夕暮れのノスタルジー
あれは中学二年生の夏休み前の日のこと、ひどく夏の匂いが残る帰り道であった出来事だ。
電信柱が並ぶ住宅街、オレはいつもと同じようにアイツと一緒に学校から帰っていた。
アイツというのはオレの町内にいた幼なじみで、地味だけどカワイイ女のコだった。
アイツはマンガとかアニメとか見るのが趣味で、そういうのに興味のないオレにこぞって話をしていた。
中でもアイツが凝っていたのは恋愛話、そこら辺に転がっていそうなモノが好きだった。
なんでも周りにそういう話を聞かせるヒトが居なくて、いつもオレにそれを聞かせていた。
あるときはなんとか城の第三皇女で平民の男と身分違いの恋に悩み、あるときはなんとか王国の戦場に立つ女騎士で敵対する反乱軍のリーダーと恋に落ち、そしてあるときは普通の中学校で過ごす女子生徒でその学校にやってきた転校生との恋に傷ついていく。
あたかもその話を自分がした恋のように話すのだから笑える。
でも、それはアイツにとって本気で憧れていた物語、刺激的な恋にあこがれる純朴な少女が夢見ていた話だった。
別に、オレはそういうのが嫌いなわけではない。ウンザリしていたわけでもない。
ただ「うんうん」と頷いて、アイツが語る恋愛話をただ耳にする。
それがたとえ、ガムシロップを入れすぎて飲めなくなったコーヒーに更にミルクを加えたとしても、オレはそれを無理に飲み込んで、愛想よく笑うぐらい甘いカオをしてやっていた。
でも、今思うと、けっこう失礼なことをしていた。
ちょっかいを入れて、相手を怒らしたくなかったし、友だち以下になりたくなかっただけだからな。
オレはそうやって相手の顔色をうかがう術を持ちあわしていて、アイツの目をいつも気にしていた。
アイツはそれを知っていたのかわからないが、オレの「うんうん」にしたがって、自分の恋愛話を早口で話していた。
できた話だと笑いしつつ、オレはヒマな帰り道をなくすために、アイツと一緒に帰っていた。
しかし、その日は違っていた。
アイツの歩みが少しばかり遅れていた。
オレは歩くのが早い方で、アイツから「あるくのはやい!」と注意されていた。
けれど、そのときはそんな声もなくて、オレの背中を追いかけるのがやっとという感じで歩いていた。
「なにかあったのか?」
オレはアイツにそう聞く。
「なにかイヤなことでもあったのか?」
人生相談なんてガラじゃない。
だけど、そのときばかりはアイツの力になりたいと献身的になった。
「いつもと同じ恋愛話していい?」
その日のアイツはおかしかった。
“いつもと同じ”なんて確認するはずがなかった。
オレの隣に来たら、いきなり「わたしがドアを開けると、彼は、こんにちはお嬢さん、と、言ったの」という唐突な切り出しから始まって、そこから途方のない話が続くのがアイツの恋愛話だった。
なのに、その時は、確認しやがった。
オレの中で胸騒ぎみたいなモノがぞわぞわと駆け巡ったが、その時のオレはアイツの気持ちを優先にした。
「いいよ」
オレがそういうと、アイツはうなずく。
アイツの視線はアスファルト舗装された道路に向けていた。
アイツは“いつもと同じ恋愛話”をする。
妙にいらついて、胸を揺さぶられる話をした。
「わたしはくつ箱の中に入った封の入った便せんを見つけた。その便せんを開くと、今日の昼休み、体育館の裏で待っています、という手紙だった。あまりにも古風でカッコの悪いラブレターに笑った。安っぽいキャラシールでわたしを喜ばそうとしていて、なんだか笑えた。でも、宛て先人が不明だったから、もしかすると、わたしが好きなヒトだったかもしれなかった」
オレは口をはさむ。
「そんなヤツいたのか?」
アイツは苦笑気味に返事する。
「わたしにもいるよ。そういうヒトぐらい」
「ふ~ん」
平然を装いながらも胸騒ぎしていた。
その胸騒ぎを止めたくて、アイツの恋愛話に横ヤリ入れるのをやめにした。
「それで昼休み、体育館の裏に行ったんだ。すると、そこには見たことのない男のコがいた。わたしの名前を呼んだから、多分、そのコがわたしのくつ箱にラブレターを入れたコだとわかった」
