CASE3: 怪しいバイトは真夏のプールサイドで (上)
冷やし水、はじめました。
そんなキャッチコピーが、ふいに脳裏をよぎる。
ぎらぎら焼け付く太陽の日差しを浴びて、キラキラと舞う水飛沫。
無邪気にはしゃぐ声は、決して子供たちだけの専売特許ではない。それどころか老若男女が区別なく、楽しげな笑い声を弾けさせているのだ。
確かにこんな暑い日が続けば、誰だって水の中に飛び込みたくなる。
願わくば、青い海にでも向かって駆け出したいのが本音だが、生憎メジャーな海水浴場は大渋滞や芋洗いと、切っても切れない仲なのが最近の常識だ。
ならばもっとお手軽にと、人々が足を運ぶのが市民プール。
ちゃっちい、などと言ってはいけない。気軽に涼を取るには最適だし、最近はウォータースライダーなども設置され、大人も子供も揃ってきゃーきゃーと嬉しそうな黄色い悲鳴をあげているのだ。
そうでなくとも若い女性はちょっと背伸びしたセクシーな水着を見せびらかし、男性はそれを見て鼻の下を伸ばしている。
子供たちは友達同士でどれだけ長く水中に潜っていられるかを競い合って、一方引率のお父さんは昼間からビールを飲んでプールサイドで虫干しされている。
花より団子の人たちにとっては、売店で売っているフランクフルトやカキ氷を頬張るのだって楽しいものである。
もちろん俺もそんな人たちを眺めながら、
≪ピィィィィー――――ッ!!≫
笛を吹く。
『そこぉ、プールサイドで走らないっ! あと、そっちのお兄さんっ! 勢い良くプールに飛び込まないでくださいっ! あっ、こら! 子供っ、食べ物持ったまま水に入るんじゃないっ!』
メガホンを通して、俺は矢継ぎ早に注意事項を怒鳴る。
夏の日差しに脳が温まるのか、はしゃぐ客たちは次から次へと問題行動を起こし、息つく暇も見つからない。
「いちいちうるせえっての」
誰かが監視台の足を蹴り、椅子が揺れる。
慌てて手すりに掴まった俺は、声のほうを振り返るがとっくに犯人は人ゴミに紛れている。
(俺だって好きで怒鳴ってるんじゃないっつーのっ!)
短パンからのぞく足に一滴の水が落ちる。俺は首に掛けたタオルで流れる涙――ではなく、滝のような汗をぬぐった。
キャップを被り、サングラスを掛けてはいるものの、それで夏の日差しを遮れるかといったらそんな訳がない。
いくら金のためとはいえ、まったく監視員の仕事も楽ではないと、俺は深々とため息を漏らした。
日が落ち、僅かばかりでも気温が下がると思いきや、むしむしとした暑さは昼間とさほど変わらない。
バイトを終えた俺は、まっすぐ帰路についていた。
「ううむ、このバイトは失敗だったかな」
少しでも涼を求めてプールの監視員のアルバイトに応募したのだが、よくよく考えれば自分がプールに入れるわけではないし、むしろ暑い日差しの中何時間も座ってなければならないとなれば苦行に近いものがある。
お盆も過ぎ、夏休みは終盤に差し掛かっている。
学生達は残り少ない夏休みを精一杯満喫しようと、社会人はもとより少ない夏休みをどうにか充実させようと、様々なイベントを企画する。
一般的にもっとも休みが長いと言われる大学生は、いまだにのん気に遊びほうけているかもしれないが、それも先立つものがあればの話だ。
俺のような貧乏学生は、授業料を稼ぐために相変わらず休み返上でバイトバイトの日々を過ごしているのである。
「俺だってプールに入りたいんだけどな」
いや、本気で望めばそれは不可能ではないかもしれない。最近は割りのいいバイト先があるため、授業料は順調に溜まっている。だが、それでもほんの少しさえ時間に余裕があると、思わずバイトを入れてしまう、苦学生の悲しい習性なのだ。
(って、割が良いとは言わないな……)
