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キミネコ

作者: 林 りょう




 最近買い換えたばかりのお気に入りな傘が重いと感じるほど、雨が容赦なく空から全てを叩く最悪な天気の日。私はさらにどん底な気分に陥っていた。


「別れよう」


 たった一言が、仕事で大目玉をくらった時よりも唇を噛ませ、首から頭を支える力を奪う。

 今この瞬間で、どれだけの人間が経験している状況か分からないが、それだけありふれた出来事を易々と受け入れられるほど、築いた関係は軽くなかったはず。それでも彼はそう言って、返事も聞かずに去っていく。

 まるで逃げるようなその態度は、後ろめたさがあるからだと理解している。これまで見て見ぬふりをしていた私もまた、同じくその背中に声をかけ、足を止めさせることが出来なかった。

 マンションの目の前、電柱の横で、振られた女が立ちつくす姿は、いっそびしょ濡れでいたほうが絵になれただろう。足元ではコンクリートの上をたくさんの雨粒が躍っていて、その中にどんなものが混ざろうときっと誰にも分からない。空気中のごみや埃、酸素だって閉じ込めてしまいそうな大粒なのだから、そこに涙が加わったところで雨雲も機嫌を損ねることはないはずだ。


「振ってやればよかった」


 こんなことになるなら。ううん――心が離れていたことに気付いたその場で、私からさっきの言葉を口にすべきだった。

 終わってしまった関係を酒の肴にすれば、友達のほとんどは最低な男だと言って、別れてよかったと慰めてくれるはず。

 でも。それでも――


「悔しいなぁ」


 付き合わなければ良かったと思えないのが悔しい。惨めだ。


「――だったらさ」


 そんな時だった。

 激しい雨音にも負けず、そのくせとても静かに聞こえた声があった。

 誘われるようにいささか崩れた顔を上げ、少し距離の開いた場所にある隣に続く電柱の影を見る。そこにあった黒い塊に気付く。


「拾ってみない?」


 自然と首を傾げてしまうと、それもまた同じ動作をしていた。加えてさらに意味の分からないことを言う。

 どんよりとした一本道に何の気配もなかったせいで、はじめ人だと思えなかった。全身黒尽くめなその物体は、見つめる先で立ち上がると、びっしょりと濡れきった姿で傘に守られた私の前に立つ。

 日本人でも中々持てない黒にはなぜか金色が走っており、惹きこまれる綺麗な瞳をしている。服に隠れた身体も歩く動作もまるでしなやか。好奇心に溢れ、でもどこか他を寄せつけない猫のような男――


「俺も悔しいんだ」


 雨の降り方は激しさを増す一方だ。

 なのに周囲の音がどこかに散歩してしまって、男の穏やかな声がはっきりと届いてくる。

 頭一つ分上にある顔の、吸い込まれる瞳を見つめていれば、反応のない私に臆すことなく言葉が続く。


「だから一緒に、幸せになってみない?」


 あまりに現実離れした今の状況で、無意識に頷いてしまったのも無理からぬことだと思う。

 考えなしに答えてしまった。


「うん、拾う」


 助けてと、か細い猫の鳴き声が聞こえた。





 □□□




 猫を拾いました。黒い艶やかな毛をした金色の瞳の子猫。

 彼氏に振られたその場で、私より打ちひしがれた様子で雨に苛められていた可哀想なその子を放っておくことは、ただでさえ惨めだった私にはできなかった。

 幸いなことに住んでいるマンションは、いつか飼うことを見越してペット可の物件であり困ることもない。名前を決めれば、それで私たちは家族だ。


「顔つきからしてオスだねぇ。手がおっきいから立派になりそうだ」

「……話が違う」


 びっしょりだった身体はあったまり、頼りなく震えていただけから、今は腹が減ったと鳴いている。

 そんな子猫を手に鼻をくっつけていた私の隣では、ふてくされた顔で頭を拭く野郎が一人。同じく濡れねずみだった、猫に便乗した正体不明のアホである。


「あげてやっただけでもありがたく思いなさい」

「それも猫のついでって……。普通、人を優先するだろ」

「普通の女は、安易に見知らぬ男を家にあげたりしません。子供ならまだしも、良い大人がびしょ濡れになって拾ってくれって。警察呼ばれても文句は言えないっての」


 不服な視線をこちらに向けられるが、それを足蹴に子猫のための餌の用意を始める。

 そんな私へ「だったらそんな奴を置いて家を空けるなよ」と、手を突っ込んでいるビニール袋を示した。

 雨の中、歩み寄ってきながらこいつが意味の分からないことを言ってきた時、私は把握出来ない状況ながら足元で身を丸くする物体に気付いた。それが今、男の手の中にいる生後半年にも満たない子猫だ。