オレは「うんうん」とうなずいた。
「へえー」とか「おぅ?」とかいう返事が似合わない気がした。
「そのヒトはわたし達より一年先輩のヒトで奥手って感じのヒトだった。けっこう緊張していて、女のコと話したことのない感覚がした」
オレは「うんうん」とうなずいた。
「ハハハ」とか「どんまい」なんて言葉は我慢した。
「そのヒトはていねいにわたしが好きって告白した」
口を閉じた。
「ていねいにていねいにわたしを傷つけないように、自分の気持ちを伝えた」
オレはアイツの気持ちを聞きたかった。
でも、当時のオレはそれを聞き出す言葉を知らなかった。
「告白のメッセージが終わった後、そのヒトはまた謝って、とぼとぼと戻っていた。なんかどっと疲れた。こういうのって慣れてないからかな」
視線を下げるのをやめたアイツはオレに何かを求めるように言葉を途切らせた。
まるであれはオレの気持ちを探っていたようだった。
その気持ちに応えるように、オレはこう尋ねた。
「好きなヤツいるのか?」
「いる」
「じゃあ、そいつから告白しろよ」
「イヤだよ」
「どうしてイヤなんだ?」
「どう言えばいいかわからない」
「あのな」
「言うタイミング見失った。だから今更言っても今更感しかないよ」
今更感ってなんだろうか。
先生がよく長話をした後で「質問あるか?」という言葉があるよな。今更かよ! と思ったことがあるけど、告白に今更かよ! ってことはないと思う。
でも、それは自分の気持ちをよくわかっている方にとっては今更な感じがして、自分の気持ちをよくわかっていない片方にとっては今更感なんてない。
多分、今更感って、当事者にしかわからない感覚で、おそらくオレにはそういう感覚がわからないんだろう。
だから、オレはこう言っちゃったんだろうな。
「今更なんて関係ないって。だから言えよ」
こう言えば、片思いの気持ちが前に出ると思った。
でも、アイツはこう返した。
「……関係あるって」
その声はセミの声に覆い尽くされて消えていった。
そこからオレらは黙って帰っていた。
アイツの駆け足気味の恋愛話もなければ、アイツの話をうながす返事もなかった。
二人で帰っていたのに、それぞれひとりボッチで、厚いガラスでできた境界線がオレとアイツの間にあった。
夏の音がやけに耳障りに聞こえた。
アスファルトから陽炎が浮かんで、蒸し風呂みたいに蒸気を放つ。
上を見れば、夕焼け空で、紫に陰る雲が流れていた。
毒々しいあの雲空がなんだか腹立たしかった。
蒸し暑い夏の夕方、こみあげる怒りを感じながらもオレとアイツは歩き続ける。
スリスリ……スリスリ……
ふと、すりすりと稲穂がこすれ合うような音色が聞こえて、そちらに視線を向けた。
草が覆い茂るあぜ道、水田にある細い道があった。
そのあぜ道は小学校のグループ登校の時、けして通ってはいけない道だと年長のリーダーから口が酸っぱくなるぐらいに聞かされた。
おそらくあそこは私有地で入っちゃいけない場所だったんだろう。
当時の友だちからあそこで遊んだら本気で叱られたと涙目で話していた。
アイツとの話が途切れたオレはあのあぜ道に入りたかった。
あと、このまま歩けば、数分でオレ達が住んでいる町内へとたどりつく。
オレは時間が欲しかった。
「あっちに行こう」
アイツの返事は聞いていない。
聞いたとしてもオレ一人であぜ道に入り込んで迷子になりたかった。
あぜ道へと踏み込む。
グニュとベタベタしたぬかるみが靴底から伝わってなんか後悔した。
学生靴も汚れていて、家に帰ったら水洗いしないといけないなと苦笑いした。
オレの後にアイツも来ていた。
何が言いたそうだったが、オレの後についてくれた。
オレとアイツはあぜ道を行く。
いつもは風景でしかなかった田畑も、実際に歩くことで今までに味わったことのない感動に触れる。
こどもの頃、感じていた胸弾む冒険心がよみがえっていた。
一歩一歩、前に行く。
肌にまとわりつく熱気と、甘い草の匂いを感じながら、あぜ道を通って行く。
この道の向こうに何があるのか?
