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シスター・ナイト

作者: 田山歴史

この物語を、鈴置洋孝氏に捧ぐ。

少年に勇気と希望をくれた彼に全身全霊の感謝を。

 むかしむかし、一人の男の子がいました。

 男の子は逃げ足が速いだけの男の子で、ひねくれものでした。

 そんな男の子は眼帯をした男の人だけが友達でした。

「どうしておにいさんは、眼帯をしているの?」

「誰かを守った結果、片目を失っただけさ。誇らしいことだ」

 眼帯の人はそう言ってわらいました。

 男の子は不思議そうな顔をしました。

「誰かを守ることは、誇らしいことなの?」

「俺にとってはな。お前がどうなのかは知らないし、他の奴がどうなのかも知らん。しかし、少なくとも俺にとっては、誰かを守ることは誇りだ」

「嫌いな人でも?」

「俺は本当に嫌いな奴は守らん」

 眼帯のヒーローは、そう言って口元を緩めました。

「なんだ、嫌いなやつでもいるのか?」

「うん」

「本当に嫌いか?」

「うん」

「心底大嫌いなのか?」

「うん」

「じゃあ、いなくなってほしいと思うか?」

「………………」

 少年は、少し考えて眉をしかめて、ちょっと嫌そうな顔をしました。

「いなくなったら、寂しいと思う」

「そういうもんだ。無関心でいるのは簡単だが、本当に嫌いになるのは案外難しい。……嫌いだと思っても、いなくなってほしくないなら守ってやれ」

「嫌いなのに?」

「本物の男はな、そういうことには頓着しないもんだ」

「さっき言ってたことと違うよ」

「じゃあ前言を訂正しよう。男はな、嫌いな男は守らなくてもいいが、女だけは嫌いだろうがなんだろうが守らなきゃならん。それができなきゃ男失格だな」

「………………」

 眼帯の男の言葉を、少年は少し拗ねながら聞いていましたが、それでも、最後には結局頷いていました。

「……うん、分かった」

 それは、少年にとって最初の誓いでした。



「嫌いだけど、いなくなってほしくないから、守る」



 妹ってのは俺より後に生まれて俺の心の傷として残る失敗をことごとく記憶し、なにかにつけてはそれをネタに俺を脅迫するような女で、そこには可愛らしさなど何ひとつなく、しかも男関係のトラブルをやたら撒き散らすので、俺としてはむかつくだけっていうかぶっちゃけ本気と書いてマジで殴ってやりたいが、相手は女なので殴ることができないという不条理を形にしたような奴だ。



 つまるところ、俺の妹というか義妹というか鬼畜妹というか、なんかもう世界中の俺に対する悪意を一心に集めた世界魔王妹は、常々俺の悩みとして存在している。

 親父と俺の母さんが離婚したのが、俺が五歳の頃で、親父は母さんと離婚するやいなや「今日からこの人がお前の新しいお母さんだぞー」などと、新しいお母様の肩を抱きながら今時のギャルゲーの父親のような危ないセリフを吐いた。

 そこで親父を殺していれば、俺の人生もちったぁ変わっていたかもしれない。

 が、五歳にして『人生なんてこんなもん』と達観していた俺は、親父の戯言を流して、新しい家族となんの違和感もなく付き合い始めた。もちろんのことながら、会社に戻ってキャリアウーマンとしてバリバリ働く母さんのフォローも忘れることはしない。人生を楽しく生きるコツは人間関係だ。

 人の喜ぶことをしてやれば、それは回り回って自分に返ってくる。

 自業自得。情けは人のためならず。人として生きるっていうのは、そーゆーことに違いないと俺は思う。

 ……そう、思っていた。

「千秋ぃっ! 頼むから俺ともう一度やり直してくれよぅっ! 千秋ぃっ!」

 まぁ、それはともかく。

 玄関で泣き叫んでいるのはどこのどちら様だろう?