俺は首を振って考え直す。稼ぎが良いのは間違いないが、真夏の日差しに炙られるプールの監視員とどちらがマシかと問われれば、いろんな意味で返答に迷うバイト先だ。
それならいっそ、これまでどおり安い時給で肉体に鞭打ち、良くあるその辺のガテン系のアルバイトに精を出している方が精神的には楽かもしれない。
その一秒一秒が金に変わると思えば、肌を焦がす太陽の日差しさえも逆に心地よく感じられることだろう。
もっとも。
(それもどこかの誰かさんが、バイト先まで冷やかしに来なきゃの話だけれどなっ)
と、そんな風に胸のうちでぼやいたと同時に、ふいに携帯が着信を告げる。ディスプレイを見れば、噂をすればなんとやらだ。
居留守を使ってやろうかと一瞬考えるが、さすがにそれは大人気ない。通話ボタンを押して仕方なく機体を耳に当てる俺だったが、そうするや否や、のん気な声が威勢良く耳を突き抜けた。
『健介、プールに行くぞっ!』
「だから来んじゃねぇ~~っ!!」
っていうか、お前はエスパーか。閑静な住宅地。思わず声を大にして叫んだ俺は、もちろん周辺住民の顰蹙を買った。
俺の携帯に電話してきたのは、早乙女昌彦といって俺と同じゼミの同級生だ。柔和な笑みを浮かべ、常に気遣いを忘れない奴は、『アルパカみたいで可愛いよね』と同じゼミの女性陣から高い評判を得ている。
しかしながら俺は、そんなこいつに長らく苦手意識を抱いていた。
理由としては、さりげなくブランド服を身にまとっていたり、ゼミ室にケーキやジュースなどの差し入れを惜しげもなくするような金離れの良さ。悲しき貧乏学生である俺は、そんなこいつの裕福さに、やっかみ半分の反感を抱いていたのだ。
だがそうした気持ちとは裏腹に、ひょんなことから俺はこいつのバイトを手伝うことになった。正直非常に胡散臭く、かつある意味危険なバイトではあるものの、あまりの報酬の破格さから、貧乏学生の俺はその誘惑を撥ね退けることが出来ないでいる。なんとういか、金の切れ目が来ない限り、もはやこいつと縁が切れることはないのではないだろうか。
さて、かかってきた電話であるが、よくよく話を聞けばバイト先のプールに襲来するという犯行予告ではなく、手伝いをしているもう一つのバイトの連絡だった。
怒鳴ってしまって悪いなと思う反面、気を抜くとこいつはひょいひょい俺の他のバイト先に顔を出してくるため自業自得と言えなくもない。
それはともかく、俺は早乙女の連絡を受けて、翌日昼過ぎには現場へと向かうことになった。ちなみに今回も荷物が多いため、俺がライトバンを運転することになる。
「いやぁ、やっぱり車があると便利だね。健介が居てくれてすごく助かるよ」
「俺はアッシー君かっての。お前は免許、持ってないのかよ」
「いや、持ってるには持ってるんだけどさ」
俺が怪訝そうな視線を向けたのに気付いたのだろう。早乙女は苦笑して肩をすくめる。
「オレ、人間と幽霊の区別が付かないから運転が危なくって――あ、そこを右な」
そりゃあ確かにおっかない話だと思いつつ、俺は早乙女のナビに従ってハンドルを握る。
こうやって、気付けばあっさり聞き流してしまえるくらいに慣れてしまった自分がいるが、もちろんそんなことそうそうあって溜まるか。
だがなにを隠そう、俺が手伝っているアルバイトこそ、ずばり『幽霊駆除』の仕事なのである。
もっとも俺はこのバイトを始めるまでは幽霊なんて見たことがなかったし、今だって護摩も焚けなきゃお経も唱えられない一般人だ。しかしそもそも、早乙女の行う幽霊駆除とは、漫画や小説に出てくるような霊媒師なんかの除霊とは一味も二味も違っている。
今回もまた妙な駆除作業が待っているのかと諦観の思いでいた俺だが、そこでふいに視界に写る風景に既視感を覚えた。
