一万一回目の反逆
深い、深い、泥のような意識の底。
そこには「佐藤海斗」という個人の尊厳も、救世主としての誇りも残っていなかった あったのは、ただ延々と繰り返される「死」と「再生」という、終わりのない単純作業の残滓だけだ。
……ドクン、と。
胸の奥で、錆びついた歯車が一度だけ、無理やり回されたような感覚がした。
頬に伝わる温かな滴。それは、かつて自分が救った少女の涙だった。
その温もりが、外界との唯一の接点となり、カイトの脳内に膨大なログを強制的に流し込んでいく。
一万回分の、死の記憶。
心臓を貫かれた時の凍りつくような冷たさ。
腹を割かれた時の焼けつくような熱さ。
神経を魔力で焼かれた時の、脳が裏返るような激痛。
それらが一つにまとまり、濁流となって押し寄せた。通常なら、この瞬間に精神は蒸発し、廃人になる。だが、カイトの精神は、前世のブラック環境で培われた「最悪な生存本能」を発揮した。
(……ああ。そうだ。分析は終わっている)
怒りよりも先に、異常なほど冷めた「現状把握」が戻ってきた。
かつて深夜のオフィスで、終わらない修正依頼のメールを眺めながら、「どうせやるしかないんだ」と心を無機質な石に変えた、あの感覚。
(この三ヶ月、俺はここで『仕事』をしていたんだな。……救世主という名の、無償の消耗品として)
意識が明瞭になるにつれ、カイトの思考は「人間」から「精密機械」へと変質していった。
一万回殺される過程で、彼は無意識のうちに学習していたのだ。
魔導技師がメスを握る癖。騎士たちが剣を振り下ろす瞬間の重心。魔法が発動する際の大気の震え。
一万回分の「データ」が、彼を地獄の支配者へと書き換えていく。
「……あ、……ぁ……」
声が、漏れる。一万回、悲鳴以外に使わなかった喉が、ひび割れた音を出す。
カイトの瞳に、薄っすらと光が戻る。それは生還者の喜びではなく、「復讐を完遂させる」と決めた、冷酷な業務遂行者の光だった。
視界の隅で泣いている少女を認識する。彼女は、この地獄で唯一、自分を「部品」としてではなく「人間」として扱おうとした。
その事実が、カイトの中に残っていた「感情」の奥底に隠された、絶対に譲れない『信念』という名のプログラムに火をつけた。
カイトは、自分の手首を締め付ける重厚な魔導の鎖を見つめた。
一万回前、それは「絶対に外れない絶望」に見えた。
だが、一万回、その鎖に肉を食い込ませ、骨を砕かれ、何度も再生し直してきた今のカイトにとって、その鎖はもはや『何度も触れて、弱点を知り尽くした、古い備品』に過ぎなかった。
カチャリ、と。
静寂を切り裂いて、解体場の重い鉄扉が開いた。
「ふぅ……。全く、07の再生効率が落ちてきたな。魔力供給の術式を調整しなきゃならん……」
独り言を言いながら入ってきたのは、数時間前までカイトの腹を裂いていた若い魔導技師だった。彼は鼻歌まじりにカイトの元へ歩み寄ろうとし、そして、血の海に膝をつく少女の姿を捉えた瞬間、その顔を怒りで真っ赤に染め上げた。
「……なっ!? な、なんだ、お前は! 誰だ、こいつを入れたのは!!」
技師の叫び声が、狭い解体場に反響する。彼は信じられないものを見たというように、自分の髪を掻きむしった。
「奴隷か!? 貴様、ここをどこだと思っている! ここは王国の最重要機密区域だぞ! 掃除係が勝手に立ち入るなど、万死に値するわ!!」
技師は、床に散らばっていた解体用のメスをひったくるように掴んだ。その目は、侵入者への恐怖よりも、「自分の失態(奴隷の侵入)を隠蔽しなければならない」という卑屈な殺意に満ちていた。
「目障りな家畜め! 貴様のようなゴミに触れられて、07の『純度』が下がったらどうしてくれる! ここで殺す!」
技師が顔を歪ませ、少女の細い喉を目掛けてメスを振り上げたその時。
「誰が触れていいと言った」
地這うような声。
技師の腕が、空中で何かに固定されたかのように、ピタリと止まった。
「な……お前、意識が……」
技師の視線が、台の上で横たわっていたはずのカイトへ向く。
カイトは顔を伏せたままだ。だが、彼の手首を縛っていた魔導の鎖が、見たこともないほど激しく火花を散らし、ギリギリと悲鳴を上げている。
「動くな! 07! おとなしく寝ていろと言っているだろうが! お前はただの『部品』なんだよ!」
技師は焦りから、台の脇にある「拘束強化」のレバーを力任せに引いた。鎖から強烈な電撃と重力魔法が放たれ、カイトの肉体を台に押し潰そうとする。
普通なら骨が砕け、内臓が潰れる圧力。