 えぇ、なんとなーく想像はつきますよ? 妹の名前はこれはもうズバリ千秋ですからね。仙道千秋っていう、なんか存在が胡散臭い女が、俺の妹ですから。

 妹は現在中学二年生。恋多き年頃である。高校二年の俺にそーゆー恋路が全く訪れないのは、まぁ99%ほど俺のせいだ。基本的に俺は偏屈で理屈っぽく、初対面の人間に馴れ馴れしく話し掛けることができないシャイというか、ある意味では人間不信一歩手前くらいな男だからな。友人曰く『スルメのような男』。噛めば噛むほど味が出てくるとかなんとか。

 ……まぁ、俺のコトはどーでもいい。問題は玄関前で泣き崩れている、頭を坊主にした野球部らしき少年のことだ。

 さて、妹こと千秋には悪いところがマンボウの卵の数(おおよそ三億個)ほどあるが、その一つに『男癖の悪さ』がある。テキトーに気のあるふりをして相手に告白させ、そいつと適当に遊んだ後はゴミように捨てる。そういう悪どいことをやっている。

 そーゆーことをやっているくせに、同世代の女や男に嫌われないのは妹が悪魔か魔王だからとしか思えない。それか、呪術的なものを使っているに違いない。

「俺がなんか悪いことしたんだったら謝るからさぁっ! 千秋ぃっ!」

 いや、お前は多分悪くないぞ少年。お前は妹にその純情な心を弄ばれたのだ。だが、それはそれで仕方のないこと。今からお前は新しい人生をだな。

「千秋いいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 うすらやかましいわ。

 俺は怒りを胸に秘め、親友が買ってきた京都土産の柄を握り締めた。



 模造刀ながら、本物に近い日本刀による誠意に溢れた『脅迫』によって、少年は顔を青ざめながら妹に近づかないことを約束してくれた。

 俺としては妹のことなんざ心底どーでもよく、家の周囲で騒音撒き散らされるのがものすごく迷惑なだけだったのだが、ホントあの少年はなにを勘違いしてくれたのかいまいち謎だ。まぁ、どちらにしろ結果は同じかもしれんが。

「ったく、最近の中学生は」

 中学生の頃に深夜のプールに侵入してしこたま怒られたり、初々しいカップルのデート現場をフラ●デー風に暴き立て、学級新聞にしたりした自分のことは完全に棚上げしながら、俺はクサクサした気分をほぐすために冷蔵庫を開けた。いらついた時は甘いものが一番だというのが、俺の持論だ。

 が、そこには甘いものはなかった。

「……ば、馬鹿な」

 思わず口から『主人公のパワーアップに驚く悪役』のセリフが出てしまった。

 作り置きのクッキーも、俺が買ってきた100%オレンジジュースも、作っておいた二リットルプリンも、ムースババロアも、板チョコすらない。

 嫌な予感が頭をかすめる。俺は慌てて身を翻し、自分の部屋に向かった。

 階段を三段飛ばしで駆け上がり、開けっ放しだった自分の部屋に飛び込む。

 そして、俺は最悪の光景を見た。

「ん、兄貴。ごくろうさま」

 肩まで伸ばした髪に、剣道部のエースらしく引き締まった肢体。親友曰く『とても可愛いくて愛嬌のある顔立ち』らしいが俺にとっては小憎らしい以外に感想がない顔立ち。まぁ、世間一般の感覚から『客観的』に、あくまで『客観的』に捉えると、妹は美人らしい。