 だから、あくまであの答えはこの子に対するものであり、けして男に向けてのものではない。そもそも、あの言葉も猫についてのものだと思ったぐらいだ。だって普通の人は自分を拾ってくれなんて言わない。

 それが外れていたのに気付いたのは、喜びに顔を綻ばせた男を無視して猫を抱き上げた時だった。「え、そっち!?」と、それはもう拍子抜けした様子で、猫の存在にすら気付いていなかったらしい。

 逆にこっちがびっくりした。放置するのもやぶさかではなかったが、すごく悲しそうな顔をされた上、他人でも心配してしまうほどびしょ濡れだったのは確か。

 私はしばらく悩んだあとで、猫を入れてくれるなら風呂を貸してあげると言ってやった。


「バスルームに続く扉を針金で固定しといたから問題ない」

「すげーな、あんた」


 だから、テーブルの上でオブジェになりそうな形で置かれている物体を示され、あんぐりと口を開けている男を拾ったのは不可抗力だ。気分はまるで、道端で会った猫に道を外され、学校に遅れてしまった小学生である。

 しかしまあ、こんなこともなければ、枕もとの木刀が活躍する日はないのかもしれない。

 大きくはないキッチンで買ってきたフードをふやかす間、男は子猫を膝に置き元彼氏の部屋着に身を包んで、物珍しそうに人の部屋を観察していた。それを私が作業の片手間で監視する。年下だろうか、どこか幼い。

 それにしても、一人と一匹というより二匹と言うのがしっくりくる。しかも色味も似てるから兄弟みたい。

 本物はともかくとして、もう一匹はなんでまた電柱の影で濡れそぼっていたのか。まあ私も、傘がなければ同じようになっていただろうけれど。猫たちと出会わなければ、家がすぐ近くであっても動く気力はしばらく湧かなかったはずだ。


「でっかい方も、お腹が空いてるなら冷蔵庫の中のもの好きに食べな」

「いいの?」

「いまさら一匹も二匹も変わらないし」

「やっぱ猫扱いかよ!」


 なにやら納得いかないらしいが、無視して子猫を奪い餌を与える。

 ふやかしたご飯をペチャペチャと、衰弱していないか不安だったがそう長く雨に打たれていたわけではないようだ。ホッとした。


「なんか手馴れてんのな」

「まあね」


 大きい方の相手をしながらも、目は手元に集中させている。

 しばらくは指にのせていた餌を舐めてくれていた子猫だけれど、もういらないとばかりに顔を背けてしまった。満腹だと言うには残念ながらまだ、つかんだお腹が膨らんでいない。

 なので口を無理やりあけさせていれば、ギョッとしたように男が手を掴んできた。


「なに?」

「え、なにって。そんなの可哀想だろ」

「だってまだ食べてない。今のままじゃ、落ちた体力回復しないし。飼うからには死なせるつもりがないんだけど」


 邪魔な腕を振り払い、上顎に餌をこすりつける。そうするとあむあむ食べるので、また鼻先に持っていく。そうやって最低限の量をやり終える頃には、いつの間にか男はキッチンでなにやら料理を始めていた。


「あんたも食べるだろ?」

「……私、料理しろとまで言ってないけど」

「インスタントは嫌いなんだよ。けっこう普通に腹減ってるし、時間的にも丁度いいだろ」


 うながされるまま壁掛けの時計を見れば、長針は7を過ぎた所にある。

 部屋はすぐに良い匂いで満たされ、完成した食事は普段から料理をしていなければ出せない美味しさだった。

 タオルで作った簡易ベッドで全身で寝息をたてる子猫を見ながら口に運ぶと、なんだか内側へ温かさが広がる。


「ありがとな」

「お礼ならあの子に言って。あんただけならきっと放置してた」

「いや、それもあるけど。俺が拾っても、たぶん死なせてた」

「んなの当たり前。自分もままならないような奴がそんなことしたって、結果は見えてるでしょ」


 食事が終わる頃にそんなことを言われたけれど、辛辣に返せば苦笑していた。

 「そうだな」と、なんだか別の意味で痛い所を突いてしまったらしい。

 そしてそれは、自分に対して当てはまるものでもある。


「食べたら帰りなよ」

「…………あー、その。帰る場所が、ない」


 さらには、いい加減察しのついていた答えももらえ、私はさっき自分が感じていた惨めさよりもさらなるものを感じているであろう大きな猫に、追い討ちをかけるがごとく盛大な溜息を吐いてしまうのだった。




