同僚『K』の部屋
「祈るっていう行為は一体何なんだろう。昔何かの本で『対象が何であれ、祈るというのは心地よい物だ』というフレーズを見た事がある。確かにその通りだよ。あの心地よさは何なんだろうか。どういう欲求に分類されるんだろうか。
猫や犬は祈ったりしない。生理的欲求は当然ある。安全を求める欲求もあるだろう。群れで行動する動物なら社会的な欲求もあるだろうね。でも祈ったりはしない。飼い猫は飼い主におねだりをしたりする。誰かに呼びかけはするんだよ。でも祈ったりはしないんだ」
社員寮の一室で同僚のKが熱弁をふるっている。四畳半の部屋二つをアコーディオンカーテンで仕切った貧乏くさい部屋だ。ふすま溝があるから元々はふすまが二部屋を仕切っていたのだろうが、おそらくは、若い連中が騒いでふすまを破いたり何なりする事が続いて、壊れない破れないこのアコーディオンカーテンに替えられたんだろう。一応仕切れるようにはなっているが、何となく『隠すのは男らしくない』という妙な空気があり、どちらが先に根負けするか、という意地の張り合いもあり、結局今まで一度も使われた事は無い。
「聞いてる?」
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」
「そうか。で人間のこの祈るってのは何処から来たか、なんだけど、何かを植えて安定した食料を手に入れ始めるより前、つまり食料を主に狩猟に頼っていた時代に生まれたんじゃないだろうかと思うんだ。狩に行く人間では無くて、集落で待つ人間から生まれた行動ではないか、と。そっちの方がしっくりくるような気がしないか。何か切迫した事情があって、それを解決するための行動を自分は取る事が出来ずにいる。その長時間何もせずにいる事に堪えかねて祈りが生まれたんじゃないかな」
話は当分終わりそうにない。出かける予定だったけど、その予定というのも切れた日常品を買い足しに行くという程度の事。わざわざ無理に話を切ると言うのも気が引ける。ふんふんと相槌を打ちながらぼんやりと部屋を見渡す。
以前見た映画の「三十秒フラットで高跳び出来る様に……」というセリフに影響されて、自分の部屋は出来るだけ綺麗に片付け、物も極限まで少なくしている。一方Kの部屋は不潔では無いのだが、至る所に物が散乱している……様に見える。しかしこれは位置を考えて飾ってあるのだそうだ。しかも様々な関連性があって、二個セットだったり、三個セットだったり、向きによって意味が違ったりと色々あるとか無いとか。
「原初の精神活動が始まり、それは次第に色々な方向へ広がって行ったんだ。自然科学の元の元みたいな物もあったんじゃないかな。その時代自然現象全てが理解不能な物だったが、彼らなりに道筋をたてて理解しようとし、そうする事で生き残りの確率を上げようとした。
拝んでみたり、踊ってみたりした。強力な動物を仕留めた時には、その角や革を祀ったかもしれない。あるいはその力にあやかろうと、例えば熊やイノシシやトラ、牡牛の様に強い動物の像を作って身近において安心したかもしれない。
やがて時を経て、今度は少し抽象的な物を擬人化した偶像が作られるわけだ。狩の女神様、豊穣の女神様なんかの壁画や像が見つかってる。この二つが一番最初に作られたんじゃないかな。でも変だと思わないか。豊穣の女神は『恵みをもたらす優しい何か』って事で理解出来るけど、危険な狩に行くのは男だろ? 狩の神が女って現実に即してない。そう。ここが重要なんだ。一つ目のポイントだ。つまり順序が逆なんじゃないかって事。この時代の像は狩の留守番をしていた人間の祈りから生まれた物じゃなくて、物好きの男が作った女性像なんじゃないかと思うんだ。画か像か、何でも良いから彼は女の子を作り出したかった。どうせなら可愛いほうがいい。だから村で一番美しい娘をモデルにして、それこそ執念じみた情熱で、描いたり、こねたりして女の子の像を作ったんだ。技術的な限界はあるだろうけど、出来うる限りに整えられた顔と肢体。腕、脚。仏像何かを良く見に行くんだけど、像のどこに力が入っている様に見えるかと言えば、やっぱり顔と手なんだよ。慈しむ様な表情と、柔らかで美しい手なんだ。その女の子の像も綺麗な手をしていただろうね」
随分憶測の多い話をさも見て来たかのように語っている。
Kは会社では無口な男だ。しかし世の中に嫌気がさしてという風では無く、単に無駄口を叩かないだけで、会話をする事を苦にしているわけでも無い。仕事ぶりもすこぶる丁寧だ。そういう信頼出来る人間と分かるまで少し時間がかかり、最近になってようやく打ち解けて話をするようになってきた。