 俺の妹、仙道千秋とはそういう女だ。

「ヲイ、なにをしてくれやがるんですか、我が妹」

「兄貴の部屋でプリン食べてる」

 だらしない格好でベッドに寝転がりながら、千秋はプリンを頬張る。

 だらしない格好というのはぶっちゃけ下着姿のことで、甘いものを頬張るというのはリス、あるいはとっとこ公太郎君のように、頬一杯に頬張っているということだ。

 断言する。そんな姿を見て顔を赤らめる男は存在しない。

 もしもいるなら、さっさと持っていってくれ。先着一名のセルフサービスだから。

「……あのなぁ、千秋。小学校高学年くらいから常々言ってると思うが、下着姿でうろつくな。みっともねぇ」

「欲情する?」

「吐き気がする」

「うっわ、いくらなんでもひどすぎる」

 別にひどくはない。リアルで妹に欲情できる人間がいるなら、俺はドン引きする。

 溜息を吐いて床に座り、俺は千秋を手招きした。

「千秋、話がある」

「なーに?」

「いいから正座しろ。ついでに服を着ろ。プリンも弁償しろ」

「兄貴はいちいち要求が多すぎるよね」

 そう言いながら、千秋はわりと素直に正座した。

 服も着てくれなかったし、プリンも弁償してくれなかったが。

 俺は日本刀という名の『魂』を丁重に置きながら、ゆっくりと口を開く。

「千秋、あの泣き叫んでた少年はどこのどちら様だ?」

「昔の男。今日色々あって別れることになりまして」

 つい数時間前まで付き合っていた男を『昔』と言い切るクソ度胸は褒めていいのかもしれないなーと、ぼんやり思いながら俺は口を開く。

「基本的にはどーでもいいことだし、お前の事情だから別に知ったこっちゃないし、正直言えばこんな当たり前のことを言うのがもう面倒だが、あくまで一般論として言っておくけどな、家の前で泣き叫ぶような男と付き合うのはどーかと思うぞ?」

「兄貴、前置きの時点で面倒くさがってるのが丸分かりなんだけど」

「そんなもん当たり前だろうが。俺はお前の兄だが、真由花さんと違って別にお前の保護者ってわけじゃない。面倒なものは面倒だし、人間だから楽もしたい」

 自分勝手ではあるが、至極真っ当な意見だと俺は思う。

「いいか、千秋。男と付き合うのはお前の勝手だ。お前が決めたことだ。別に悪いとは言わん。ただ……別れた男と縁を切るのに、俺を利用すんな」

 千秋の肩がぎくりと震える。

 それから、汗を一筋垂らしながら愛想笑いを浮かべた。

「……ばれてた?」

「ばればれだな、このうつけ」

 軽く後ろ頭を叩くと、千秋はちょっとだけ拗ねたような顔をした。

「だって、アイツ思ったよりつまんなかったんだもん」

「相手のせいにすんな。そんなもん付き合う前に気づけ」

「……女の子と付き合ったこともないのに、兄貴ってばいちいち説教臭い」

「付き合ったことはなくても想像くらいはできるさ。どーせお前が一方的に相手のことを振ったんだろーが?」

「なんで分かるの?」

「同じこと十四回繰り返してればなんぼなんでも分かるわ、ボケ」

 再び後ろ頭を小突いて、俺は深々と溜息を吐いた。

「付き合うなら相手のことをしっかりと観察して、それから付き合え。振るんなら、相手がぐぅの音も出ないくらいにしっかりと振れ。これで十五回目なんだから、もういい加減にそれくらいのスキルは身につけやがれ」

「……そんなに上手くいくわけないじゃん」

「じゃあ、上手くいくように努力しろ。その目と耳と口と鼻と舌と手足はなんのためにあると思ってるんだ? 同じ失敗を十五回繰り返すためか? ん?」

「小学三年生までおねしょ癖があったくせに」

「……それは、今は関係ねーだろうが」

 だから、自分の立場が危うくなるとすぐに昔のコトを持ち出すのは卑怯だと思う。

 妹はいつも通りの不機嫌そうな表情で、俺を睨みつける。

「大体、兄貴は毎度毎度えらそうに説教するくせに、自分は全然大したことないじゃんか。勉強だってあたしの方が得意だし、剣道だってあたしの方が強いし、恋愛だってあたしの方が場数踏んでるもん。兄貴なんて、その場になったらなーんにもできずにあたしを頼ってくるね! 間違いないね!」

