Episode1.消滅
何かが変だ。
シンシアは苛々と髪を掻き乱した。同じ年頃の女性のように長い髪であれば絡まって大変だっただろうが、幸い、彼女の髪は肩につかない程度に切り揃えられている。女性ならばまず着ることのないズボンを履いていることから、彼女はよく少年に間違えられていた。
いつもは鋭い眼差しを、今日ばかりは当惑と混乱に潤ませる。訳が分からない、何度目かの呟きを落とした。
「知らないはずないでしょ? あんたのとこの息子だって、師匠の門下生だったじゃない」
「だからね、シアちゃん、ウチの息子は剣なんて習ってないんだって。大体、近所で道場開いてればさすがに分かるよぉ。だけどね、その、なんだっけ?」
「ニール師匠よ。城に仕える騎士だったけど、足を怪我して市井に戻ってきた……昨日までそこで剣を教えてた人よ? どうして忘れられるの?!」
「あのさ、いい加減にしろよ。さっきから何度も何度も……そんな人本当に知らないよ。女のくせに騎士を目指しているとか、前からおかしな子だなと思ってたけど、ほんとにどうかしちまったんじゃねぇか? いない人間を探してるとか……」
「どうかしてるのはみんなの方よっ! どうして誰も彼も、師匠を知らないだなんて言うの?!」
激情に任せて怒鳴れば、友人の父親は嫌そうに顔をゆがめて玄関の扉を閉めた。バタン、と壊れんばかりに閉められた戸が、「勘弁してくれ」という彼の心情を何よりも表していた。
これで12軒目である。シンシアは俯けば零れそうになる涙を必死に堪え、拳を握りしめた。
シンシアの剣の師匠であるニールが、道場からも家からも姿を消した。最初はシンシアも、もういい年だから持病の腰痛が発病して薬屋にでも行っているのだろう、と楽観的に考え道場で待っていた。
だがおかしなことに、いくら待ってもニール師匠が道場に来る様子はなかった。それどころかシンシアの他の門下生達も道場に来ない。不安に思ったシンシアは、道場の近所の家から順に、ニール師匠の行方を尋ねることにした。
そうして返ってきたのが、先ほどの答えだ。
――そんな人知らない。
――道場なんてこの近くにはない。
何の冗談かと思った。ここ一帯の人たちが示し合わせてシンシアをからかっているというのなら、あまりに趣味が悪い。シンシアが女騎士を目指していることをよく思わない街の住人は多かったが、それにしたってこれは酷すぎる。
共に汗水を流した門下生でさえ「ニール師匠なんて知らない」「自分は道場に通った覚えはない」と言ってきたのだ。あまり立派とは言えない道場の前まで引っ張っていって証拠を示しても、彼らは当惑して「本当に知らないんだ」と繰り返すばかりだった。
次第に門下生やその家族達の、シンシアを見る目が変わっていった。訳の分からないことを喚き散らすキチガイ女。そんな視線に晒されたとき、シンシアはついにため込んでいた不安や困惑をはき出すように言った。
――どうかしてるのはあんた達じゃないのっ。
ニール師匠がこの街で道場を開いて、もう5年にもなる。すべて夢だったというのか、妄想だったというのか。そう考えたら、シンシアは悔しくて堪らなくなった。
他人より異常に高い身体能力に悩み、同年代の誰とも溶け込むことができなかったシンシアに、「強い騎士になって国を守ればいい」と道を指し示してくれたのはニール師匠だった。シンシアにとって彼は、恩人であり第二の父でもあった。
きっと何か、悪いことに巻き込まれてるに違いない。駆けつけたくても、誰もニール師匠のことなど知らないと嘯くのだ。
……いや、あれは嘘を吐いているようにはとても見えなかった。きっと誰もニール師匠のことを“覚えていない”のだ。
けど、なぜ? 周囲の人間の記憶と共にニール師匠がいなくなった。どうしてそんなことが起こりえるのだ。
何かが、おかしい。気味が悪い何かが起こっているような気がした。
* * *
日が暮れる頃にはシンシアは街の人間全員から不信感のこもった目で見られることになった。諦めきれなかった彼女はニール師匠の知人の家をノックしては彼のことを聞き回っていた。
収穫は何一つなかった。誰も彼も、ニール師匠のことを覚えていない。「知らない」という言葉を聞くたびに、シンシアは狂っているのは自分の方ではないかと追い込まれていった。
悲愴な顔で家路につけば、父が心配そうな顔で玄関先に立っていた。どうやらシンシアの噂は瞬く間に父親の耳に入ったらしい。
――父も、知らないというのだろうか。私の頭がおかしいというのだろうか。
そう考えた途端、ずっと堪えていたものが決壊した。父の胸にすがりついて苦しげに泣くシンシアを、父は黙って受け入れた。
シンシアは父にはニール師匠のことを聞くことができなかった。答えはもう、聞かずとも分かっていた。親友であった父すらニール師匠を覚えていないのだ。困惑混じりに髪を撫でるこの手が語っている。
――『お前に剣を習うようになってからシアは明るくなった。それはいい。だがな、あんまり剣の腕を磨かれて筋肉むきむきになってみろ、嫁ぎ先がなくなる!』