 □□□




「いってきます」

「いってらっしゃい」


 朝、仕事に出かける私へそんな言葉と鳴き声が送られるようになって二週間が経過した。

 あの日から、拾った二匹はかかさず見送り、夜になれば出迎えてくれる。どっちもだいぶ元気となって、毎日にぎやかな日々だ。

 男の素性は未だに知らない。だから名前は適当にクロと呼んでいる。子猫の方にしっかりとしたものを付け自分は安直だと抗議されたが、飼い主に逆らうなと笑ってやった。

 私の職業が動物看護士で、病院に勤めていると知ってから、クロは興味深そうにその日の仕事を聞いてくる。

 そして、こっちが傲慢な飼い主の相手に辟易している間、あいつは家事を一手に引き受ける形で居ついたというわけだ。結局私は二匹の猫を飼っていることになる。

 おかげで失恋に凹む暇なんてありゃしない。さすがに最初の一夜は警戒していたけれど、二日目以降は逆にそれが馬鹿らしくなるほど、クロは恩を仇で返すような真似をみせなかった。

 だから付け入る隙を与えてしまったのだろう。お金はあるのか食費は全て持ってくれているから困らないが、身を持って猫は家につくことを実感することになろうとは。

 おかげで職場でも、猫を見て溜息を吐くようになってしまった。


「どうしたの?」

「いえ、本物は可愛いのになぁって思ってしまって」


 その有様に今年からの新米な先生に気遣われ、意味が分からないと首を傾げられてしまう。慌てて取り繕えば、優しく流してくれた。


「でも、あれだね。何か良いことでもあった?」

「むしろ悪いことばっかりですよ」

「そう? しばらく元気なかったみたいだったのに、最近じゃ朝とか別人みたいだけど」


 あげくの果てにはそんなことまで言われ、おもわず血液検査のためのヘマトクリット管を一本だめにしてしまった。


「あぁ!」

「あっはは、動揺してる。めずらしー」


 隣で笑う先生をキッと睨みつけると、彼は怖い怖いと呟きながら退散していく。

 勝気な性格をしている私は、手の掛かる患畜にも怯まず扱いが上手いからと重宝され、先生方によくかまわれる。そのくせ、猫可愛がりする飼い主からは嫌われやすい。

 やれ保定を動物虐待だの、やれ自分の子を悪く言うなだの。そんなつもりは毛頭ないばかりか、躾の行き届いていない子に暴れられ引いてしまえば怪我をするのはこちらだし、自分の子供をぶくぶく太らせて殺したいのなら何も言ったりしない。今までいくつかの動物病院で勤務してきたけれど、辞めた理由のほとんどが自分勝手な苦情に院長が押し負けてしまったからだ。

 とはいっても、それを責める気は今でもない。医者といえど動物病院は、人間相手と比べればサービス業色が強い。だから、自覚しながらそれでも直せない私が悪い。

 そうしてリタイアを考えていたところで拾ってくれたのがここの院長で、それは短所ではなく長所だから直さなくて良いと言ってくれた数奇なお方でもある。

 ただ、だいぶお年を召していらっしゃるその人の下に集まるタイプもまた、中々に癖がある人ばかりなことだけが困りもの。まったくもって遠慮がない。


「そういえば、同棲始めたのね」

「…………は?」


 とんでもない問題発言をしてくださったのは、高齢の猫のために以前から通院している年配の女性だった。

 しかもその子の担当で診察中だった院長先生の前でだ。手を止めニヤニヤと、向けられる視線がつらい。


「いやね、散歩とあなたがお家を出る時間とが丁度かぶるのだけど。そのたびにちらりと男性が見えるのよ」

「あ、ああ……。そういえばお住いが近くでしたね」


 額に手を当てて、思わず天井を仰ぎたくなるのをこらえながら、ひきつった笑みを返すのが精一杯だ。普段は暴れ回るくせして、なんで今日に限って彼女の猫もまた大人しくしているのか。

 うろたえている間で、話はなおも広がっていく。

 しかも、診察室は扉で分けられているが、後ろはすべて繋がっている構造なせいで、他の先生や同僚も興味津々、近くに集まっているじゃないか。今日は比較的ひまだからって、仕事しろよと叫びたい。


