだ。機会が訪れるまで時期を待ち、再起を図ろうと・・」


その時、表の扉が開き一人の少年が息を切らせながら入って来た。


「敵兵だ。兵が来た。もうそこまで来ているよ」


「何!」


彼らは窓から外を眺めた。すると間近に、多くの兵士がこの小屋を目指して向かって来るのが見える。


「駄目だ、このままでは踏み込まれてしまう。逃げるぞ」


と一人が言うと。


「待て!」


と別の男がそれを遮り、スーシャを見ながら、


「二手に分かれるんだ。ロモ、スーシャと一緒に後ろの出口から先に出るんだ」


と即断した。

ロモと呼ばれた見張り役の少年と、スーシャは驚いた。


「でも、それじゃあ、あなた達はどうするの?」


「我々なら大丈夫だ。敵兵に見つかっても何とか逃げ延びることが出来る。だが君らはすぐに追いつかれてしまう。我々が彼らを引き付けている間、出来る限り遠くに離れるんだ」


と答えると、周囲の者は皆口々に賛同した。


「そうだ、スーシャ早く行くんだ」


と、


「私だけ助かるなんてそんなこと出来ないわ」


「心配ないよ。我々もすぐ追いつくから。さっき言ったように山麓の道を北に進むんだ。ロモ、スーシャを頼んだよ」


まだ、躊躇い気味のスーシャを急かす。

押し出されるようにして、二人は持てるだけの荷物を手にし、裏出口の扉を開け、男達に見送られて外に足を踏み出した。

男達はその後姿を確認し安心したようである。


「よし、我々も行くぞ、忘れ物はないな」


彼らも後に続く。


「スーシャさん、私達も早く行きましょう」


とロモは名残惜しそうなスーシャを先導して、崖を上り始めた。

小屋の反対側では兵が近づいて来たようで、騒がしくなってきている。

二人とも必死で駈け登ったが、やがて敵兵の声を耳にした。


「おい、いたぞ、あそこだ」


「四、五人いるぞ。追え、追うんだ」


どうやら正面から飛び出た男達が発見されたようである。いや、わざと見せ付けたのかもしれない。

兵士達が逆の方向に追って行く姿が見られた。

スーシャは心から男達が無事であるように祈った。


「行きましょうスーシャさん」


と同行のロモが促した。森林地帯の獣道を二人はがむしゃらに進む。笹の葉、杉の枝が彼等の顔や腕を遮った。露の滴が足元を濡らしている。

行く手にはアルガニア連山の樹海が立ち塞がっている。わずかに空から白い粉が舞っており、寒気が迫っているが、先を急ぐ二人共、心に留める余裕がなかった。

しばらくして、徐々に樹木が少なくなり、岩肌や低木が目立つようになってきた。道程は険しい凸凹、アップダウンの連続であった。

ようやく小高い山裾に辿り着き、追っ手が来ないことを確かめると、二人は休憩した。


「スーシャさん。これからどうしましょう」


ロモは不安そうに尋ねる。


「待つのよ。後で追いつくからと言ってたわ」


と答えたものの、彼らが同じ道を辿ってくる確証はなかった。けれども、さすがに歩き詰めで疲れ果てており、望みの薄い約束に賭けてみる以外これといって名案はない。

しかしながら、そのわずかな期待も空しく、半刻経っても一向に誰も来る気配はなかった。敵兵に捕まったのか、それとも彼等を見失っているのか。

そうこうしている内に、先ほどからの細雪が大粒に変わってきた。寒気が二人を襲い、その場に止まることは出来なくなった。スーシャはとうとう決心。


「ロモ、私達だけでこの連峰を越えるのよ。もうこれ以上待っても無駄だと思う。とりあえずこの雪を凌げる場所に移動しましょう」


彼らは再び歩き始めた。とにかく烈しくなる風雪から身を避ける所を捜そうと遮二無二進む。

ところが運悪く周囲は岩場のみであった。ロモもかなり疲労が蓄積しているようで、足取りは重い。

適当な休息場所を選べないまま、降り具合は一層厳しくなるばかり。

スーシャもこれ以上進めないと判断し、岩陰に身を寄せた。

彼女も疲労感が極まっていたが、長時間の見張り役を務めていたロモの体力の消耗は酷い状態である。二人共お互いを暖めるべく体をくっつけて励まし合うものの、情け容赦なく雪は頭上に降りかかる。

