Episode2.餓えるモノ
サブタイトルのセンスのなさは引き続き気にしないで頂きたい。
足は自然と道場の方へ向いていた。きっとまだ見逃していることがあるはず。ニール師匠が残していった手がかりがあるとすれば、道場しかないとシンシアは踏んでいた。
それにあそこは、ニール師匠が実在したという大きな証拠となる場所なのだ。ニール師匠の家と連結している道場は、彼の生活感がありありと残っていた。
――ふと、橙色の光が見えた。
夜空に侵食するような光を、シンシアは不思議げに見上げる。
その光が灰黒い煙を連ねていたこと、その光の方向にあるもの。それらに気付くのに、2,3秒を要した。
「うそ……っ」
見上げるために止めていた足を慌てて動かす。縺れて、転びそうになった。
あの方向は――道場がある方向ではないか! あれは、あの光は、火事だ!
全速力で道場に向かって走る。道場に近づくにつれて野次馬の数が多くなっていった。
角を曲がれば、道場がある通りにでる。ここまで来れば、間近によらないでもどこの家が燃えているのか分かった。――師匠の家だ。
野次馬をかき分けて、燃えさかる炎を見上げる。発火元は師匠の自宅らしい。家のほとんどをオレンジ色の炎に呑まれていた。当然連結している道場にも火の手は回っている。
「でもよかったわね。火事になったのが空家で」
近くの主婦が、悪気なくそう呟いた。一切の悪意がないと分かっていながら、シンシアはその主婦に殺意にも似た怒りを抱いた。
「空家なんかじゃない! ここにはニール師匠が住んでいたんだよ?! なんで……なんでみんな覚えてないの?!」
この火事は仕組まれたものだ。シンシアは直感的にそう思った。
誰かが、ニール師匠を跡形もなく消そうともくろんでいるのだ。ニール自身を消し、ニールについての記憶を消し、さらには彼が存在したという証拠まで消そうとしている。
――させるものか。
シンシアはまだ燃え広がっていない道場の中へと飛び込んでいった。消火活動をしていた自警団の男達がいち早く気付き、慌てた声でシンシアを制止しようとする。彼女が振り返ることはなかった。
外から見ていたよりも中の様子は酷かった。木の床は中心部分を除いてほとんど火が回っているし、掃除道具やら胴衣やらが掛かっている壁も同様だ。
せめて一欠片でも良い、師匠がいた証拠を持ち帰りたい。シンシアは煙を吸わないよう口を押さえながら、火が回っていない方へ目を向けた。
「師匠……っ、勝手に持ち出すこと、お許しください」
シンシアが手に持ったものは、師匠の胴衣の隣に保管してあった、騎士官学校の卒業バッジだった。ニール師匠がずっと大事にしていたもので、門下生が黙って取り出そうものなら顔を真っ赤にして怒鳴りつけていた。
ガラスケースの中に入れられていたおかげか、バッジは少しも燃えていなかった。シンシアは大事そうにそれを胸ポケットにしまい、来た道を引き返した。
「馬鹿もん! 火事の家に水も被らず突っ込んでいくとは、死にたいのか!」
外に出た途端自警団の男達に囲まれ、鬼のような顔でどやされた。シンシアは当然のことだと受け止め、「ごめんなさい」と深く頭を下げる。
「人が……残っていると思ってたんです」
「ここは空家だぞ! 人なんて残っているものか!」
空家、という言葉に強く反発しそうになったが、どうにか堪える。この人達が何よりもシンシアを心配してたという気持ちが伝わってきたためだ。
それ以上シンシアを説教する暇がなかったのか、自警団の男の一人が舌を打って「大人しく帰れ!」と一喝すると、再び水の入ったバケツを持って消火活動に戻った。
シンシアは火事の現場からいったん離れ、暗い路地を歩きながら考えていた。
こうなってくるとニール師匠が生きているという確率はきわめて低くなってくる。何者かがニール師匠を殺し、どうやってか住民の記憶を操作して、仕上げとして家に火を付けたのではないか。
驚くほど冷静に、シンシアはそう推論した。何もかもがいっぺんに起こりすぎたため、彼女は一時的に感情の機能を麻痺させていた。ニール師匠の死を悲しむ気持ちも、どこかぎこちない。
「50歳が人間の寿命……」
父の言った言葉を思い出す。確かに、この街に父やニール師匠より年上そうな人間はほんのわずかしかいないように見えた。ほとんどが20代30代の働き盛りだ。
寿命、というのは何かが違う気がした。老衰や病気で死んだわけではない。最後に見た師匠は元気そのものだった。何の兆候もなく、ふ、と消えてしまったのだ。
もし、殺され、存在を消されたというのなら。