「ほら前、お付き合いしてるって言ってたじゃない? だからもうそろそろなのかしらって」


 言ったのではなく言わされたのだし、もうそろそろって一体何がだ。おっとりしていると見せかけて押しの強すぎるこの女性と、平気でお茶できるのは院長ぐらいだろう。

 これだから年寄りの相手は苦手だ。平気で人を丸裸にして、それを笑って済ましてしまうのだから。

 意固地になっても相手を楽しませるだけだと今までで散々知っているので、私は早々に白旗を挙げた。


「残念ながら、仰っている方とは少し前にお別れしました」

「あら、そうだったの? お似合いに見えたのにねぇ。なぜか聞いてもいいかしら?」

「浮気されてしまって」

「あぁ……、だからしばらく意気消沈していたのか」


 なけなしの抵抗で振られたことだけは言わず告白すれば、そんな男とは縁を切って正解だと、さっきのお似合い発言はどこへやら。

 とりあえず院長、あなたは黙っていて下さい。


「でも、すぐに良い人を見つけるのはさすがね」

「せっかくのチャンスをつかめなかった男が、いったいどれだけ転がっているのやら」


 なぜだか軽やかな笑い声を響かせる人生の先輩方で挟まれた私にできるのは、持病を持ちながらもまだまだ元気な猫に対して、君をつかむ腕を目一杯かんでひっかいてやれと念じるぐらいだった。

 けれど――

 疲れはするも心地よくもあるそんな環境で、普段と同じく一日を過ごして帰宅した日。二匹の猫は唐突に姿を消した。

 残されたのは、猫じゃらしや封の開いたキャットフード。そして、しっかりラップして置いてあった一日分の晩御飯だけ。


「……おいしくない」


 正体不明の男を囲っていられるほど豪華な生活を送れているわけではないし、世話する相手が消えれば今までの私なら清々して良いはずなのに。真っ暗な部屋へ帰宅し、温め直す気も起きずに口へ運んだ食事は、一人で片付けるにはあまりにも冷たすぎた。

 大きな野良猫のクロが居た痕跡は、皿を洗えば綺麗さっぱりなくなる。何一つ、残ったものはなかった。




 □□□



 自分だけでなく、家族になるはずだった子猫まで連れてクロが消えたその日から、彼氏に振られて以降送るはずだった生活が訪れた。

 少なからず子猫まで居なくなったことは堪えたのだろう。それを職場では勘違いされたのか、しばらく続いていたからかいがパタリと止み、新米の先生が構ってくれることも増えた。

 おかげで気晴らしには困らない。誘われるまま呑みに行き、たまに院長やそのお茶のみ友だちの方々と世間話に花を咲かせている。

 そんな甘やかしてくれる毎日の中、クロの正体が分かったのは偶然で、それは予想し得ないところから知ることとなった。


「あぁ、またやってる」

「ワイドショーもよく飽きないよねぇ」


 仕事の休憩時間、普段ならば時間外に訪れる飼い主の対応や、取り置きの薬や餌やらを渡したりで、嫌がらせかと思うぐらい他とずれるのだけれど、珍しくそんなこともなくテレビに目をやったときだった。

 家にもあるにはあるが、私はDVD以外で番組どころかニュースすら見ることがまずない。本屋でも雑誌のコーナーに立ち寄ることはなく、だから当然、人気のアーティストだなんだの情報には疎くなり、よく枯れていると言われたりするのだが。それはまあ置いといて。だから気付くまでこんなにも時間が掛かってしまったのだろう。

 地上デジタル放送がもはや当たり前となった状態で、化粧をしなくとも肌理細やかだった恨めしい顔を鮮明に映し、クロは画面の先でフラッシュにたかれながらきりっとした笑顔を振り撒いていた。


「え……」


 放り込もうとしていたから揚げを思わず落とし、間抜けな顔を晒してしまう。

 「どうしたの?」とその場の全員に聞かれるが、まばたきするので精一杯。それでもどうにか画面を指差し、恐る恐る尋ねた。


「この人って……」

「知らない? 去年ぐらいから人気の出始めた俳優だけど」

「は、い……ゆう?」

「そう。そういうの相変わらず疎いみたいだけど、あれ? 映画好きだって言ってなかったっけ」

「洋画派……だか、ら」


 クロは何かの話題で詰め寄られているらしいが、音声まで受け入れる余裕がなかった。同僚の理知的だとか、頼りがいがありそうだとか、笑い方がクールだとかの評価を否定することもできない。

 なんだあれ、なんだあの笑顔! いっそ清々しいほどに別人じゃないか!

