Episode3.幻想の楽園
それは、時間にしてほんの5秒足らずのことだったと思う。
長剣を構える父に少しも怯むことなく、男は片手を伸ばして父の首を掴みあげる。父は突然のことに驚き、左手で男の手を引きはがそうと掴んだ。
父の身体が数センチ浮いた。大の男一人を片手で浮かせるなど、相当な力を持っていないとできないはずなのに、男はまるでウサギでも持ち上げているかのように軽々とやってみせた。
「ぐぅっ……」
「父さん!」
苦しげにうめく声に、我に返ったシンシアは立ち上がろうと壁に手をつく。
その時。男の頭が父の首筋に埋まり――じゅるじゅるじゅると、粘ついたものを汚く啜るような音が路地に響いた。
その音が何か考える前に、父の背中が“縮む”。そう、それは縮むというのが最もふさわしい言葉のように思えた。痩せ細る、枯れる、小さくなる、縮む。
「――え……?」
父の顔は私の位置からは見えない。見えている肌は、首の後ろと、右手首と、両足首だけだった。肌が一瞬でしわしわになり、太さもいつもの半分ほどになった。
まるで体中の水という水が搾り取られたみたいだ。
「……ヶ……」
ひび割れた声が、父の最期の肉声となった。父は、シンシアの目の前で、突然塵になった。
着ていた服と長剣だけを残して、茶黄色の塵になったそれは、男の足下に落ちて小さな山を作った。
男はそれを見て、唇を舐める。それはそれは満足げな視線だった。まるで、御馳走を食べたときのような。
「なかなか旨い。父親は健康そのものだったようだな」
「とう、さん……?」
シンシアは、父親の身体が急に痩せ細り、最期には塵になってしまったところまで、瞬き一つせずに見ていた。それを見ていながらも、父が死んだという結論には辿り着かなかった。思い浮かべることさえ怖かった。
そうだ、きっとこの男が何かをして、父を別のどこかへ飛ばしてしまったのだ。どこへやったのだろう。父を、父をここへ戻さないと……!
「と、父さんをどこへやった! この化け物っ!」
「ん……? 今のを見て分からなかったか? 君の父親は俺が食った。どこにいるのかあえて言うとすれば、俺の腹の中だ」
「うっ、嘘だ!! 父さんを返せ! どこかへ飛ばしたんでしょ?!」
「まったく……可哀想なものだな、記憶操作が効かないというのも。だが安心するといい。君たちジョーカーには確かに我々の力に耐性がある。しかし完全ではない。じっくり時間をかければ、父を喪ったという悲しい記憶も消える。――嬉しいだろう?」
「う……あ……」
こいつは、何を言っているのだ。
シンシアは男の声を聞くまいと、キツく耳を塞いでしゃがみ込んだ。
記憶を消す。その言葉に真っ先に思い浮かんだのが、ニール師匠だった。ニール師匠もこいつにやられたのだ。こいつにやられて、記憶を消された。
師匠は、死んだ? こいつに食われた? ――父も?
忘れ、られるのか。まるで最初からいなかったように父もみんなの記憶から消されて、家も焼かれて――。
「ひどい」
ぽろ、と、シンシアの瞳から涙が落ちた。
父の死に対する悲しみではない、なによりも、父が消えてしまうことが悲しかった。
そんなの、あまりに、あまりに残酷ではないか。
「あんた、人間じゃない」
「その通り、そいつらは人間じゃない」
別の声が、頭上から落ちてきた。今まで余裕げに嗤っていた男の顔が一瞬にして強ばる。
男が慌ててシンシアの方へ手を伸ばしたが、その間に黒い影が舞い降りた。男の短い悲鳴が路地裏に響く。
「食事にお喋り……ずいぶん余裕じゃねぇか、ガウェイン。ロード吸血鬼のくせに脇が甘いな」
「ぐぅっ……忌々しいレジスタンスめ……!」
黒い影――黒衣の男の間から、ガウェインと呼ばれた男の手が見えた。黒衣の男が建物から飛び降りて着地した際に、切りつけたのだろう。
化け物でも、血は赤いのか。シンシアは状況について行けない頭で、ぼんやりと思った。
「――こちらイグニス。サシャ地区3番街ルーシア通り2の3で対象者を発見。全チーム直ちに急行せよ」
『――ぉぅ―ぃ。――――ぅ』
黒衣の男は片手で耳のあたりを押さえると、早口にそう呟いた。シンシアには何をやったか理解できなかったが、黒衣の男の左耳には小さな黒い機器が備え付けられており、それに向かって話していた。
その機器からも人間の声が漏れ聞こえた。『了解。直ちに向かう』とそう確かに耳にしたガウェインは、悔しげに黒衣の男――イグニスを睨みつけた。
個々で戦えば、負けることはないだろう。イグニスが常人離れした身体能力を持っているとはいえ、ガウェインは吸血鬼の中では最も戦闘能力に長けた種の一人である。単純な戦闘力ではイグニスはガウェインに歯が立たない。
だが彼等の連携力は非常に厄介だ。既に彼等の戦闘チーム総勢でシンシアを探していると予測され、報告を聞いたチームは3分足らずでこの路地に集まる。その数は、少なくとも100……最悪の場合、1000……。
彼等――“レジスタンス”は、その名の通り反抗勢力なのだ。闘志によって団結した集団ほど、恐ろしいものはない。
「ああ、それから俺の目の前にいるのはロード吸血鬼の“人形遣い”だ。見たところクリーチャーの集団を引き連れているわけでもなさそうだ。他の吸血鬼の気配も特にない。今なら殺れそうだが、どうする?」
「っ……!」
イグニスは耳の機器に話しかけながら、挑発的にガウェインを嘲笑った。ガウェインは怒りで身体が沸騰するような思いを感じたが、拳をきつく握りしめることで堪える。
彼の操る100の木偶人形は現在城を守護する任務に当たっていて、この街には一つもいない。他の仲間に呼びかけようとも、平和と怠惰に染まりきった彼らには闘志も機動力もなく、レジスタンスのように集まって戦うことなど不可能だった。
――だから潰した方がいいと言ったのだ……!
