ポップメロンはソーダ味
一
世の中には不思議なことがいっぱいある。運命のこととか、死んだらどうなるかとか、自分のまだ新しい過去や近しい未来のことすらも、難しくて考えたってよく分からない。こんな複雑な世の中、明白なことなんてもう殆どないのかもしれないけれど。
「色瀬さん、この資料コピーとっておいて。それと、例の印刷会社から電話来たら内線三番に繋いどいてね」
私は上司に「はーい」と返事をして、再度顔を下ろし、横並び、量産されたパソコンの画面に目を向ける。どこの誰かも知らない、これからも知ることのないであろう顧客たちの名前が犇めいている。私は何の変哲もなく、どこにでもいるような人たちの中、そこそこの大きさの会社で、面白味もない事務仕事を業務としていた。今の仕事内容は本社のデータの顧客名簿に漏れがないか、うちの会社に保存されている紙の資料と延々にらめっこするという、とにかく根気のいる作業だ。ただただ目が疲れる。次第に顧客の名前たちがゲシュタルト崩壊を起こしだす。どうでもいいデータに目が疲れて、頭は頭で関係のないことを考えだし始める。私はなんでこんなことをしているんだろう。もう二十四歳。憧れていた夢はいつしか蜃気楼のように霞み、見えなくなった。これが天職だと思うことはないにしろ、目立つ問題はないし、凡庸な私にはこういう事務仕事が向いているとは言えるのかもしれないが、これが私に課されてきた運命なのかと思うと、やっぱり心持ち少し肩を落としてしまう自分がいるのだった。この先、何か特別なことが突然起こるはずもないし、大きな損も得もない。しかし、今だって他人との差が全くなく万人に埋没しきっている気もなければ、これから全く同じ生活がずうっと続くこともまたありえない、という観測が辛うじて私を繋ぎとめているのかもしれない。結局何のかんの言ったところで終わりになってみないと何一つ分からず、終わってしまえばもう何もないのだろう。どこまでも私はちっぽけで、社会の渦に飲み込まれる、塵のような存在でしかない。
夢から私を醒ますように、パソコンの隣の電話が鳴った。
「はい、こちら伊藤商事です。はい。はい。では、係りの者に繋ぎますので少々お待ちください」
内線三番。
家に帰ると彼がいた。
ベッド横のカーペットに寝っ転がって、雑誌を広げている。彼はスーツの上着を脱ぐ私には見向きもせず、口を開いた。
「おかえり」
「ただいま」
「疲れた?」
「うん、少し」
「お疲れさま」
「うん」
時々思い返したように、私はなんでこんなことになっているんだろうと、私の選んだ道は本当に正しかったのか不安に思う夜があった。それはスーパーで並んだ真っ赤な林檎の一つをおいしそうだと思ってカゴに入れた後、ふと我に返るとそれが他のと果たして違うのか分からなくなる感覚に似ている。けれどもこんな瞬間に私は、彼の「おかえり」にどこかしら救われてる節があるのかもしれないと思い直すのであった。そんなに取り立てるほど気持ちがこもっているとは、お世辞にも言えない調子だけれど。
「何読んでるの」と私が訊くと、彼は「ん」と言って私に見えるように、雑誌を頭の後ろに掲げた。その表紙には「宇宙の神秘――ビッグバンから始まる奇跡の星」という見出しが、色鮮やかな惑星の写真を背景に浮かんでいた。
「え、おもしろいのそれ」
彼は私が帰宅してからようやく初めて顔をこちらに軽く向けて、目を合わせ、にこりと微笑んだ。
「よく分かんない」
そうだろう。彼も私と同じ生粋の文系である。
「でも、宇宙の神秘には希望があるかもしれないなあと思って」
「どういうこと?」
私は堅苦しいスーツを脱いで部屋着に着替え、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注いだ。
「いやあ、なんかさ、まあ僕がよく分かってないってことが大きいとは思うんだけど、なんたって宇宙って僕らにとって異界だからさ。僕らの想像しえない原理が働いてるかもしれないからね」
「例えばどんな?」
麦茶を喉に流し込むと、思った以上に疲れていたのか、ごくりと大きな音が鳴った。
「例えば、ねえ。……うん、例えば、僕らには雨は途切れることなく降ってるように見えるけど、実際はその一粒一粒のまわりを純白の羽とピンクの衣を纏った天使が軽やかにダンスしてるとか、ね。宇宙の常識だと案外そうなのかもしれない」
「官能的な図だね」
「うん、それは綺麗だよ。でも同時に数が多すぎてグロテスクでもある」