このままでは凍え死んでしまう。だが前に進んでも現状は変わらない。

どうやらロモの方が眠くなってきたようである。スーシャは必死で起こしにかかる。


「駄目よロモ、こんな所で眠ってしまっては、死んでしまうわ」


と声を掛けて何度も元気づけた。その効果も薄くなってくると、今度はロモの顔をひっぱ叩いた。最初は反応があったが、次第に答えようとしなくなった。

その間も彼等の身体に雪が降り積もる。そして、ついに彼女にも睡魔が襲ってきた。

彼女は心の中で唱えた。


『助けてお父様』『もう私駄目よ』『助けて!』


と何度も何度も念じた。


「誰か助けて!」


と言う彼女の目に滴が浮かんだ。


「誰か答えて!」


と呟きながら彼女は夢の中に誘われ始めた。


その時、

「おい、お前達いったいこんな所でどうしたのだ」


と男の声が聞こえてきた。スーシャはハッと自分を取り戻し、瞼をやっとの思いで開けた。


「誰だ、お前達は?」


そこには黒い顔をした三人の男達が立っていた。彼女は感謝した。


『ありがとうお父様、私達は助かった』

と。



*

 冷たい湿気が体を包んでいた。顔から首にかけて岩盤を伝って落ちてきた水滴が浸っている。

どれ位気を失っていたであろう。何日もの間、ここに横たわっているような錯覚に捕われた。

体を起こそうと試みたが、冷気と拷問による打撲で麻痺してしまってるのであろう動かすことは出来なかった。

目を開けているはずだが、辺りは全くの暗闇で、本当に目覚めたのか、それとも死んでしまっているのか定かではなかった。

ゆっくり腕を動かしてみた。ほとんど感覚はなかった。

が、時間はかかったものの確かに指は目頭を押し当てていた。


「まだ生きているのだ」


と心の中で叫んでいた。しかしこのような所で生き続けられるはずはない。

相変わらず絶望的な状況にあるのを理解するのにそう時間はかからなかった。


『あの時、ザボン王の要求に従って、恭順の意を表しておけばよかったのか』


と自問。


『いいや結局同じ結果になっただろう』


別の彼自身が答える。


『負けたのだ。我々はガルガナに敗北したのだ』


『せめて、スーシャだけでも無事であれば』


と自分の娘を想った。そして、今さら自分の運命を呪うまいと言い聞かせる。


『私はここで朽ち果ててしまうだろう』


意識の中で悟るや否や、どこからともなく、


『お前は死ぬのだ』


との声が幻聴となって響く。


『ふふふ、死霊が私を誘っている』


自嘲気味な呟き。


『が、まてよ、このままくたばってしまうのもしゃくだ。この死窟を眺めてやろう。冥土への土産だ』


と決意し、力を振り絞ってもう一度体を動かそうと試みた。

ぎこちなくではあるが、上半身を腕で支えることは出来た。微かに水が流れる音が聞こえる。その場所まで移動するため足を動かそうとしたが、冷え切っているせいか感覚がなく無理であった

。諦めて、うつ伏せ状態のまま、腹這いで前方に進む。


『お前は死ぬのだ!』


錯覚であろうか、誰かに見られており、手引きされているような気がする。

とにかくゆっくりと洞内を這い進む。体を地面の岩角で傷つけながらの、闇と寒さとの根競べ。

かなりの距離を移動し、遠くに明るい箇所が目に入った。

確かにその付近には光が射している。


「まさか出口では?」


彼は一縷の望みを抱いた。

そして、その光の実体を確かめるべく、己を励まし腕だけで身体を動かして行く。その甲斐あってようやくその位置に近づいた。

水が窪地に流れ込んでいる。

彼はそれを認めた。光はその物から放たれている。

折り重なって集まる幾体もの人骨。一体、いつ頃からあるのだろう。それらの骨は時間と共に風化し、自然に流れ込んだ水滴で変質。自ら輝きを増し、光を放出していたのである。