「死んでもお前にだけは恋愛相談なんぞせんわ。……まぁ、他の事に関してはお前の方が出来がいいのは認めるけどな」

「ほら見なさい。既にあたしは兄貴を越えた!」

「で、今日の夕飯はカレーでいいか?」

「カレーっ!? まじっ!? あたし夏野菜カレーがいいっ!」

 目をこれ以上なく輝かせて喜ぶ妹。

 俺は口許を緩めて、朗らかに笑った。

「……………ハ。ガキが」

「ちょっと待て。今鼻で笑ったわね? 小学校の頃女子のスカートめくりすぎて、帰りの会で毎日吊るし上げ喰らってたヤツの分際で、あたしのこと笑ったでしょ?」

「昔は昔、今は今だ」

「三駅離れた駅の外れの方にある古びた本屋でえっちぃ本買ってたくせに」

「……なぁ」

「あによ?」

「その情報は一体どこから入手したのですか? 千秋様」

「その本屋、あたしの友達の家なの」

 にやりと勝ち誇った笑いを浮かべながら、妹は魔女皇のごとき轟然たる態度で言い放った。

「さぁお兄様、学校で言いふらされたくなかったら今日はお兄さま得意の夏野菜カレーにしてくれませんこと? 他のことは腐ってますが、家事だけはお得意のお兄様のカレー『だけ』は、まぁ認めてあげなくもないんですから」

「あらあら妹さま、それは『提案』ではなく、どちらかといえば『脅迫』じゃありませんか?」

「どっちでもいいじゃありませんか。事実、脅しているわけですし」

「……そーですね」

 俺は深々と溜息を吐きながら、今度あの本屋を爆破しに行こうと思っていた。



 少年はかなり自分に絶望していた。

 恋に破れ大泣きし、それでも相手を忘れることができず、未練がましいとは思いながら彼女の家に行った。

 家の中から出てきたのは日本刀を持ったヤ●ザだった。

 やばい、殺られると思ったのはアレが初めての体験だった。

 結局彼女には会わないと約束し、逃げるようにその場を離れた。いいや、事実逃げ出したのだ。彼女の兄がヤ●ザというだけで、自分は逃げ出してしまったのだ。

 あまりに情けなく、臆病鳥(チキン野郎)な自分が情けなかった。

「……あのヤ●ザ、絶対に五人くらい殺ってるよ。間違いねぇよ……」

 少年は公園のブランコでうなだれながら、今日の敗因を思い返していた。

 そのヤ●ザが実は高校二年生の青少年で、握っていた日本刀は京都土産の模造刀だと知ったらさらにヘコむだろうが、それを伝える人間はこの場にいない。

 そう、人間はいなかった。


「ヤァ、少年。今日も元気に絶望してるネィ」


 いつの間にか、そこにはピエロが立っていた。

 身の丈は幼稚園に通っている子供ほど。人を食ったわざとらしい笑いは、まるで顔に張り付いているかのよう。大きな目がまるでアニメのように大きく、『造られた』という雰囲気があからさまに不自然だった。

「な、なんだよ……お前」

「お前とは失礼ですネィ。パイマンも知らない子にそんな口を聞かれたくはない」

「……パイマン?」

「昔々、ものすごくバラエティが面白かった時代にネィ、猛獣や有名人にパイをぶつけて楽しもうという、とってもとっても楽しい企画があったのディスよ」

「……有名人はともかく、動物は虐待じゃねーか」

「猫はともかく、犬はどついて躾けないとダメダメネィ。アイツらは勝手に順位をつけやがるからネィ。ちなみに順位は実力順だから、力で捻じ伏せるのが一番手っ取り早くて楽な躾ネィ。……あ、これは恋愛にも言えるから」

「どーでもいいケド、そのネィっていう語尾、やたらとうぜぇんだけど」

「伏線をスルーするとは、なかなかの逸材ですネィ。感心感心」

「伏線?」

「好きな女の子がいるんなら、力で捻じ伏せちゃえ♪」

 少年は呆気に取られた後、携帯電話を取り出して110をプッシュした。

「あ、もしもし警察ですか?」

「……いやいや、最近の若い子は賢いようでなによりですネィ。でもでも、絶望の使徒たる私とて国家権力は怖い怖い。警察は優秀ですからネィ」

 にやり、とピエロは悪魔的に笑う。

「でも君は怖がることはない、僕らは同士だ。サァ……一緒に嫉妬しようじゃないか!!」

 ピエロの姿が肥大化する。まるで悪魔のように。

 まるで絶望のように。

「な……ちょ、うわあああああああああああああああっ!?」

 公園に、少年の絶叫が響き渡った。



 つまるところ、あたしの兄というか説教爺さんというか馬鹿兄貴というか、なんかもう世界中に存在するあたしに対する憎悪を凝縮した嫌味兄貴は、常々あたしの越えられない壁として存在している。