そんなことを思いながら前へと進む。
いや、ホントのところはアイツの気持ちを頭の中で整理しようと時間を稼いでいた。
オレは矢継ぎ早に何かを言っていた。
何を言っていたのかわからない。
おそらくロクでもないことだと思う。
話をすればするほど、アイツのカオは暗くなるのが実感できる。
現に、アイツは「そう」とぶっきらぼうに言い捨てて、会話が続かなかった。
……追い詰められた。
あの時、オレは袋小路にハマったネズミのように逃げられずにいた。
でも、そこでやっと気づいたことがあった。
――いつもと同じじゃなかった。
――作り話じゃなかった。
オレの中でやっと心に舵が取れた瞬間だった。
あとは、オレはどんな風に気持ちを言葉にすればいいか、考えればよかった。
しかし、それに気づくのはちょっと遅すぎた。
いつまでも続くと思ったあぜ道が田畑しか見えなくなった。
行き止まりだった。
稲穂はさらさらと横に揺れて、すりすりと音をさらす。
立ち止まったオレとアイツ、何を言えばいいかわからない。
ひょっとしたら、そこで今更感のあることを言えば、これで良かったのかもしれない。
だけど、何を言えばいいのか頭のなかでまとめられなかった。
夕暮れの夏空が狂おしいほどに暑かったからだ。
「帰ろうか」
アイツは清々しいカオで笑いかけた。
「畑のヒトにバレると後で怖いよ」
オレはアイツの言葉にうながされて、今まで歩いてきたあぜ道を戻ることを決めた。
「そうだな。帰ろうか」
どことなく他人事のように返す。
本当なら、ここで気の利いた一言ぐらい言ってやるのが正しいと思った。
見慣れた帰り道、オレとアイツは歩く。
いつもと同じペースで足並みは揃う。
変わらない変わらない。
オレ達はそうやって、何かを装って歩いていた。
アイツの家の前に着くと、アイツは振り向いた。
「ありがとう」
そして、家の中へと駆け足で入る。
オレはアイツがドアを閉じるまでアイツの後ろ姿を見守っていた。
視線が自由になると、電信柱の電線を見た。
直線的につながる線と線、オレンジ色と黒色のコントラストがまぶしく見える。
どこまでも続くその線を目で追いながら、オレは自分の家へと戻っていた。
次の日からオレはアイツと帰ることはなくなった。
昼休みも教室から抜けだすことも多くなった。
その頃からか、アイツはアカ抜け出して、化粧をしている女のコグループと話をするようになった。
アイツはジブンの恋愛話を女子にも話せる少女になっていた。
そして夏休みがやってきた。
夏休みが来たと思えば、すぐに終わった。
夏休みが終われば、二学期が始まった。
オレが教室に行くとアイツがいた。
化粧を覚えたアイツはゲラゲラと笑いながら、クラスの女子に恋愛話を語る。
作り話なのに鼻につく。夏の匂いよりも濃密な匂い。
恋愛話はモヤのかかった絵空事から妙に生々しく触感のある話へと変わっていた。
アイツは恋愛話を主張していた。
くちびるがぬめると口角を上げて、艶の話を聞かせていた。
クラスの女子は目を輝かせて、耳を傾ける。
「ホントに?」とか「それだけじゃないでしょう?」とか言って、話し手を煽る。
それを聞くとアイツは嬉しがって、脚色を付けて話を広げる。
アイツの話を聞くのがなんだかやりきれなくて、どんな音をも拾ってしまうこの耳を塞ぎたかった。
そこからもうアイツのことは憶えていない。
今、何をしているのか? どんなことをしているのか? 聞いていない。
できれば幸せになってほしいと思うが、アイツの話を笑顔で応えるオトコなんているはずがない。
いつもアイツの話を冗談半分で聞いていたオレでさえもウンザリという感情を覚えたからだ。
どうしてあぜ道なんて見つけたのだろう? 横道なんてそれてしまったのだろうか?
もし、あぜ道が短ければオレはアイツと友だちのままでいられて、もし、あぜ道が長ければオレはアイツと友だち以上の存在にいられたかもしれない。
だけど、あぜ道がちょうどいい距離にあったから、オレはもう二度と友だちにもなれなくなったのだ。
入道雲がドクドクと膨らみ、ドシャ降りの雨をもたらす。
アスファルトを黒く濡らして、激しく音を立てる。
不意に鼻によぎるその匂いこそ、夏の匂いだ。
その匂いは夏が来るかぎりやってくる。
忘れようとしても忘れられない。
夕暮れが闇にかかったあの日の記憶が心に息づく。
ヒドく気怠いノスタルジックな想い出がまだ脳裏にこびりついていた。