「本当にそんなことあると思ってる?」
「はは、まさか」
彼は乾いた声で笑った。
そうだ。彼はいつだってそう。彼の言うことに中身なんてないんだ。実際はずっと頭の中で推敲に推敲を重ねているのかもしれない、あるいは元から何にも考えてないことが殆どなのかもしれない、けれどいずれにしたところでその結果吐き出される言葉は、スカスカでカラカラの言葉たちだ。乾燥して干からびたような言葉たち。でもなんだか、どことなくそれらに私は、ぬくもりとかやわらかさといったものを感じるのだ。つくづく私が甘いのかもしれない、いやでもこういったのが真の信頼と呼べるものなのかも、なんて思いつつ私は彼とのやり取りをなぞっていく。そうすると心が和らぐのは確かだった。
それにしても。
今更だけど。
「久しぶりだね、瑞晶」
「うん。久しぶり、七美」
二
朝野瑞晶との出会いは大学のサークルに遡る。私と彼は同じ学年だった。
激しい恋愛があったわけではない。むしろ何一つとしてなかったと言ってもいいかもしれない。恋愛に限らず、大学での生活は今思えば、まるで淡くて薄い泡沫のようで、ぱちんとはじけてしまえば、後には何も残らず、そこに今まであったのかどうかさえ確信のもてないものだった。しかしそんな空虚な見かけだとして、実際その大枠は夢から醒めたように立ち消えたとして、それでも私の手の中には微かな反響が零れ落ちずにとどまった。それが彼だった。
私は卒業しても実家に戻らず、同じ下宿に住み続け、私が合鍵を渡していた瑞晶も相変わらずに、時折ふらっと私の家に上がり込んでいるのだった。彼は私と同学年だったのだが、歳は私の一つ上になる。それでも彼は歳の差を感じさせない気軽さで私に接していたため、私もそれをとりわけ気にすることはなかった。しかし元々、神経質的なところがあるためか、どれだけ距離が近づいて親密になったと思っても、無意識のうちに敬語が出てくることもあった。
瑞晶はよく私の家に来て、することに飽きると私の眼を覗き込んで、髪を撫でた。私は黙ってそれに従う。
いつか彼は言った。
「何かを愛でてる時が、人間は一番幸せなんだよ」
「そうなんですか。私は気持ちいいからいいですけど」
瑞晶は宇宙の雑誌を横に置いて、手を伸ばし、ベッドに腰掛ける私の頬や髪に触れた。血管の透き通る、マメもない、汚れたことがないような指先が、私をゆるやかに撫でていく。
彼と私の関係は、なんとも形容しがたいものであった。彼は私のマンションの合鍵を持っているし、大学の在学中は毎日のように来ていた日々もあったのだから同棲に近いとも言えるのだが、その中身を考えると、どうもそもそも恋愛関係が成り立っているのかさえ怪しいところがあるのだった。彼と私は肉体関係はもとより、唇を合わせることさえなかった。夜中、私たちは寂しくなると、手を繋ぎ、電気の消えた部屋で月や星の明かりが射し込むベッドの上で他愛もない会話をし、彼は眠そうな眼をしながら私の頬に手をそっと当てるのだった。そんなことをしていると心の隅からじわりと安らぎが滲んできた。私にはそれで充分で、彼もそれだけで充足しているようだった。私たちにそれ以上のことはいらないのだ。彼はおそらく身体を交えたところで無限の愛が手に入るとは思っていなかった。同年代の連中がそれに快楽と幸福を見出していく中で、彼は人間の欲望は限りなく、決して満たされ得ないことを認めていた。却ってそれをすれば寂しさが増長されていくだけだということも。だから他のサークルの部員たちは、私と彼がこういった関係にあることを今に至るまで知ることはなかった。付き合っている、という言葉が適切かどうかは分からないが、私と瑞晶は確かにひっそりと人知れず、互いの心を感じ、肌を触れ合わせていた。
――喫茶店の記憶。
いつのことだったか、正確には覚えていないがおそらく三年生、私が合鍵を瑞晶に渡す少し前だったと思う。私が今の関係に身を預け切っていいものか悩んでいた頃だ。日中に二人で外出することは滅多になかった。大体私たちが二人で会うのは、私か彼の下宿先に行くか、あるいは陽が沈んでからであれば電灯少ない夜の町に散歩に出かけるか、そのどちらかに決まっていた。
隣町のゆったりとしたカフェで、私の前にはアイスカフェオレ、彼にはメロンソーダフロートが置かれていた。柱時計は午後の三時を指し、周りでは読書に耽る老眼鏡のおじいさんや、仕事の休憩か二人組のスーツのOLなんかがいた。