 初めて見た時から思っていた。

 ああ、あたしはこいつを絶対に嫌いになると。

 昔から、あたしの方が基本的に優秀だった。勉強も運動も、兄貴がやっていた剣道だって今じゃあたしの方が強い。いつもいつもあたしの方が前を行っているという自覚はあった。あたしの方が優れていると断言できる。

 けれど、あたしはあの兄に勝った試しがない。

 ナスを入れない夏野菜カレーが豚肉の入っていない豚汁のようなものであることを知らないくせに、あの甘党の兄貴は『ここぞ』という時、絶対に負けられない戦いの時だけ、絶対に負けないのだ。

 小学生の頃、あたしは勉強が嫌で嫌で仕方がなかった。だから中学受験などせずに、テキトーな公立の中学校に行くつもりだった。母さんはあたしに私立に行ってもらいたかったみたいだけど、あたしはそれを拒絶した。

 確たる理由もないただの反抗心で人を傷つけるなと、兄貴は言った。

 勉強できない兄貴に受験の辛さは分からないと、あたしは言った。

 だったら、今度の全国模試で1位になってやるよと、兄貴は言った。

 全国模試で1位になれるほど勉強すれば、受験の辛さも多少は分かるだろうという馬鹿に馬鹿を重ねた理屈だった。

 そして、兄貴は本当に1位を取った。本物の馬鹿だった。

 やっぱり勉強はキツいなぁ、私立なんてやめとけ。と、得意顔で兄貴は言った。

 あたしは兄貴の意見に従うのが一番嫌だったので、私立の学校を受験した。

 そう、あの兄貴はここぞというときに、一番肝心なことを真っ先にやってくる。あの時も『あたしが自発的に中学受験をするように』全力を尽くしやがったのだ。

 最初に出会った時も……大体そんな感じだった。

 まぁ、いくらなんでもあんな約束、とっくの昔に忘れてるだろうけど。

「……………ん?」

 不意に、周囲が暗くなった気がした。

 確かに夕日が沈みかけてはいるけれど、いくらなんでも早すぎるってもんだろう。

 あたしは後ろを振り向いた。

 そこにはいつも通りの風景が広がっているだけだった。

 やっぱり気のせいだった。

「……今日は疲れてるのかな。失恋しちゃったし、さっさとカレー食べて寝よ」

 ナスとゴーヤとプリンの入ったスーパーの袋を手に、あたしは家路を急いだ。



 世界で一番底意地のひねくれた男、仙道火凪(せんどう ひなぎ)は現代の騎士である。

 鎧も盾も身につけたことはなく、剣も持たず、忠義もなく、必殺技も使えず、自慢できるものは逃げ足だけ。

 己に対する自覚すらないが、見る者が見れば分かったであろう。

 彼の誇りは、まごうことなく騎士のそれであることに。


 その誇りの名は『意地』である。


 己の感情など一切関係ない。一度決めたことは守る。それは、そういう意地だ。

 意地を守るために、少年は成長した。ただ一つの自慢である逃げ足を己が武器とし、彼女を傷つけようとするありとあらゆるものと戦い始めた

 ただの意地だけで、少年は誰よりも速く強くなった。。

「……やれやれだよ、くそったれ」

 毒づきながら、彼は最短距離を最速で走っていた。

 壁を乗り越え、道路を横断し、車を飛び越えて、人を最短動作で回避する。

 その速度は人の眼には残像しか映らないほど速い。いきなり巻き起こった突風に通行人が嫌な顔をしていた。

 罪もない通行人に謝罪しながら彼は走る。

 彼は自分の妹が大嫌いである。小憎らしいし、だらしないし、人よりなんでもできるくせにさぼっているのが気に食わない。自分の立場が悪くなると、すぐに火凪の立場が最悪になるようなことを口にするのも嫌いだった。