「50歳になると、誰かに殺される……?」
「近いけど、少し違う」
突然、背後から伸びてきた白い手が、シンシアの顎を捉えた。剣に手をかけようとした右手を、別の手が捕らえる。掴まれていない左手も右手を押さえ込む腕にぐるりと回られて、ほとんど自由がきかない。
後ろから抱き込む形で自由を奪われているのだ。シンシアはぞっと背筋に冷たいものを感じた。
背後の男は誰だ。何をするつもりだ。
「50歳になれば、食事が許可される。人間の繁殖能力がなくなるとみなされる年齢なんだ。繁殖できなくなったら、後は食用にするしかないだろ?」
「しょく、よう……?」
「何も知らないみたいだね。やっぱり君はまだ彼等に属していない。――まぁ、属していたら自分がジョーカーであることを触れ回るわけがないか」
くつくつと愉快げに背後の男が笑う。男はシンシアの顔を覗き込んできた。シンシアの方も必死でそちらの方へ視線を投げる。
男は驚くほど端整な顔立ちをしていた。つややかな黒髪に赤い瞳、夜にくっきりと浮かぶ白い肌。これほどまでに美しい顔は見たことがない。
シンシアは女として彼にときめく前に、その美貌におののいた。完全なパーツを集めたような彼の顔は、どこか人間離れしている。
得体の知れないものに恐怖しているのが伝わってきたのだろう、男は目を細めてシンシアを嘲笑った。
「俺は運が良い。記憶操作がされていないという報告を受けて慌てて探し回ったが、まさか彼等よりも先に見つけるとはな。彼等の思考に染まっていないジョーカーは珍しい。君なら、我々の理念を理解してくれるかもな」
「さっき、から、何言って……っ」
「我々は人間と“共存”しようとしているんだ。こう言ったらおかしいが、とても人道的な方法でね」
シンシアの顎を掴んでいた手が首に掛かる。
殺される。そう直感した彼女は死にものぐるいで抵抗しようとしたが、男の腕はびくともしない。彼女自身、力には自信があったから少なからず驚いた。
「君を覚醒させるのはもっと安全なところに行ってからにしよう。でないと面倒なことになるからな」
「ぐっ……はな、せ!」
男の指がある血管を押し潰すようにわずかに力が込められる。こいつ、気絶させる気だ。人の意識を奪う方法を師匠から教わったことのあるシンシアは左手で男の手を引きはがそうと奮闘した。
男の手の甲はびっくりするほど冷たかった。数分前まで氷水にずっと漬かってでもいない限り、こんな冷たい手にはならない。
――人間じゃ、ない。
強烈な眠気に襲われる頭で導き出した答えは、荒唐無稽なものだった。しかしそれこそが最もしっくりくる答えであると思った。
人間じゃないものが、師匠を消してしまったのだ。街の人間の頭を弄って師匠を忘れさせた。師匠を、師匠を……。
――しょくよう。ショクヨウ。……食用?
食ったのか?
「貴様っ! シアに何してる!」
意識を失う寸前、衝撃がシンシアを襲った。いや、正確には男に直接衝撃が叩き込まれたのだが、男と密着していたシンシアにも多少のダメージが伝わってきただけだ。
いきなり横から重い拳を受けた男は、油断もあってかシンシアを拘束する腕を緩めてしまった。その場に脱力したシンシアは、這いずるように男から距離を取る。
「シア! おい、大丈夫か?!」
「とう、さん……げほっ」
慌ててシンシアの肩を抱いたのは、シンシアを捜し回っていた父だった。部屋着姿なのが格好つかないが、どれだけ心配をかけたのか、その泣きそうな顔で分かった。
シンシアの身体をざっと見て外傷がないかを確かめた父の行動は素早かった。意識を失いかけて動けない娘の代わりに、娘の剣を抜くと、頬をなでさする男に向かって突きつけた。
「動くなっ! この変態め……騎士に突き出してやる」
「はぁ……びっくりした。ただの人間に不意を突かれるとは、情けないな。君は……見た感じ、その少年の父親か?」
「うるせぇクソ野郎! ムダに綺麗な顔しやがって……てめぇなら女なんて選り取り見取りだろ! シアに構うんじゃねぇ!」
父はどうやら、男がシンシアを手篭めにしようとしたと勘違いしているらしい。確かにそう誤解を受けても無理のない体勢だった。
だが事態はもっと深刻だ。男はシンシアを気絶させ、誘拐しようとしたのだ。そのことを伝えようとしても空気を吸い込むのに必死で、彼女には伝えるだけの余裕がなかった。
「ふむ……40代の後半か、もう50代前半かな? 許可が出ているかどうか分からない人間に手出しするのは俺としても不本意だが……仕方ない、緊急時だ」
「何の話を……っ!」
「――ちょうど腹も空いていた」