(なんか、どっかで見たことがある町並みのような――、)
そんなこんなを思いながら到着したのは、どこにでもあるようなのんびりとした住宅地――の中にある、ひとつの小学校。
校門から車を乗り入れ、人気のない校庭のすみに車を止めると校舎から一人の男性が出てきた。
流れる汗をひっきりなしに拭いながら、髪の毛の薄い涼しげな頭を見せ付けるように、男性は俺達にぺこぺこと頭を下げる。その瞬間、俺の記憶中枢がスパークした。
「遠いところをわざわざお越し下さいまして、ありがとうございます。私はこの学校の教頭の、島田と――、」
「ああっ! シマブー先生っ!」
既視感の理由に思い至った俺は、思わず声を張り上げ指を差す。
そんな俺の手を、すかさず早乙女はにっこり笑顔でチョップした。いつもと変わらない柔和な笑みだが、この時ばかりは目が据わっている。
いけねっ、いまはバイト中だった。すっかり忘れて声を張り上げてしまった俺は、早乙女に視線で詫びる。プロのアルバイターとして、あるまじき失態だ。
だが、俺の声にぎょっとした表情で顔を上げた島田教頭も、ぽんと手を打ち俺に話しかけた。
「お前、もしかして健介か!」
懐かしさと親しみのこもったその言葉に、俺はしっかりとうなずいてみせた。
恐らく俺の目にも、同様の色が浮かんでいた事だろう。
すっかり忘却のかなたにあったわけだが、俺はかつて短い間ながら、この町に住んでいたことがある。そしてまさしくこの小学校に通っていたのだ。もう十五年近く昔の話だ。
校舎は建て替えられ、町並みもすっかり変わってしまっていたため、ちっとも気付かなかったのもうなずける。だが、当時は俺の担任だった島田教頭の、あの涼しげな頭だけは変わらず健在であった。
「ふうん、じゃあ健介はこのプールに入ったことがあるんだ」
「いや、子供の頃は転校が多くってな。この学校にも半年くらいしか居なかったんじゃなかったかな」
秋ごろにこの小学校にやって来た俺は、プール開きの前にまた転校になってしまった。風の又三郎もかくやといった感じだ。当時、仲良くなった同級生たちと25メートルプールで競争する約束をしていたものの、結局果たせずじまいだったのも今となっては懐かしい思い出だ。
むしろ、在学一年未満で転校していった十五年近く前の生徒のことをよく島田先生は覚えていたものである。実際にそのことを当人に尋ねると、「あの年は色々あったからなぁ」と遠い目をされた。俺は、そんなに問題児だった覚えはないぞ。
ともかく、そんな悔しい思い出の残るプールサイドに俺は十五年越しで立っていた。
フェンスに巻き付くしぼんだ朝顔のつるや、その外に整列する黄色いひまわりなどが、そこはかとなく郷愁を掻き立てる。いっそ水浴びの一つでもしてはしゃぎたいところだが、いまはバイトに集中だ。先ほどはうっかり気を抜いてしまったが、遊び半分の気持ちで仕事をするのは、俺の矜持が許さない。
「大まかなことはさっき島田先生と一緒に聞いたと思うけど、今回のバイト内容について、もう一度説明するよ」
早乙女がのん気な声で、俺に声を掛ける。
ちなみに早乙女は海パンにアロハシャツ、麦藁帽子、ビーチサンダルという真面目さの欠片もない格好だ。プールに入ることになるのかと尋ねたら、単に気分の問題と答えた早乙女の返事を俺は聞かなかったことにした。
ちなみに俺はTシャツ、ハーフパンツに裸足である。焼けたプールサイドが熱いので、ビーチサンダルだけはちょっぴり羨ましい。
「ことの発端は、肝試しのために校舎に忍び込んだ生徒が、プールの水面に浮かぶ人魂を見たという事件だ」
早乙女は声を潜めると、おどろおどろしく発端となった出来事を語り始めた。