1...夜の森ではお静かに
「はぁっ...はぁ...ねえっ...待ってよ!」
「やぁーよ!アルってば本当に鈍間なんだから!」
「ちがっ、そうじゃなくて...!」
輝く月が夜空に陣取り、雲の隙間から注ぐ控えめな光が眠る草木を照らす頃。
森の奥にある少し大きな泉で水浴びをしようと服に手を掛けた彼女の耳に聞こえてきたのは、そんな会話だった。
「も、もう帰ろうよっ...怒られちゃうよ」
「なぁに?まさか怒られたくなくて必死に止めてるの?アルってば鈍間なうえに弱虫なの?」
「なっ...弱虫じゃない!...でも、もう時間も遅いし...これ以上深くまで行くと獣が出るよ?...危ないよ」
「やっぱり弱虫なんじゃない」
少女が云うのと同時に「イテッ」と少年の声がする。
どうやら枝切れか何かで小突かれたらしく、何やら不満気にぶつくさと呟いているのが聞き取れる。
「絶対に見間違いなんかじゃないもの!あの綺麗な銀色の髪!あれは森の妖精よ!」
「で、でも...」
「きっと泉で身体を清めてたんだわ!アルだって一緒に見たじゃない!」
「そ、そうだけどぉ...」
そこで先日の水浴びを思い出す。何やら後方にガサゴソと人の気配があったが、特に敵意も感じなかったし、そこから出てくる様子も無かったので放置していたのだが...まさか先程から聞こえる妖精と云うのは自分の事だろうか。
何をどうすればそうなるのやら...と不可思議に思いながらも、”銀色の髪“と云うからには自らのこの髪の事を指しているのだろう。
腰を覆う程に長い白金の髪をひょいっと持ち上げ彼女は考えた。
こうなってはのんびり水浴びと言う訳にもいかなさそうだ...。
何事か悩む様子を見せた後、彼女は泉の縁に生える木の枝に飛び移る。
少し待てば、足元の泉に向かい草木を掻き分け歩を進める2人の子供の姿が見えた。
「ほら、もうすぐ泉に着くわよ、静かにしなさいよ!」
「騒いでるのはクレアの方じゃないか...」
「うるさいわねぇ、あっ、泉が見えた!妖精さん居るかしら...」
そしてガサっと草が揺れたかと思いきや、小さな顔をひょこひょこと2つ分覗かせ、何かを探す様な素振りで辺りを見回している。
「...居ない」
「...居ないね」
「...なぁんだ、つまんないのっ」
「も、もう良いでしょ?帰ろうよクレア...これ以上は本当に危ないよ」
「駄目よ!もっとよく探さなきゃ、まだ近くに居るかもしれないじゃない!」
「ク、クレア〜...」
どうにもこの勝気な少女に、少年は押されっぱなしのようである。だがこれ以上この場で騒げば、少年が心配しているように本当に獣達が集まって来かねない。
実際少年達は気付いていないが、既に何匹かは少し離れた場所から少年たちの様子を窺っている。
安眠を邪魔され気が立っているのか、突然の騒がしい来訪に神経を逆撫でされたのか...おそらくはそのどちらもだろう、と彼女は思う。こうなればよくぞ無事にこの泉に辿り着けたものだと、逆に感心してしまう。
どうしたものかとまたひとつ逡巡するものの、このままでは確実に帰り道で落とすであろうその小さな命2つを見捨てるのは、彼女にとっても後味が悪いものだった。
「こらっ、夜の森は危ないぞ」
「うわぁぁぁあああ!!!」
「きゃぁぁぁあああ!!!」
キィーーーーーン...
思わず目も眩みそうな大声量の叫び声に、耳を塞ぐ。薄く閉じた彼女の視界の端に、少し離れた木々から驚いて飛び去る鳥の群れが映った。この時間では既に寝ていただろう...可哀想に。
(声の掛け方を間違ったか...)
今度は脅かさぬ様にと身体を預けていた枝から降りつつ、慎重に、努めて穏やかに、改めて声を掛ける。
「いや、すまない...脅かすつもりは無かったんだが...大丈夫か?」
その姿を見た瞬間、2人揃って目を剥かせ口をパクパクとさせながら喘ぐ様に何かをしきりに繰り返す。
「よ、よよよ...」
「よよよ、よよ...っ!」
「あー、待て待て、これ以上大きな声で周りの動物を刺激するな」
どうどう。2人の様子に嫌な予感を感じた彼女がまるで慌てる小動物を宥める様に2人に近付いた時、パクパクと開閉を繰り返していた少女のその口が一際大きく開いた。
「ようせーーはぐっ!」
「大きな声を出すなと云うに...!」
間一髪、どうにか少女の口を無理矢理押さえて大声量第2弾を阻止する事に成功し、彼女は内心ホッと息を吐く。ついでとばかりに少年の口も押さえてこれ以上大声を出されない様に気を付けつつ、2人に確認をとる。
「良いか?絶対に、大きな声を、出すなよ?」
——コクコク!
「これ以上騒ぎ立てると、あいつ等が襲ってくるからな?」
ちらっと背後の泉の更に奥へと視線をやる彼女に倣い2人は同時に目だけをそちらに向けた。
その先にある茂みの隙間からは、こちらに警戒心剥き出しで小さな唸り声を上げる獣の顔が覗いていた。
「「ーー!!!!」」
一瞬にして顔を青ざめさせる2人に、自分の近くに居れば滅多な事でもない限り襲って来ない事を説明し、念の為もう一度声を上げない様にと彼女は確認をとる。
先程と同じ様に全力で頷きを繰り返す2人を見て、ようやく口元に押し当てていた手を退ける事にした。
「も、森の妖精...本当に居たんだ...」
あれだけ自信満々に「妖精は居る!」と語っていたにもかかわらず、隣で呆然と呟く少女—クレア—の言葉は、少年—アルベルト—の耳にも届いた。
だが違う、とアルベルトは思う。
月光の光を受け輝く長く伸びた銀糸の髪。
緋の色を深く滲ませた瞳。
黒に染められたローブを身に纏い、それとは対照的に先程自分達の口を押さえていた手は透き通る程に白い。
「...月...」
夜の闇と同化する様に風に揺らぐローブ、その先に浮かぶその白金色の髪も相まって、果てもなく幻想的な姿をした目の前の女性は、今も夜空に浮かび自分達を眺めているであろう月の様だと。
アルベルトはそう思ったのだった。
数年ぶりに復活した、書く作業。
楽しいですが、昔ほどスラスラと文字が綴れないのが口惜しいです。
あの頃は日に何ページも書けたと言うのに...!