それで少し油断してしまったのだ。あまり人の事をとやかく言わないつもりだったが、こちらの部屋の方へ私物が一つ転がって来たものだから、それを渡しながらつい『少し片づけた方が』と言ってしまった。それをきっかけにこの御高説が始まったのだった。
「なにせ全身全霊を込めた像だ。下手をするとモデルの女の子以上に愛しい存在だったかもしれない。その手には最高のアイテムを持たせて飾り付けたいと思った事だろう。その集落あるいは文化圏で最も重要な植物、例えば稲とかね、あるいは自分の作り出したその女の子の空気・色彩にぴったりの果実なんかを持たせた。あるいは狩の道具を持たせて活動的でしなやかな感じにしたかもしれない。こうして眺めているだけでうっとりするような女性像が生まれた。女神の誕生だ。穀物の穂や果実を握らせた豊穣の女神と、弓を握らせ髪を棚引かせる狩の女神だ」
どうだ、とKが両腕を広げる。
「あぁ。まぁ。そうだったかも知れんな」そうで無かったかも知れんがな。
「時代が進み集落同士がくっつき、やがて民族間での戦いが始まる。すると今度はまた別の物が求められるようになる。敵方を打ち倒す別の概念、力と知恵だ。その頃にはその美術性や神性がみとめられ、ちゃんとした彫刻師なんかが出てきて、男神も作られている。力をつかさどる神なら手には武具が握られ、厳めしい顔でもって力強さを表した。知恵の神なら本や巻物、あるいは杖なんかもあるかな。老人イコール知恵と言う意味でそんな物を待たせたんだ」
「なるほど」
「さらに時代は進み、色々な物をつかさどる様々な神様が作られる。多神教だけの話じゃないよ。一神教だって、大ボスが上に居るっていうだけで、様々な事を司る天使が沢山いる」
「……へえ」
「そしてどんどん多くの事を神様に求める様になり、ついには多くの腕を持つ神様が生まれたんだよ。千手観音様なんてその最たるものだろうね」
Kがさっき手渡したものをグイッと突き出した。
「どうだい? これを見てどう思う。この娘もいろいろ揉めに揉めて、結局たくさんの手で皆の望みの物を持たせようって事でこういう姿になったんだ。素晴らしいと思わないか!」
まさか思わないとは言わないだろ、という言い方で癪に障る。障るが、その勢いに少し気圧された。相槌を打ってKを宥めれば話は終わる。しかしこのまま好きなようにしゃべらせて終わるのはちょっと悔しい。
と、その時閃いた。
「つまり……元から神様を作ったわけじゃなくて、アイドル(若い人気者)がアイドル(神)化した訳か。その『たこルカ』誕生の経緯からして人間は何にも進歩してないな。なぁ?」
上手い事言ってやった。
……つもりだった。Kは一瞬眉を上げ驚き喜んだように見えたが、その表情はすぐ消え、微笑みと真顔の中間で固まった。
答えがまずかったかなと思いきやそうでもないらしい。不味いどころか良すぎたんだ。『アイドルがアイドル化した、は俺が俺が思いくべきだったのに』と嘆いているのが見え見えだ。見え見え過ぎて眼が痛い。ただの駄洒落だが、彼にはツボだったのだ。
さあ困ったぞ。穏便に済ませるつもりで長々話を聞いていたのに、結局面倒な事になった。Kの表情は次第にしょぼくれていき、悲壮感すら漂い始めている。そこまで面倒見切れるかと思いつつも、つい助け船を出したくなった。
そう、また油断してしまったのだ。気分を変えさせようと人形を一つ取り、
「ピンクのたこ娘も居れば、ブルーのイカ娘もいるのか」
と言った。言ってしまった。
その瞬間、Kの瞳がふわっと開いたように見えた。勿論臨終じゃない。Kの頭の中で何かがぐるぐるとまわり、今の失態を誤魔化せる、失地挽回のための話を思い付いたのだ。
一つ咳払いをしてから彼は、ぎこちなく、わざとらしく、仕方ないなぁというふうに頭を振り、にこやかに語り始めた。
「これはただのイカではないんだ。クトゥルフ神話って知ってるかな。その昔、まだ地球がドロドロした火の玉だった頃……」
おいおいおい。今度は石器時代どころじゃない、凄い所から話が始まったぞ。一体いつまで話が続くんだ――
鷹揚に相槌を打ちながら、Kの部屋に所狭しに並べられたフィギュアの中に、身代わり人形でも無いかと探していく。
いや、もしかしたら自分がそうなのか。入寮時、こいつの隣の部屋だけ空いていたってのは、結局そういう事だったのかもしれないな。