ミルクとコーヒーが分離しているのをストローでかき混ぜると氷がグラスにぶつかってカラリと涼しい音を立てた。暦の上では秋が始まったとはいえ、まだ残暑が幅を利かせていた。彼はメロンソーダに乗ったアイスクリームをスプーンでつついた。
私は訊いた。
「私たちってこれからどうなるんだろうね」
彼はぼんやりと泡立つ緑を眺め、いつものふわっとした答えを返した。
「どうなるんだろう……」
はあっ、と私は軽い溜息を吐いた。
彼はスプーンをわきに置いて、グラスを傾け、口につけた。テーブルの表面には結露した水滴が残る。
「でも多分、僕らにはさ、ソーダが必要なんだよ」
「三ツ矢?」
「それはサイダー。甘みが入ったものじゃなくて、このメロンシロップにはじける無味の炭酸水。ずっと甘ったるいのはいつしか飽きてしまうしさ。それを繋ぎとめる一筋の優しさだよ」
「ちゃんと向き合うことも、分かり合おうともしない姿勢を都合のいい言葉で誤魔化そうとしてない?」
私にはまだどこか不安があった。彼といるのが心地よくないわけではない。けれどこのまま延々ダラダラ続いていくことが、果たして最適な解を導いてくれるのか、私には分からなかった。今までも先のことを真剣に考えず、ひたすら問題をすり替えるような男を見たことはあった。けれどそういったタイプは大体現実の快楽に固執し、隠しきれない不安に怯え、見かけばかりの自分の殻に引きこもる。それらからは次第に自滅していく危険なにおいが直感的に窺える。しかし一方で、瑞晶は一度として私の中心、奥底まで無遠慮に踏み込んでくることはしなかった。どうもそんな調子ではないのだ。いわば境界線を突き破って侵入してくるというよりは、いつの間にかその内側で胡坐を掻き、欠伸をしている具合なのだ。
彼は何事もないように言った。
「でも手を伸ばすだけが答えじゃない。手を伸ばして、届かなかったら寂しくなって、もっと手を伸ばしたくなるけど、それでもし望んだものをつかめたとしても、得られるのは満足じゃない。手に入るのは一欠片の新たな寂しさだけなんだ」
瑞晶の瞳はしっかりと私を見据えていた。その言葉が中身を持っていないような見かけだとしても、その時ばかりは彼が心の底から思っているような熱を感じさせた。時間の流れを一瞬、忘れる。
「錯覚なんだよ。全部錯覚なんだ」彼は言った。
「錯覚? 何が?」
私はストローを咥えて、一口飲んだ。
「だから七美の思ってる、大抵のこと全部がだよ。付き合って、どこか遊びに行って、海辺のホテルでセックスして、そのまま仲が良ければ、会社を辞めて子供を産んで、小学校まで上がったら運動会とか見に行っちゃったりしてさ。それが悪い事とは言わないよ、僕は。それも楽しいかもしれない。少なくとも、大体の人が考えてることはそういった類のことだ。でもおそらく七美がそう思ってるのは、そう言われているからに過ぎない。錯覚なんだ。何も僕は、憧れるけどロッカーじゃないしさ、極端なアウトサイダーでもない。だけど微小なレベルでもいいから、他の人のと寸分狂いのないレールとは違う目的地を目指したって罰は当たらないんじゃないかって、、そう思うんだよ」
彼は言い終わると、窓の外の白く照らされたアスファルトに目を向け、グラスを手に取った。グラスの外側に張りついた水の玉がつるりと滑り落ち、内側では炭酸がはじけた。
瑞晶は、私が会社に通い始めた頃もそれまでと変わらず、二三日に一回のペースでうちにやってきた。しかしそれもここ最近はめっきりになっていた。今日来たのも、およそ二週間ぶりのことであった。
「そういやさ、前よりあんまり、うち来なくなったよね。どうかしたの?」
私はベッドに横になり、彼が持ってきた雑誌を開いてみた。ヒッグス粒子、相対性理論、素粒子。ダメだ、何のことやら。
ベッドの傍らの床に座って、テーブルの端をぼうっと見ていた彼は自分の右頬に少し手を当て、そして言った。
「んー。まあ、七美も色々忙しそうだからさ」
「そんなこと前は言わなかったのに、おかしいなあ。いつでも来ていいんだよ?」
彼はもう一度「うーん」と唸った。
何かを隠したような瑞晶の態度は珍しいものだった。同棲まがいの私たちはいつも全てを互いに打ち明け、それらをくだらないものとして軽く笑い飛ばし、これまでゆるくやってきたのだ。しかし、確かに時間は去っていくものなのかもしれない。もう私たちは充分に責任というものを背負わなくてはいけない年頃になっている。
「こないだ、親から電話があってさ」
「うん」