 なにより、あの妹がさっさと嫁がないと、自分の恋愛すらままならない。

「いつまで手間ァかけさせるつもりか。あの馬鹿は」

 人の死角に回り込み、なるべく姿を見られないようにしながら、火凪は疾走する。

 見えた。

 今まさに、化物となった野球部と思われる坊主の少年が妹に向かって左腕を振り上げていた。

 化物の身の丈は軽く三メートルを越える。肥大し筋肉らしきものが収縮した肉体に大きな鉤爪のついた左腕。顔だけが唯一、なんとか少年に見えないこともない。

 その瞳は赤黒く、まるで血のように染まっていた。

 異形の巨体。真紅の瞳。大昔の人間が見れば『鬼』と形容しただろうか。

「お前の恨みはよーく分かる。分かりすぎるほどに分かるが……」

 その左手が振るわれる前に、火凪は化物の前方に妹をかばうように回りこむ。

 そして、皮肉げに口許を緩めた。


「約束だからな。破るわけにはいかんのさ」

 

 化物の爪が振るわれる前に、火凪はキック一発で化物を上空に吹き飛ばした。

 後を追うように火凪もジャンプ。蹴りの一発で別の方向に弾き飛ばす。

 彼の妹が後ろを振り向いたのは、まさにこの時だった。

 あと数秒も振り向いていれば、上空から降ってくる兄を目撃していたであろう妹は、なにも気づかぬまま再び前を向いた。

 その幸運に感謝しながら、火凪は妹に気づかれないように音もなく着地。自分が吹き飛ばした化物の追撃を開始する。まるで風のように火凪は駆け出す。

 化物を吹き飛ばした場所は、『狙い通り』に火凪の家の近くにある、誰も使っていない空き地だった。

 その空き地には、異常事態に展開できる空間生成の結界が張ってある。

 つまり、思う存分暴れられるということ。

 火凪の到着と同時に結界が展開。世界が遮断された。

「一応言っておく。俺は今からお前をボコる。多分、全身打撲くらいで済むと思うが……まぁ、それよりひどくなったら、すまん」

 聞こえていないことは分かっているが、そう言って火凪は化物を見据える。

「GYUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」

 野球少年だった化け物がその爪を振るう。当たれば即死、あっという間にミートソースになれること間違いなしの一撃。

 火凪はその爪をギリギリで回避する。髪の毛が三本千切れ、少しだけ痛みが走る。

「この世界には、運の悪い人間というものが確かに存在する」

 振るわれる豪腕をかわしながら、火凪は少年を見据える。

「運にも色々あるが、妹は特に『男運』に恵まれていなかった。それこそ、絶望的なくらいにだ。親友に言わせると、あそこまで男運がない女は珍しいらしい」

 爪が服を掠める。袖のあたりが引き千切れるが、火凪は表情すら変えない。

「どうでもいいと思っていたさ。妹が自分の失態でがなんぼ不幸になろうが、それは俺の知ったことじゃない。俺は家族だろうがなんだろうが、どうしようもない失態まではフォローできん。……だがな」

 現代の騎士は拳を引き、目を見開いた。


「約束したんだ。守ると」


 技量の極致に達したカウンターの一撃で爪をへし折り、二撃目を顔面に叩き込む。

「故に! だからこそっ! 俺はあいつを守り抜く! あいつが笑って嫁ぐまで、あいつが優しく強い男を連れて来るまで、俺はあいつを守る! それはただの約束。必ず果たされる予定の、『ただ』で済まされる小さな約束!」

 一瞬で五発の拳を鬼に叩き込み、火凪は跳躍した。

「あいつを不幸にする奴は、全員もれなく蹴り飛ばすっ!!」

 火凪はまるでシュートを打つときのように足を振り上げる。

 昔から、逃げ足だけは速かった。それはただそれだけを鍛え上げた結果である。

「せやあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 空中で十発の蹴りを叩き込み、最後の踵落としで鬼の巨体を地面に叩き込んだ。