――『なに、心配するな。シアのやつは稀に見る美人だ。芯が一本通ってるところも良い。この街の連中は女を見る目がねぇがな、場所を変えればシアはモテるぞぉ』
――『鼻の下を伸ばすな気色悪い! 貴様まさか、稽古と称してシアに変なことをしてるんじゃないだろうな!』
――『そりゃあ俺があと10年若けりゃあんなこともそんなことも……っておぉい! 冗談だ! その包丁しまえ馬鹿!』
ニール師匠と父のがさつな会話を、こんなにもはっきり覚えている。ニール師匠が、存在しないわけがない。なのにどうして、シンシア以外の誰もが彼のことを覚えていないのか。
暗鬱とした気持ちで食卓に着き、父の手料理を黙々と口に運ぶ。いつもなら笑顔で食事の感想を言うところだったが、今日はとてもそんな気にはなれない。
8歳の頃、事故で母を失ってからは父が一人でシンシアを育ててくれた。父自身も城に仕える騎士だったが、母の死をきっかけに市井に下り、慎ましい道具屋を始めた。
ニール師匠は父の同期の騎士で、現役だった頃から親交があった。シンシア自身もニール師匠をかけがえのない存在だと思っていたが、父の方がよっぽど付き合いが長い。
ニール師匠の失踪に、誰よりもショックを受けるはずなのに……。その“喪失感”すら感じないなんて、なんて残酷なのだろうか。
「……なぁ、シア。お前が探している師匠ってのは、大体何歳ぐらいなんだ?」
シンシアが何も言わないでいると、父の方からニール師匠の話題を振ってきた。
その話しぶりは10年以上付き合いのある親友に向けるものではない。分かっていたものの、シンシアはショックを受けて一瞬言葉に詰まった。
「51歳よ……父さんと同い年」
「そうかぁ……50超えてるのか……じゃあ、もしかしたら……」
「何か知ってるの?!」
「いや、……ショックを受けないでほしいんだけどな、寿命がきたのかもしれないよ、シア」
「じゅ、みょう……?」
それはつまり、ニール師匠は死んでいるということなのだろうか。
父の声音にはシンシアに対しての配慮は見えても、“親友”が亡くなったかもしれないという悲しみは見られない。
これが、死だとでもいうのか。
「この年になってくると、人間の寿命とやらに興味を持ってな。父さんが少し調べてみたんだ。……この街に、50歳以上の人間はほとんどいない。50、っていうのが人間の寿命なのかな、と俺は納得している」
「……なに、それ。じゃあ父さんももうじき死ぬの?」
「仕方ないだろ、シア。生きていればいつかは死ぬ。お前の師匠だって、父さんだって例外じゃない。むしろ50年以上生きられたんだから、立派なもんだ」
「……いつか死ぬのは仕方ないよ。だけど、変なんだ。師匠の遺体はどこ。何が原因で死んだの。先週まではぴんぴんしてたのよ。老衰? 病気? 事故? ――――ねぇ」
――なんで誰も覚えていないの。
その言葉はかろうじてのところで飲み込んだ。それこそが一番の疑問点であったが、口にした途端、ニール師匠という人間が霞んで消えてしまうような気がしたからだ。
シンシアにとっての“死”は、母だった。山菜を摘みに言った母は山で足を滑らし、首の骨を折った。街の人の有志で捜索隊が派遣され、母の遺体を見つけた。青い顔をして城から帰ってきた父は母の遺体をかき抱き、声を殺して泣いた。その横でシンシアもギャンギャンと泣いた。丸一日、冷たい母の遺体を娘と父が抱きしめた後、家の横に埋めた。それから半年ばかりは父は抜け殻状態になり、そんな父を慮るように近所の人が色々と手伝いに来てくれた。母の死から1年、父は道具屋を営むことを決心した。
“死”とは、冷たく、悲しく、ひたすらに痛いものである。親しいものほど胸を引き裂くような痛みを感じる。生きているうちにもっと幸せにさせてやりたかった、と、尽きることのない後悔を覚えるものである。
その人と過ごした幸せな日々を、けして忘れまいとするものである。
――こんなのは。
「だけどな、シア。向かいのところの老猫覚えてるだろ。あの猫も死ぬときになってふらふら、と小さな路地に行って死んだ。死期を悟れば動物は、大切なもんを悲しませまいと動くものなんじゃないかな。だからお前の師匠さんもきっと……」
「っ猫と師匠を一緒にしないでよ!!」
――こんなのは、死ではない。消滅だ。
シンシアはいつの間にか固く握りしめていた箸をテーブルに叩きつけ、乱暴に席を立った。
外套と護身用の長剣をひったくり、父に背を向けて家を飛び出す。父の声がすぐに後を追ったが、無視した。
ニール師匠は自分が見つけ出さないといけない。みんなが忘れているというのなら、自分が師匠を連れてきて、思い出させるのだ。門下生にも、師匠の友人にも、――父にも。
たとえ父の言うとおりニール師匠がどこかで死んでいるのだとしても……このままみんなの記憶から消えたまま、誰にも悲しまれずに朽ちていくなんて、絶対にさせるものか。