「また例によってアレ、就職がどうのって話。お前はどうしたいんだって言われてさ。ちょっと笑っちゃいたくもなるけど、だって僕は親の持ち物でもないんだからさ、でもやっぱり向こうの気持ちも分かるんだよなあ」
「で、なんて返したの?」
「その時は、今までと同じく小説を頑張るって言ったかな。ただ僕自身、最近揺らいでる部分が大きくて、よく分かんなくなっちゃってるんだけどね」
瑞晶は定まった職に就かず、大学を卒業してからいまだアルバイトを転々とするフリーターのままだった。彼ではないが、親の不安も頷ける。彼はアルバイトで家賃と生活費と年金に必要な最低限の賃金のみを稼いでいた。そして空いた時間を使って小説の構想を練っているようだった。ちょくちょく公募にも出していた。けれど現実はそんなに甘くはなく、まだ成功の兆しは見えてこない。彼もうまくいかない日常に窮し、悩んで、ここに来る暇などなかったのかもしれない。二人でいる時、話題が深刻な方に向かうことは少なかった。ここは日常の危うさとは隔絶した、つまりそういう空間なのだ。だから彼は一人になりたかったのかもしれない、と私は思った。
「ソーダが必要?」
私が訊くと、彼は喫茶店でのことを思い出したのか、笑った。
「それも飛びきりポップなやつがね」
三
私はあまり自らが勤めている会社に興味がない。作業が終わり、上司にそれを報告する時、私が思うに三十%の確率で小言を言われ、五%の確率で褒められる。その他、六十五%は無言の了承だ。いつだってそれは変わらない、不変的な出来事だ。
「色瀬さん、前回の資料確認、二件も漏れがあったんだからね。今回はそんなことないだろうね」
私が顧客のクレームメール処理が終わったことを告げると、上司がさもだるそうに言った。今回は小言、大当たり。だけども全く、どうでもいい。私は素知らぬ顔で白が混ざり、頭皮の薄さが強調される上司の頭に目をやり、この人も心の中では反抗期の息子の行動にどうしようもなく一喜一憂してんのかな、と思って不意に笑いそうになった。それを奥歯を噛み合わせ、悟られないようにする。
上司の声が途絶えたことを確認し、私が踵を返そうとすると、上司は口調を変えて、私の想定しなかったことを言った。
「そうだ。色瀬さん。昨日、うちに配属になった彼。君の知り合いらしいね。困ってるようだったら、助けてやってくれ」
「えっと……。どなたでしたっけ」
新しい人が来ることは風の噂で前々から知ってはいたが、昨日私は休み、会ってなかったし、何より気にとめていなかった。
上司は人差し指を宙に指して円を描き、「あれだよ、あれ……」と口ごもった。その挙句に出てきた名前は、水たまりに投げ込まれた石が底に溜まった泥を巻き上げるかのように、私の眠らせた記憶を呼び戻させた。
「そう、滝……、滝原彰吾くんだ」
「彰吾……ですか」
席に着いた後も、顔には出さなかったが、私は内心驚いていた。滝原彰吾は大学の二年まで、付き合っていた相手だった。瑞晶と今の関係になったのは、滝原を私が振って別れてからだ。
滝原は二年ぶりに会っても、大学の頃と印象は殆ど変らなかった。外見で変わったのは、毛先の跳ねたくすんだ金髪がごわごわした黒髪になっていたことくらいだ。彼は厚い胸板を前に突き出し、ごつい指先で頭を掻いた。態度や仕草の節々から、虚弱そうな瑞晶とのギャップが噴き出していた。
「いやあ、色瀬にまた会えるとは思わなかった! また、よろしく」そう言って彼は手を差し出した。私がそれに応じると、彼は皺を歪ませ、にこりと笑った。彼の手の筋肉質のがっちりした感触が私に伝わった。
滝原は作業で何か困ったことがあった時にとどまらず、何かと私の席へとやってきて、喋りたがった。上司がまだ職場に慣れない、新人のこととそれを見逃す度に、私は恨めしげな視線を送ったが、四十歳半ばのおっさんには尽く届かなかった。私は自分の作業が中断させられることにも、滝原があからさまに思わせぶりなことを言ってくるのにも心底うんざりした。仕事が終わると彼は何度も私を飲みに誘った。
どうやら彼はまだ私に気があるようだった。彼は誠実で単純だし、極めて健全な生き方をしていたが、私にはその体育会系なにおいが鼻についた。滝原に別れを切り出したのも、その濃さに耐えられなくなったからだ。彼はスーパーの列に割り込む見知らぬ人にも率先して注意するような、真っすぐさを持っていた。私はその反動もあって、あっさりしきった瑞晶に惹かれたのかもしれない。