 断末魔を上げることもできず、人並みはずれた巨躯の鬼は、その場に轟音を響かせて倒れた。肥大化した筋肉はあっという間に縮み、瞳も元の色に戻る。

 後に残されたのは、ボコボコにされた少年だけである。

 火凪は素直に頭を下げた。

「……すまん。本っ当にすまん。俺だけは君の幸福を祈っている。まじですまん」

 聞こえてはいないだろうがひとしきり謝ってから、火凪はきびすを返す。

 戦闘時間三分。そろそろお湯がいい具合に沸騰した頃だ。

「カレーを作る時間まできっちり計算しておくとは、なかなかのシスコンぶりネィ」

「ったくよう、あの馬鹿ちゃんとプリン買ってきただろうな……」

 そう言いながら、火凪は戦いを観戦していた子供くらいのピエロの脇を通り過ぎた。

 あからさまな無視に、ピエロは顔をしかめる。

「おい、ナイト」

「なんだよ、ピエロ」

「黒幕がここにいるっていうのに何で無視なふぉあふぉあじゅふぉあおるあいっ!?」

 言い終わる前に、火凪はピエロを蹴り飛ばし、地面に着く間に三十発ほど拳で殴りつけ、地面に倒れたところを百回ほど踏みつけた。

「おい、ピエロ」

「……な、なんでしょうか?」

「今度俺をシスコンとかほざいたら冗談抜きで殺すぞ。あと、妹にちょっかいを出すのはいいが、人様に迷惑はかけんな。ボケ」

「……本当はシスコンのくせに」

 火凪はピエロをフルパワーで思い切り踏みつけた。

 ピエロは完全に地面に埋まって、動かなくなった。



 カレーを煮込みながら、俺はいつもと同じようにやれやれと肩をすくめる。

 今までに十五回ほど男を振っている妹は、男運がないらしい。

 俺は別にそうは思っていないし、妹も次の日には付き合っていた男のことを忘れているくらいだから、別にどうとも思っていないんだろう。

 男運のなさに太鼓判を押したのは、子供の頃からわりと一緒にいる親友だった。

 胡散臭い話をしよう。

 親友は、ある程度の未来予知ができる。

『すごいねぇ、彼女はとんでもない逸材だよ。どれくらいすごいかっていうと、このまま放っておくと地球人類の八分の七が死滅するくらい』

 親友曰く、どうやら妹は、色々ととんでもないことをやらかした結果、ミス・バッドエンドだとか、絶望の花嫁だとか、血塗られた聖女だとか、そういう風に呼ばれることになるらしい。

 普通ならそんなことはありえねぇと思うが、親友の言うことはわりと当たる。

 俺だって妹以外の誰かだったら確実に疑ってかかっていただろう。しかし、世界の破滅を導くのが『妹』というのならば、納得がいく。鬼畜で悪魔で魔王な俺の妹は、本気になれば人類奴隷化計画とかを平気な顔でやる人間だ。間違いない。