ガウェインは心の中で自分の上司に向かって毒づいた。将来絶対に邪魔になる、小さな芽のうちに潰した方がいい。かつてのガウェインの陳言を上司は心配するなと、ただ一言で片付けた。
そしてこの結果だ。心底忌々しいと思っても、集まるチームの数を想像すれば撤退せざるをえない。まだレジスタンスに毒されていない、純粋なジョーカーをみすみす逃してだ!
ガウェインは名残惜しげに、イグニスが背後に庇うシンシアに視線を向けた。
シンシアは未だ父を亡くしたことのショックから立ち直っていないのか、父だった塵の山を見ながら青白い顔で震えている。
「可哀想に」
それはまぎれもない、ガウェインの本心だった。父を失い、悲しい記憶に永遠に縛り付けられるこの少年が哀れで仕方ない。
他の人間が忘れているというのに、自分だけ覚えているのは想像するだに苦しいだろう。
「俺と一緒に来ればすべて忘れさせてやる。最初から父親がいなかったことになれば、これまで通り穏やかな気持ちで生きることができる。俺がお前の家族となるよう刷り込んでもいい」
そう、人間は、何も知らなければ、すべて忘れれば、幸せに暮らせるのだ。
父がいなくなって、母がいなくなって、すべて忘れて暮らしている兄弟などこの国には数えられないほどいる。彼らすべてが幸せそうに、穏やかな心持ちで毎日生きている。
ガウェインはとても優しげな声で語りかけた。イグニスはそんなガウェインの顔を、反吐が出ると言わんばかりの形相で睨みつけている。
――知らなければ楽園、知れば牢獄。
――忘れれば天国、思い出せば地獄。
こんな小さな少年に、わざわざ真実を話して闇に突き落とすなど、レジスタンスの人間は本当に残酷だ。
ガウェインは冷え切った視線をイグニスにちらりと向けた。
「だがこの男について行けば君は一生苦しむことになる。最期に見るのは絶望だ。人間はとっくの昔に敗北し、我々に管理されるようになった。その現実を受け入れ、“箱庭”で生きることを享受しない限り――君は苦しみから解放されることはない」
「箱庭? 笑わせんな、そんな上等なもんじゃねぇだろ。ここは“養殖場”だ。てめぇら吸血鬼は、餌の人間を飼育して食ってるんだろうが!」
本当に、彼等とは馬が合わない。これは“飼育”ではない、“共存”なのだと、どうして分からないのだろうか。
レジスタンスを説得するのはとうに諦めている。それよりも彼の後ろの純粋なるジョーカーだ。少年にはまだ、幸せになる権利がある。ガウェインは近づいてくる複数の足音に耳を澄ませながら、最後の説得を試みた。
「少年。今抱いている悲しみを復讐心に換えるのは、あまりおすすめしない。復讐にとらわれてしまえば最後、君は決して幸せになれなくなる。すべて忘れて――」
「私の名前はシンシアだ」
今まで心神喪失したかのようにぼんやり座り込んでいたシンシアが、不自然なほどしっかりした声でそう宣言した。
瞳は相変わらず虚ろだ。しかしその虚ろな瞳にガウェインが映ったときだけ、爛々と生に輝く。
その奥にあるのは――まぎれもない、憎悪だった。
「覚えておけ。私はお前を殺す。覚えておけ」
「シンシア。――残念だよ」
ふぅ、と小さなため息を吐いて、ガウェインはその場から足早に撤退する。
シンシア。――――女のような名前だな。
ガウェインは哀れな少年の姿を脳裏に浮かべながらそう思った。