私は元々、積極的な性格ではない。むしろその要素が初めから入る余地がなかったような人間だ。滝原に誘われる夜、頭の中には瑞晶が映った。瑞晶と私の関係はいわば消極性が行くところまで行った、ある種の完成形なのだ。互いのことを慮り、しかしそれゆえに干渉しない。かげろうのように希薄で、ただ甘くなったサイダーのように生ぬるい繋がり。そこには暴力的な愛も焦げるような恋も存在しない。けれどそれは空いたスペースに最後のピースを嵌め込む安らぎがあった。それこそが生活を生きる上で、私に必要なものだったのだ。滝原を前にすると、私はそれを強く思うようになった。
次第に残暑も去っていく。秋の度合いが強まってきた。駅前の街路樹が赤くなり、クーラーで喉が痛くなることが少なくなった。瑞晶は相変わらず十日に一度くらいの頻度で私の家に来た。私は彼が傍にいる瞬間、本当の慈しみを味わった。
それは土日の休み明け、吹く風に冬の初めを感じるような朝だった。電車に揺られ、流れては消える景色をぼんやりと眺めながら、私は二つのことを考えていた。一つはこないだした親との電話。最近、母親の溜息が増えてきた。
「七美さあ……。どうなの、あなた。そろそろいい時期でしょう? ちゃんと考えないと……」
身を固めろ。今年になってそればっかりだ。私も社会に出て、母の関心事はそれくらいしかなくなったのだろう。他の道が断たれた母の気持ちも分かるが、こちらとしたらたまったもんじゃない。悩みの種だ。
そしてもう一つは滝原のことだ。三日前の会社からの帰り道、彼はまだ灯りの点いたビルの窓なんかを見上げながら、とうとう切り出してきた。
「もう一度、やり直してみないか?」
彼の声が耳の裏に蘇る。何も考えてないような響きを持っているのに、いつも私を困らせる彰吾の声。
「俺には……、なんていうか色瀬が必要だからさ。別にいいだろ?」
ガタンゴトンと電車が揺れ、彼の声が遠くなり、近くなった。その時、ポケットの携帯電話が震えた。母親や滝原の顔が頭から離れないままに、私が携帯をとりだすとメールの着信がそこに示されていた。メールを開けど、咄嗟には何が書いてあるのか分からない。そして電車がもう一度、大きく揺れた。
目に力を入れて、画面のメールに見入る。書かれているのは彼のこと。
朝野瑞晶が死んだらしい。
四
通夜はメールがあってから次の日の夕に、隣の県にある瑞晶の実家近くで行なわれた。電車で三時間ほどであったため、私はサークルの部員仲間であったなじみのある男女数人とともに参列することにした。その中の一人であるメールをくれた後輩の女子は行きの車両の座席で頬に手を当てて泣いていた。窓の外では、空を厚く暗い雲が重苦しくどっしりと覆っていて、まだ昼過ぎだというのに、車内の灯りは窓に跳ね返って涙とともに内側に光った。
会場は市の外れにある葬式場だった。私たちが着く頃には、雨が降り出していた。外でしめやかに落ち濡れる雨の音を聞きながら、つい一週間前にうちに来ていた瑞晶の遺影に手を合わせ、焼香をあげた。
その後、私たちは受付のところで彼のご両親に挨拶をした。彼の母は下に持つハンカチに両手を合わせ、そこには染みがちらりと見えた。どちらの方も目が伏せ気味になり、表情から陰りが抜けなかったが、よくよく見れば母親からは何気ない日常から楽しさを拾い上げるような身軽さが、隣に立つ背の高い父親からは何でもないつらいことなんか笑い飛ばしてしまいそうな健やかさが垣間見えた。父親の目元が瑞晶と重なったが、似てるかと訊かれればよく分からなかった。私たちはしばらく空気のこもったホールに並べられたパイプ椅子に座って、お坊さんの唱えるお経に思いを馳せた。
私は穏やかな気持ちで瑞晶の死を思った。受け入れるためには、まずは向き合わなければならなかったし、私も心が自然とそういう姿勢になっていた。後に来る激しい痛みも今はまだ鳴りを潜め、その存在をおぼろげに感じさせるにとどまっていた。
瑞晶の死因は首吊りによる窒息死だった。昨日の朝、アパートに救急車とパトカーが駆けつけ、騒ぎを聞きつけた近所に住む元サークル仲間だった女子が、首を突っ込んで事を知り、ただならぬ思いですぐに同期の知り合いに連絡網を回したのだ。死に方からして彼は自殺を図ったのだろう。しかし私にはその理由が分からなかった。彼がなんで、そんな行為に至ったのか。あの温厚そうな両親に対する良心の呵責? 一向に展望が開けない未来への不安? 自分が変われないことへの絶望?