 しかし、驚きはまだ続く。映像がしまいにはこの俳優さんが飼っているという猫に切り替わり、割り箸がボキリと折れた。


『彼女から預かっているんです』


 視線の先では頬を染める笑顔でどよめきが起こっていたが、ちょっとまて。突っ込みどころが多すぎる。

 誰が彼女だ、預けただ。しいて言うなら私は飼い主で、しかもその子は攫っていっただけだろう。


「あぁでも、元気そうで良かった」

「え?」

「いや、何も」


 間違ってもらっちゃ困るのは、それが子猫への言葉ということだ。クロに向けてでは断じてない。

 ていうかそもそも、なんでそんな売れっ子俳優が家の近くで捨てられてたんだ。もうわけが分からない。

 けれどそんな混乱も、隣でサラダを突つく後輩の子によってささいなものとなる。


「でも凄いですよねー。噂が立たない内から恋人居るって宣言して」

「たしかに。しかも相手は一般人。誠実だって逆にファンが増えたらしいよ」


 子猫と関係のある人物がクロの言う彼女なら、それは私しかいないけれど、こっちはそんなつもりが毛頭なかったわけで。納得できやしないが、意味不明で自由気侭な行動はそれはもうクロである。クロでしかない。

 あいつは私が帰宅したからといってご機嫌取りするでもなく、本体そのものがなかったはずのゲームに熱中していたり、かといえばしつこいほど私に話を振ってきたり。猫そのものだった。というか、子猫のほうが手の掛からない良い子だった。

 思わず頭を抱えてしまった私の前では、先生が何か言いたそうにこちらを見ていたけれど……。頼むからみなまで言うな。あぁ違う、何も言わないで。


「院長~」


 この時ばかりはさすがに、酸いも甘いもかみ分けたお方に泣きつかずにはいられなかった。

 そして本当に困っている人を、この先生は深く詮索したりしない。

 ニコニコ笑ってごちそうしてくれた紅茶は、とても優しい味をしていた。




 □□□



 それから三日。いくら悩んでも、敵はこちらの理解が及ばない頭をしているのだとふっきれ、私はとにかく何もないことを祈りながら朝日を浴びて眠りに就き続けた。

 そうして休日を迎えたわけだけれど、天気の良い洗濯日和で感じた爽快な気分は、たった一回のチャイムで修復不可能なまでに壊される。


「インターフォンで確認しなって何度も言ったはずだけど」

「………………間に合ってます」

「ちょ! ちょっと待て!」


 何も考えずに開けた扉の先で段ボール一箱を抱え、誘拐犯が出頭してきた。

 相変わらずの綺麗な瞳に、頼りなさそうなふやけた笑顔。しなやかな()は、素晴らしい反射神経で扉との間に立ち塞がった。


「この、小癪な!」

「いたい、いたいです。情状酌量の余地を下さい」


 クールからかけ離れた掛け合いは、何度も繰り返し一人と二匹で笑い転げたこれまでと全然変わらない。

 油断して手の力が緩んでしまい、それを相手は見逃さなかった。犬よりも猫の方がハンターなのだ。同じ愛玩動物でも、雑食と完全なる肉食ではその生体が全然異なる。


「勝手に居なくなってごめん。ちびも、俺にくっついて離れなくて、めちゃくちゃ鳴かれて、おいてけなかった」


 下がっていた視線の先ではふわふわで染めていない青黒い髪が揺れ、クロの弱々しい声がする。


「別に。子猫が元気ならそれで良い」

「心配してくれなかった?」

「そりゃあ元野良猫は、寿命が近くなると姿を消したりするから、それを危惧しなかったわけじゃないけど……」

「やっぱりどこまでいっても猫扱いか」


 だって、クロはクロ。正体不明で意味不明で、自由気侭で昼寝好き。まるっきり猫だ。私はそれしか知らない。

 クロだって、家の中での私しか知らないでしょう?