「兄貴、なんかひどいこと考えてない?」

「別に。隠し味はガラムマサラとコリアンダー、どっちがいいかなと思っただけだ」

「下手な小細工しないで。カレーのルゥはそのままが一番美味しいんだから」

「……………ハ」

「ちょっと待ちなさい。今、鼻で笑ったでしょ? 小学校二年の頃にみんなが百点取ってるテストで唯一0点取ったくせに」

 ちょっと立場が弱くなるとすぐに俺の弱みを出すのは、本当にやめて欲しい。

 まぁ、それはそれとして、俺はちょっと得意そうな表情を浮かべた。

「気づいてないのか? 千秋」

「なにを?」

「俺はいつもカレーを作る時には、隠し味に醤油とソースを入れている」

「っ!?」

 妹の顔が驚愕に歪み、次の瞬間には俺をぶん殴っていた。

「きききききききき貴様ァ!! カ、カレーになんていう侮辱をするんだっ!? 謝れ! 今すぐカレーの神様と王子様とお姫様とポケ●ンに土下座しろーっ!!」

「……キレるなよ、そのくらいで」

「兄貴だってあたしがプリンに醤油かけてウニとかやったらキレたじゃんっ!」

「当たり前じゃボケがァァァァァァァっ!! お前本当にプリンを侮辱するのにも程度ってもんがあるぞっ!? 謝れっ! 俺じゃなくて世界中にいるプリン好きな子供たちと日本に存在する全てのプリンメーカーにっ!!」

「プリンメーカーってなによっ!? そんなもんあるわけないじゃないっ! カレーメーカーは存在するけどっ!」

「どう考えてもそっちの方がありえねえだろっ!!」

「カレーライス一万年の歴史なめんなっ! この甘党がっ!」

「カレーライスは日本独特のもんだっ! 歴史は五百年もねぇっつーの! あと、甘党で何が悪い、この辛党がっ!」

「ばーかっ! 兄貴のばーかっ! 糖尿ーっ!」

「はい、千秋はもう味覚障害になってしまいましたー! 体臭はカレーの匂いー!」

 不毛かつまるで意味のない争いが続いていく。

 この争いは夏野菜のカレーが程よい感じに煮えるまで続くのだった。



 どこかにいる誰かにお願いします。

 妹、もらってください。

 優しくて男気に溢れている方、妹を愛する自信のある方、ぶっちゃけ愛がなくても貰ってくれるなら誰でもいいです。男女不問、妹を貰ってくれるなら超歓迎。

 先着一名。セルフサービスでどうぞ。

 ただし、不幸にしたらフルパワーでキックしますので、予めご了承ください。



 シスター・ナイト END




 今回の注訳解説はちょっと御伽噺風味


 ※0:シスター・ナイト。……サブタイトル:いいからさっさと嫁に行け。

 ※1:短編です。読み切りです。自由に想像して読んでください。

 ※2:敵はアレです。なんかそういう感じの存在です。自由に想像してください。

 ※3:兄弟姉妹っていうのは基本的にクソみたいに憎たらしいもんです。というか、人間長く付き合ってると家族に限らずそんなもんです。血の繋がらない妹や姉なんかに幻想を抱いている方は、幻想だけに留めておいてください。

 ※4:だからヒロインは可愛くない妹です。恋多き少女です。カレーが好きです。

 ※5:その兄が主人公です。蹴り技で敵を倒します。プリンが好きです。

 ※6:今は極限にまで鍛え上げた蹴り技で『鬼』と呼ばれる敵を軽々撃破していますが、彼がその決意をしたのは六歳の頃で、経験も努力もなんにもありませんでした。逃げ足が速いだけの、ただそれだけの小僧です。

 ※7:小僧だった彼は、一年で十五匹の鬼を、その逃げ足と知恵で撃破しています。

 ※8:それを成し遂げたのは意地です。ただ『小さな約束を果たすため』という理由で張り通す、男のつまんない意地です。

 ※9:けれど、意地は人を変えます。人は意地で二本の足で歩き、意地で車を作り、意地で飛行機を作ったのです。最初のほうは綺麗な理想かもしれませんでしたが、最後のほうは意地でした。『ここまでやったんだから死んでもやってやる』という、下らないけれど誰にも否定できない意地を通したのです。

 ※10:誇りを一つだけ打ち立てて、人は歩んで行くのです。

 ※11:と、いうわけで最後になりましたが、読んで頂いてありがとうございました。楽しんでいただけたら幸いです(礼)

短編です。読み切りです。

コメディ色が強いので今回もコメディです。

こういう物語もありかなと思います。

気に入っていただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] この初めにほうに出てくる眼帯の人って・・・・・・もしかして、あの凄く忌々しいハーレム男なのですか?
[一言] 主人公の性格がかっこよくて、とても面白かったです。これからも頑張ってください。
[一言] 面白かったです。できれば続きが読んでみたいかも
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