しかし最後に会った時、彼にそんな素振りは一切見られなかった。あの時も彼はいつもの通り、代金を払い忘れて水道が止められていたことや、渋々行ったハロワの受付が案外人当たりの良い人で嬉しくなったこと、小学校の校庭に植えられた銀杏の木が鮮やかなほど黄に染まってて却って毒々しく見えたことなんかを、とりとめのない日々の出来事として、特に感慨もない風にして語った。でも彼がそれらに何かを見出していないからといって、彼がそれらに何かを求めていたわけではないのだ。なぜ瑞晶が死んだのか、私はひたすらそれだけを考えたが、ろくな答えは見つからなかった。
通夜は本来夜通しするものだと思っていたが、今回は三時間ほどで終わる「半通夜」という形式らしかった。告別式は明日、同じ場所で執り行われる。いずれにせよ、私は駅前のカプセルホテルを予約していた。
やがて二十一時ごろになると、通夜は終わりを迎え、私たちは他の参列者と共にホールを出た。ひんやりとした冷気が身体を包む。雨は既に止んでいたが、空は曇りっきりで天の星は一つも見えない夜だった。
「色瀬も明日は仕事でしょう? 大丈夫なの」
「ううん。来る前に電話して休ませてもらった。折角来たから」
私は明日も参列する旨を伝えると、訊いた女子は頷いて静かに目を瞑った。私以外は通夜だけに参加するつもりだったようだ。私は交わす言葉もなく帰っていく友人たちの背を、目で送った。なんだかそうしていると、急に寂しさが込み上げ、どこにも行けない心地がして、私はそのまま入り口横の暗闇にぼうっと立ち尽くした。目の前を知らない黒い人たちが過ぎていく。少しして、近くの眩い光を放つ自動販売機の傍らにベンチがあるのを見つけ、蛾が火に誘われるように近づいて、そこに腰を下ろした。会場の片づけも進められているようだったが、扉から出ていく人たちは、一様に死のにおいをまとっていた。生きている人にも死が入り込んでいく。知らないうちに、気づかぬうちに。そうして瑞晶の死は本体である身体から離れ、少しずつ分割されて人々の心に与えられていくのだ。分配され、削られて、薄くなる。私は人が一人死ぬことはこういうことなんだと、なんとなく思った。
ベンチの左端に誰かが座った。目をやると、それは私と同じくらいか、もう少し上の歳の女性だった。自動販売機の灯りに照らされたその人の髪は長く、かなり色素が薄い。赤茶……、いやおそらく金。ドンキホーテや深夜のファミレスにいそうな感じで、あんまり黒い喪服は似合ってなかった。私は不意に中学の時の教室で、あるひ弱な女の子をいじめていたグループのリーダーの肥満気味の女に、なぜか突然挑発を吹っ掛けて、一対多の喧嘩に圧勝した透き通る金髪の同級生のことを思い出した。あの子は滅多に学校にも来ない不登校少女で、いじめられっ子に面識もないはずで、当時傍観してた私には何でそんなことをするのか皆目見当もつかなかったが、その時はとにかく彼女がかっこよく私の目には映っていた。その子はじきに転校してしまって、今では顔の輪郭すら記憶に残っていないけど。
ベンチに座るその女性は長くて真っすぐな髪を耳に掻き上げて、服の胸ポケットからシガレットケースを取り出した。一本咥え、慣れた手つきでジャケットの脇ポケットに手を伸ばす。求めたものがなかったようで、今度はスカートのポケット。そこにもお目当てはなかったようで、彼女は隣の私に顔を向けた。
「アンタ、ライター持ってない?」
若干ハスキーな響きを持つ、落ち着いた声だった。
「確か……」
バッグの中をがさごそ探ると、丁度良く持ってきていた銀のライターがあった。私が渡すと、彼女は礼を言い、カチッと音を鳴らし、やっとのこと煙草の先に火が点いた。
彼女は、手を伸ばそうとしたところを引っ込め、私が渡したライターをまじまじと見つめた。
「ん、これ……」
