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六本木抄  作者: 東亭和子
2/6

幸せの白椿

 冷たい雪の降る日でした。

 私は家路を急いでいました。

 だから曲がり角の先に人がいるのに気付かなかったのです。

 出会いがしらにぶつかり、転びそうになりました。

 一瞬、痛みを想像して目を閉じました。

 そこに衝撃はなく、私は柔らかな温もりに包まれました。

 おそるおそる目を開けます。

 着物の模様が見えます。

 目線をあげるとそこには男の人の顔がありました。


「!」

 私は驚き、眼を見開きました。

「大丈夫ですか?」

 男の人は心配そうに顔を覗きこんでいます。

 男の人は二十歳ぐらいでしょうか。

 短い髪の目が大きな青年でした。

「すみません、気付かなくて。

 お怪我はございませんか?」

 私は慌てて男の人から離れました。

「いいえ、こちらこそすみませんでした」

 男の人もそう言って謝ります。

 お互い怪我がなくて良かった、と微笑みあい別れたのでした。

 なんの変哲もない出来事。

 そう、出逢うことなどもうないと思っていたのです。


 数日後、姉の婚約者が家に来るという話を聞きました。

 姉はまだ会ったことがないそうです。

「ものすごい美形だったらどうしよう!」

 姉は会うことを楽しみにしているようでした。

「ものすごいブサイクだったらどうするの?」

 私の一言に姉は眉をひそめました。

「やめてよ。頑張ってこの婚約を受け入れようとしているのに」

 姉なりに受け入れる努力をしていたようです。

 ごめん、と笑いながら謝ると、姉は誠意がこもってない!と言いました。

 人事なのだから仕方ない、と私は思いました。

 私はまだ十四歳です。

 そして姉は十八歳。

 姉にとって結婚は身近な問題であっても、私にとっては未来の話。

 想像もつかない話なのです。

 明治の今、婚約者は親が決めます。

 それが当たり前の話です。

 だから私もそのうち親が婚約者を決めてくるのでしょう。

 だからその時に考えればいい、そう思っていました。


 姉の婚約者が来た日、私は用事で家にいませんでした。

 だから顔を見ることは出来なかったのです。

「どんな人だった?

 美形だった?

 ブサイクだった?」

「そうね、優しい感じの人だったわ。

 美形でもブサイクでもなかった。

 普通だったわ」

 少し嬉しそうな姉を見て、私は笑いました。

「良かったね。おめでとう、姉さん」

 姉が笑って頷きました。

 この婚約はスムーズに進むでしょう。

 そう思って私はうれしくなったのです。

 

 姉の婚約を祝うため、私はある場所へ向かっていました。

 そこは秘密の場所でした。

 女学校で聞いたのです。

 純白の椿をもらうと幸せになれる、と。

 だから私は姉のためにその椿を取りに行ったのです。


 そこは小さな家の垣根でした。

 蕾は小さく、まだ花は咲いていません。

 私は凍える手に息を吹きかけました。

 毎日、私はそこへ通うつもりでした。

 花が咲いたら姉にあげるのです。

 今日はもう諦めて帰ろう、そう思いました。

 すると声が聞こえました。

 この家から男の人が出てきたのです。


「あれ?君は」

 そう言うと男の人は笑いました。

 この前、ぶつかってしまった人だったのです。

 私は驚きました。

 まさか、また会うことになるとは思ってもいませんでした。

「毎日、ここに来ているよね?

 椿が欲しいの?」

 男の人の言葉に私は頷きました。

「姉さんが結婚するのです。

 そのお祝いに白い椿をあげたいのです」

 私の答えに男の人は笑いました。

 よく笑う人です。

「そうか。

 もしかして、この前もここに来た帰りだった?」

 はい、と私は答えました。

 そうすると男の人は私を手招きしました。

 不審がる私に大丈夫と笑いかけ、男の人はさらに手招きします。

 私はしぶしぶ男の人に近寄りました。

 男の人は垣根に指を差していました。


「ここ、見てごらん。

 もうすぐ咲くよ。

 そうだね、あと二、三日したらまたおいで」

 そこには大きくなった椿の蕾がありました。

 私は嬉しくなりました。

 男の人も嬉しそうに笑います。

 私は帰ろうとしました。

 すると、男の人は私を止めました。

「手が冷たいだろう?