おそらく、彼と同様、過去に閉じ込められ命を落としていた者達であろう。


「そうか、この者達が私に話しかけていたのか」


いわゆる亡霊からの死への誘いであろうか。彼は失望を禁じえずその場で再び仰向けになった。

いずれにせよ助からないだろう。しかしいつまで保つのか。死を怖れているのではない。

ただ、誰にも見止められず死んで行くことが無念であった。更に彼の愛するリーマ都市の奪還を託せる相手がいないことが心残りであった。

この人骨と同じ運命が私を待ち受けているのだ。

彼は観念した。


『お前もそうか』


との声が聞こえたような気がした。彼は弱々しく微笑んだ。


『人骨達が私を誘っているのか、私に話しかけている。もう長くないな』


「そうだ、私もあなた達と同じだ」


彼は声を出して答えた。ところが、更に続けて聞こえてきた。


「そうか、やはりお前も同じか」


今度は彼の耳にはっきりと聞き取れたのである。そして彼の顔を覗き込んでいる者を見た。

彼は驚くと同時に愁眉を開いた。

その者の輪郭を人骨達が放出する光が捕らえたのである。彼は精気が蘇った。

その者に向かって、


「お前は?」


と再度口に出していた。



*

 「お前達はなぜあのような所にいたんだ」


スーシャとロモは三人の男達に助けられた。

近くの岩穴に連れて行かれ、枯れ木に火を点け暖めてもらった。寒さに震えていたスーシャも暫くしてようやく落ち着きを取り戻した。


「あなた方こそ誰なの?」


彼女はまだこの男達がガルガナの手先という可能性を消し去った訳ではなかった。


「私達か、我々はこのアルガニア山中で暮らす者だ。これから十年ぶりに下界に旅に出るところだ」


一番年老いた男が言った。


「十年ぶり?」


スーシャはびっくりしてしまった。


「お前達が驚くのも無理はない。私達はこのようななりをしているが、決して山賊などではない。私はバイカル、この二人は私の息子でサドニスとジュラと言う」


彼は自己紹介した。

スーシャは彼等が陽焼けで真っ黒、大柄な体格に似合わず優しく誠実な人柄だと感じた。

それと、言葉遣いにも品位が備わっており、彼女は自分達の境遇を打ち明ける決心をした。


「私達はリーマ都市の者で私はスーシャ、彼はロモと言います。私達はガルガナの追っ手から逃れ、仲間達と離れてこの山中に紛れ込んだのです。助けて頂いたお礼を申しますが、決してまだ安全とは言えないのです」


「ガルガナ兵だと。あの遊牧部族のガルガナのことか?」


とジュラと呼ばれた男は腑に落ちない様子で聞き返した。

スーシャは不思議そうに彼らに尋ねた。


「ほんとうにあなた方はガルガナの事を知らないんですか。私達リーマ都市が侵略された事も」


バイカルは申し訳なさそうに答えた。


「いや、私達は今日までの十年の間、この山中から一歩も出たことがなかったのだよ。旅に出て初めて出会ったのがお前達なのだ。ある事情があってね。ところで、そのガルガナがどうしたのだ。よければ私達に教えてくれないかね」


彼女は仰天した。まさか、このように世の中から隔離された人達がいようとは。異国の人間とも違うようである。

彼女は語り始めた。


「今から九年前、ガルガナで現国王ザボンが実権を掌握して以来、軍事国家としての道を歩み始めました。彼は数年の内に軍隊組織を強化し、その後次々と周辺国に攻め入り従えていったのです。そして、とうとうリーマ都市にも矛先を向け、一ヶ月前に私達が平和に暮らす都市に侵略してきました。私達は勇敢に戦いましたが、準備不足と戦いに不慣れこともあって、リーマは彼等に蹂躙されてしまったのです。私の父を初め多くの市民は捕われの身となり、わずかに逃れた者も皆バラバラに地方に散って行きました。お互いその行方は定かではありません」


そこまで語るや悲しみが急に襲い、目を伏せてしまった。

ところが、話を聞いていた三人の男達は、お互い顔を見合わせ唖然とした表情を隠せなかった。

ジュラは幾分興奮しながら彼女に尋ねた。


「今、周辺の国も侵略されたと言ったな。それらの国は今どうなってる?」


スーシャはその剣幕にたじろいだが、頭を巡らせて答えた。


「ええ、バンガル国をはじめ、多くの国の民は、ザボンの指示で奴隷にされたり、冷酷な扱いを受けあちこちで働かされていると聞きます。殺されないだけでもましだと言われています。私達リーマ市民もガルガナの野望の為に、一生尽くさねばならないでしょう」


三人とも衝撃を受け、蒼白な顔をしていた。


「おやじ、それじゃあ国王は?、あの約束は?」


ジュラが尋ねる。


「娘の話が本当なら、もはやなんの意味もない」


と答えながらもバイカルは冷静になろうと努めている。


「だが、我々はあくまでも確かめに行かねばならぬ」


「じゃあ、あの鍵はいったい誰が持っているんだ」


今度はサドニスが正す。


「恐らくガルガナ軍に渡っていよう。何としても取り戻し開けてやらねばなるまい」


「俺達の家族はどうしているんだ」


「今さらくよくよ考えても仕方ないじゃないかジュラ。とにかく行ってみよう。な、おやじそうだろ」


サドニスは強調する。スーシャには彼らの会話をさっぱり理解できなかった。だが容易でない出来事が生じていることは認識された。

バイカルは彼女に向かって穏やかに伝えた。


「娘よ。今の話の通り我々は明日にでもここを立たねばならぬ。お前達の手助けをする事は無理だが、どこか安全な所に送って行ってあげよう」


「私達の行く所などどこにもないわ。仲間と連絡を取りあくまでリーマを開放する為に命を捧げるわ。逃げても無駄だとわかった今覚悟が出来たわ」


「無茶を言うものではない。女子供で何が出来るのだ。思い直すがよい。どこかに落ち着き先があるはずだ。これも何かの縁。及ばずながら力を貸してあげるよ」


と優しく諭した。


「でもそう言うあなた方も、このザボンの支配する地のどこに、何をしに行こうというの」


「私達は末の息子との約束を果たしに行ってやらねばならぬのだ。もう生きていないのかもしれないが、息子達とそう誓ったのだ」


バイカルは淡々と答える。


「でもいったいどこへ?」

彼女は更に尋ねた。


「私達は是が非でも足を運んでやらねばならぬ。あのバンガル死獄へ」


その言葉にスーシャの目は見開いていた。















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