「どうかしました?」
「あっ、いや」
彼女は私の方へ再びそれをよこした。
「朝野クンが持っていたのと似てると思ってさ」
「えっ、知ってるんですか」
少し驚いた。なぜなら、私が差し出したライターは正に瑞晶のものだったからだ。彼は私の家に来た時、律儀にベランダに出て必ず一本は煙草を吸っていた。そしてこれは前回彼がうちに忘れていった、今となっては遺品のものだ。私は通夜に来るにあたって、もう返すことができなくなったそれをなんともなしにカバンに詰めた。
彼女は早川葵と名乗った。瑞晶とは、中学以来の付き合いで、今は私たちと同じ町に住んでいるという。
「いやあ、まさかこんなことになるなんてねえ。ついこないだまでなんだかんだ生きてたのにね」
早川は会場から公道までの道の左右に並び立った作り物っぽさの滲みでた灯篭の足元を眺めて言った。彼女の言葉に自然に含まれた瑞晶への馴れなれしさが軽く気にかかった。
「瑞晶に会うことあったんですか?」
早川は視線を変えずに口を開いた。
「まあ……、仲が良かったっていうのかな。なんていうか腐れ縁だよね。週一くらいは会ってたけど」
そう言って目を細めた。
週一。
「いつからですか、それ」
「一年前くらい。夏の前くらいだったかな、あれは」
一年前。私と瑞晶が大学を卒業した後。
私は「へえ」と気の抜けた返事をしてから、目の前を見据えた。もうそろそろ来客がすべて引き上げ、会場の灯りもぽつぽつ消えかかる頃合いだった。
「……えっと、それってどういう」
「いやどうも何も、普通に会ってたな」
「どこでですか」
「大体、あたしんちで、かな」
「二人でですか」
「うん」
「それは……」
それは……、一体どういうことなんだろう。変な形に凝結したいがいがの動揺が喉にせりあがってくる。瑞晶が? 友達だから? ――いや、それでも。私は口から溢れ出しそうになる言葉を押しとどめ、ゆっくり息を吐いて彼女に言った。無性に煙草が欲しくなる。吸えない体質なんだけど。
「早川さんは……、瑞晶と、仲が良かったんですね」
私は感情を殺し、努めて冷静であろうとした。私は私で、瑞晶は瑞晶。それぞれの領域があって、その距離感を楽しむだけだったはずなのだから。だからきっと何も感じない――。
彼女はとんとんと煙草の背を叩いて、灰を落とした。フィルタを口につけ、長い白煙が暗闇に紛れる。早川はしばし沈黙し、空を見上げ、思い出したように口を開いた。
「身体の相性が良かったからな」
早川は、それから瑞晶と共に何をしていたかを私に訥々と語った。彼女は気が進まないようだったが、私が頼むと仕方ないと言った調子で話しだしてくれた。それは狭い心の隙間からちろちろと漏れだす秘密の呪文のように空中に零れ落ちて、夜に溶けだした。彼女の言葉は一旦話し出すとすらすらと続いた。
「朝野クンって地味な見た目でさ、性格もどこか陰気臭くて、アタシとは全然合わなかったんだけど、なんかおかしなもんでね、身体の具合は良かったんだよね。何度も寝た」
何度も寝た。その意味は流石に私にだって分かった。私は脳内でその言葉を反芻し、咀嚼し、返答に充てようと試みたが、会話のキャッチボールはうまく繋がらなかった。そんな私を置いたままに、彼女は喋った。
「朝野クンもさ、電気を消した途端、今まではネジが切れてたんじゃないかって思うくらい、息がやっと吹き込まれたって感じになってくるんだよね。朝野クン自身、こうしてると生きてる実感が湧くなんて言っちゃってさ。それで、朝になったら元に戻って窓越しの太陽を恨めしげな顔で睨んでて。人間ってそういうもんなのかもしれないけど、あの落差はおかしかったなあ」
懐かしいものを憂える乾いた笑いが宙をすべった。