 これをしたらいい」

 差し出されたのは手袋でした。

 私は手袋と男の人の顔を交互に見つめました。  

 男の人はそっと手袋をはめてくれました。

 温かな手袋でした。

 ありがとうございます、とお礼を言って私はその場所をあとにしたのです。


 今日は椿を貰いに行く日です。

 私は朝から落ち着きませんでした。

「どうしたの?そわそわして。

 何かあるの?」

 首をかしげて姉は私を見ました。

 ちょっと、と私は姉に笑いかけました。

 これは秘密です。

「何?変な子ね」

 姉も笑いました。

 今日は婚約者も来る日です。

 私は初めて会います。

 それも楽しみなのでした。


 玄関から声が聞こえました。

 来たのでしょう。

 姉が急いで玄関に向かいます。

 私はそっと後ろから見ていました。

「こんにちは」

 聞いたことのある声でした。

 私は身を乗り出しました。

「!」

 そこにいたのはあの椿の家の人でした。

 私は驚きで言葉が出ませんでした。

 なんだかとてもショックだったのです。

「どうしたの?」

 姉が心配そうに私を見ています。

 男の人も驚いて私を見ています。

 急に視界が回ったような気がしました。

 遠くで姉の叫んだ声が聞こえた気がしましたが、

 私にはもう何も分かりませんでした。


 私が目覚めたのはもう夕刻でした。

 窓の外には沢山の雪が降っています。

「どうしたの?

 いきなり倒れて心配したのよ?」

 姉が私の頬をなでました。

 どうやら私は気絶してしまったようです。

「あの人は?」

 私は気になって姉に尋ねました。

「ああ、帰ってもらったわ。

 また別の日に来てくれるから平気よ」

 姉の言葉に私はうつむきました。

 胸がとても痛かったのです。

「どうしたの?

 どこか痛いの?」

 突然泣き出した私に、姉は戸惑いました。

 私は首を横に振りました。

 そうして泣き続けました。

 私の心に小さく灯った恋心は、行き場をなくしてしまったのです。

 私はそれがとても悲しいのでした。


 そんな私を姉は優しく抱きしめてくれました。

 大好きな姉です。

 その姉の夫となる人なのです。

 辛くても、私は祝わなければなりません。

 私はこの恋を封じ込めることにしました。


 あの人が笑うたびに、私は辛くなるでしょう。

 あの人が話すたびに、私は悲しくなるでしょう。

 あの人が姉を見つめるたびに、私は悔しくなるでしょう。


 それでも、私は我慢しなければならないのです。

 大好きな姉と婚約者のために。

 私はこの辛く悲しい思いを胸に秘めたままでいようと決めたのでした。


 それから、私は椿を見に行くことはありませんでした。

 行くことが出来なかったのです。

 きっと今頃は見事な花が咲いているのでしょう。

 私は家の前の道路で降り続く雪を見上げました。

 しんしんと降る雪が全てを覆い隠してゆきます。

 こうして雪の中に立っていると私の心も隠してくれそうな気がしました。

「冷えてしまうよ」

 あの人が立っていました。

 柔らかく笑っています。

 私は顔を見ることが出来ませんでした。

「もう体は大丈夫なの?」

 心配そうな声です。

 私は頷くことしか出来ませんでした。

「椿の花が咲いたよ。沢山ね。

 取りに来ないから心配したんだ。

 そんなに具合が悪いのかと。

 でも大丈夫そうだね。良かった」

 そう言って白い椿の花を私に差し出しました。


「これは君にあげよう。

 一番綺麗に咲いていた花だよ。

 お姉さんにあげる花は、自分で選ぶといい」

 そう言うと私の頭に積もった雪を振り払ってくれました。

 私は凍える手で椿を握り締めました。

 一筋、私の目から涙がこぼれました。

 あの人は驚いているようです。

 私は緩やかに微笑みました。

 この気持ちを悟られることがないように。

 心の底に押し込めて笑いました。

「とても嬉しいです。

 ありがとうございました」

 私は涙を拭いました。

「あの、この前お借りした手袋、もらってもいいですか?」

 せめて、思い出だけは残したかったのです。

「ああ、いいよ。

 もともとあげるつもりだったから」

 目の前にはあの人の笑顔がありました。


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