「まあ良いや。でさ」

「断る」

「え?」

「間に合ってます」

「えー!?」


 だがしかし、これ以上お前のペースに嵌ってたまるか。何かを飼う責任として、上下関係はしっかりさせるべきだった。教育は大事だ。

 けれど、再び扉を使っての攻防を始めようとした私にクロが荷物を押し付けた時の力は、それすら合わせてくれていただけなのだと否応なく教えてくる。それだけ強引だった。


「分かった。じゃあ五分だけ待って」


 そして、それだけ告げると、おもむろに二階のこの場から階段を駆け下りていって、一度消えた姿は少し先に見えるこの辺りでは十分に豪邸な家の前で止まる。

 何をしようとしているのかまったく分からず首を傾げたけれど、そこがどなたのお宅なのか気付いてしまい、手は口を押さえることに必死となった。段ボールが豪快に落ちる。


「きぁ――」


 待ってと叫ぶどころか悲鳴が出そうになってしまったのだ。だってそこは、病院で顔見知りなあの通院猫の飼い主宅だったのだから。

 そんな私の恐怖はおかまいなしに、クロは家主へなにやら必死に頭を下げると、どうやら庭の方へと案内してもらっていた。

 嫌な予感しかしない。あそこの庭には小さいながら池があるのが外からでも見える。そして気まぐれなイメージの強い猫だけれど、オスは結構お馬鹿な子も多い。

 いやまさか、そこまで似るわけが……。いや、クロならあり得る。そもそもが赤の他人に拾ってくれと言うような奴だ。売れっ子俳優のくせに。私の反応から全く知らないことは分かっていただろうけれど、だとしても自覚がなさすぎる。

 んでもって、立ちつくす以外に何も出来ない私の視線の先では、見覚えのある女性が楽しそうに手を振ってきていた。

 駄目だ、絶望的だ。今日中に院長の耳にも入るだろう。そして、そんな面白い奴はぜひ会わせろと言ってくるはずだ。


「夜逃げ。そうだ、それしかない」


 もはや打ちひしがれた私の前にクロが戻ってきた時には、彼は案の定ばかげたことをしでかしていた。

 あの日のようにこっちは傘をさしていなくて、背中では雲一つない青天が広がっていたけれど、声を掛けてきた時と同じくびしょ濡れで。池に落ちてきたのは明らかだった。


「今度こそ拾って欲しい」


 そして、あの日とは違って満面の笑みで言う。

 何がクロをそうさせるのか分からないし、私の中でこれといって感情が芽生えたわけではない。

 それでもこいつが居場所を見つけてしまったことは間違いないらしい。それが我が家だということも。


「今度はついでにさせられるような邪魔者はいないよ?」


 なんでこうも自信満々でいられるのだろうか。

 そんな意味が込められた溜息に気付いたのか、クロがさらに表情を深くする。


「だって、見捨てたりしないって知ってるから」


 過大評価だと追い返せればどれだけ良いか。あいにくと職業柄、見捨てるのは苦手だ。大好きな猫ならなおさら。


「にゃー」


 あと一押しだとばかりに可愛げなく鳴いた頭を全力で引っぱたき、腕を掴む。その後ろでは出歯亀が携帯を構えていたようで、散々な休日だ。というかスマートフォンかよ。

 クロは足元に置いていたらしい子猫のキャリーを慌てて掴み、再び濡れねずみとして我が家に足を踏みいれた。

 今度は可愛らしく響いた子猫の声が、私の代わりにおかえりと言ってくれている気がする。そうだね、お前には言わないと。


「おかえり」

「ただいま。これからは、オス猫としてよろしく」


 はいはい、分かってます。私も猫ならオスが好きですよ。どこか抜けていて、甘えたで、憎めない子は撫でまわしたい。

 けれどクロは忘れてる。私は動物の看護士で、知識があって、扱いにも慣れているのだから。

 バスルームに放り込みながら、一番うろたえると思っていたであろう言葉に堂々と返した時のまぬけ面は見物だった。


「それならよかった。オス猫は一人で勝手に発情しないから」

「は!?」


 さあ――どう教育してやろうか。

 まずはそうだな、飼い主への礼儀ってものが必要だろう。


 そうして、新しく騒がしい日々が始まる。

 しかし、休日明けにさっそく広まっていた情報で頭を悩ませる私へ新米先生が言った言葉だけは、意味が分からず首を傾げてしまった。


「猫はメスの様子を窺って隙をつくから気をつけて」


 そのあと先生は、院長に叩かれていたが……。はて?

 そのことを話せば、クロはどうしてか病院に来ると言ってきかなかった。





 お粗末さまでした。

 にゃれにゃれ(やれやれ)、まったく。

 子猫の感想としてはこんなもんでしょうか。



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