私にはなんとも思わなかったけど、この人には瑞晶の表情が恨めしげに映ってたんだ。私は相変わらず雲のカーテンが張った空を見上げ、心の中で雨がまた降ることをにわかに願った。
早川が片目を瞑り、口をすぼめて、細く煙を吐く。
「でも、ありゃあなんていうか、生きてるっていうより必死だったな」
「必死?」
「そう。アタシも朝野クンもヤッてる時は不快じゃあなかったろうけど、あの人は何かに怯えてる感じだった。彼が何かに叫びだしたくなるほど怖がってて、それを隠したくって何度もアタシの中に深く入り込んでくるのが、肌を通して伝わってくるみたいだった」
そして早川は「まあ、確実なことはもう誰にも分かんないんだけどね」と小さく笑った。
私は、ベッドの下で、窓越しの朝陽を浴びながら体育座りでガタガタ震える瑞晶を思い浮かべた。それは想像の中から這い出てくることはなかったけれど、その姿は彼に良く似合っていた。
早川が黙ると、会話は途切れ、夜の闇だけが獲物を探すように辺りを蠢いていた。静かになると、建物の周りを取り囲む森から発せられる虫の声と、自動販売機のジーっという音が耳を突き刺した。
一秒の間隔が判別できなくなりかけた頃、私の隣から早川は立ち上がった。腕を上に掲げて、軽く伸びをする。私は最後だと思って、そっと尋ねた。
「最近はいつ瑞晶に会ったんですか」
「つい一日前に」
「……え? それって」
「そう、アタシが見つけたの。合鍵も持ってたから」
消え入りそうな声でそう言うと、早川は荷物を取って歩き出した。彼女は近くに停めてあったバイクを引いて、森に挟まれた道を振り返ることもなく公道まで進んで行った。その後ろ姿の上には、薄い雲越しに月の存在がうっすら見て取れた。
私は彼女が見えなくなると、ポケットに手を入れてベンチから離れた。少し迷ったが、結局次の日の告別式を待たずに、駅前をうろうろしてから、人の空いた終電に乗り込んだ。
家に着くや、私はスーツから着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。枕元の時計を見ると、日が変わって午前の一時を指している。ひどく喉が渇いていた。帰りながらコンビニで買った発泡酒を呷っていたからか、干からびた天井はエレベーターのように少しずつ上下に動き出して見えた。冷蔵庫の方に目を向けると、パックに口をつけて牛乳を飲む私と、几帳面にカップに牛乳を注ぐ瑞晶の影が、そこに浮かんだ。
何が幻覚で、何が現実なのかも私にはもう分からなかった。私が見ていた瑞晶と本当の瑞晶の差って、どれくらい離れていたんだろう。そして私はちゃんと彼に触れていたんだろうか。彼はちゃんと私に触られてくれたのだろうか。テーブルの上には読みかけたまま置かれた宇宙の雑誌があった。
時計の音だけが木霊して、私はうまく働かない頭で携帯を探した。私が専らメールをするのは瑞晶くらいのものだった。あまり感覚のつかめなくなった指でキーを打ち、連絡先からあの人を探す。
五
ある日から途端に冬が到来した。吐く息が凝った外気に当たり、白に染まる。私はかじかむ手をこすり合わせ、駅へと続く階段を上がる。黄色い帽子を被った私立へ通う小学生が私の横を駆けていき、私はそのランドセルにそっと心でエールを送る。
改札を抜けると、すでに彰吾が立って、顔を少し下に向け携帯電話をいじっていた。私が近づくと目を上げた。
「早いね」
「おう」
二人で並んで電車に揺られる。彼は中吊り広告に目をやり、私は流れゆく風景に目を凝らした。
三年ぶりの、瑞晶がいない冬の季節。
私は足早に過ぎゆく町並みを目で追いかけた。葉の落ちた灰色の木々、灯りの消えたパチンコ屋、道を歩いた俯く人たち。私は、狭い視界に映されては消えゆくそれらの中に彼の生きたかった道を案じる。
急に景色がぼやけだし、知らずにぽろりと涙が落ちた。
(了)
ほんわか暮らしていきたいですね。