だが、カイトは「無表情のまま」その圧力に抗って上半身を起こした。
バキッ、ジャラリ。
金属が千切れる音。
カイトは鎖を引きちぎったのではない。彼は一万回の死の中で、この拘束魔法が「どの波長で肉体を抑えつけているか」を、細胞レベルで理解(学習)してしまっていた。
彼はあえて自分の骨を瞬時に脱臼させ、魔法の干渉を「透かす」ようにして、拘束の死角から腕を抜き取ったのだ。
「ひ……ひぃいっ!?」
拘束を抜けたカイトの手が、目にも止まらぬ速さで技師の喉元を掴み上げた。
そのまま、自分が寝かされていた台の上へと、技師の体を叩きつける。
「……万死に値する、だったか」
カイトは、逆方向に曲がった自分の手首を、無造作にひねって「再生」させながら、技師を見下ろした。その瞳には、かつての温厚なサラリーマンの面影はなく、ただ、淡々と「害虫」を処理しようとする冷徹な光が宿っている。
「お前たちの理論で行けば……俺も、この子も、ただの『スペア』だったな。……なら、壊れても文句は言えないはずだ」
カイトの指先が、技師の首に食い込んでいく。
その時、静寂だった地下室に、激しい金属音が響き渡った。
「何事だ! 07の部屋から悲鳴が――」
鉄の扉を蹴破り、完全武装の聖騎士たちが三人、なだれ込んでくる。
彼らが見たのは、血塗れの実験台の上で、自分たちの同僚である魔導技師を無造作に絞め殺そうとしている、かつての「救世主」の姿だった。
「貴様……意識を取り戻したか! 離せ、その者は王国の重要人物だ!」
先頭の騎士が抜剣し、鋭い踏み込みと共に斬りかかる。
カイトはそれを、避けない。
ズドッ、と重い音がして、騎士の長剣がカイトの左肩から胸元まで深く食い込んだ。
傍らで見ていた少女が悲鳴を上げる。だが、カイトの表情は、鏡のように無機質なままだった。
「……一万回も斬られれば、嫌でも覚える。……お前たちの剣筋は、教本通りで読みやすい」
「な……っ!?」
カイトは自分を斬った剣を、再生し始めた肉体で「噛む」ようにして固定した。
剣が抜けない。驚愕で動きを止めた騎士の首を、カイトは自由な右手で、まるで熟した果実を摘むような動作で掴んだ。
ミシミシ、と骨が軋む音が響く。
「予測しやすい『攻撃』だな。……一万回、一万回だ。この痛みだけをマニュアル化してきたんだからな」
カイトは騎士の首をへし折り、そのまま奪った剣を自分の体から引き抜いた。
切断された血管から血が噴き出すが、彼が次の一歩を踏み出した時には、その傷口からは既に新しい肉が盛り上がり、傷跡すら消えかかっている。
「化け物……! 化け物め!!」
残る二人の騎士が、恐怖をかき消すように魔法の炎を纏った槍を突き出す。
カイトは奪ったばかりの長剣を、流れるような動作で振るった。
それは、彼が前世で剣など握ったことがないはずの男だとは信じられない、洗練された剣技だった。
否、それは「技」ですらない。
一万回殺される中で『どの角度で斬れば、人は最も効率的に死ぬか』を、自分の肉体を解体書として学習してしまった、究極の「効率化」の結実だった。
一閃。
槍の穂先が飛び、続く二閃で騎士たちの喉笛が同時に裂かれた。
崩れ落ちる鋼鉄の鎧。
血の海の中で立ち尽くすカイトは、返り血を拭うことさえせず、ただ倒れた騎士たちが持っていた「資源」を確認するように見下ろした。
「……これで、今日のノルマは達成かな」
かつて彼を「部品」と呼んだ者たちが、今はただの動かない「肉」として床に転がっている。
カイトは、恐怖で腰を抜かしている少女にゆっくりと歩み寄り、血のついていない方の手を、優しく差し出した。
「……怖がらせて、済まない。もう、誰も君を『ゴミ』とは呼ばせない」
その声は、騎士たちを屠った時の冷酷な響きとは異なり、かつて路地裏で彼女に笑いかけた「カイト」のものだった。少女は震える指先で、彼に贈られた重いマントを握りしめ、言葉にならない嗚咽を漏らした。
「……か、カイト様……。わたしたち、どうなるの……?」
「どうにもならない。……ただ、辞職するだけだ。この最悪な職場をな」
カイトは奪った剣を杖代わりにつき、暗く長い地上への階段を見上げた。
その階段は、かつて彼が「救世主」として盛大に迎え入れられ、そして裏切られて引きずり降ろされた、偽りの栄光へと続く道だ。
一万回の死を経て、カイトは理解していた。
この国は、彼を「神」として崇めるか、「部品」として使い潰すかの二択しか用意していない。そこに一人の人間としての居場所など、最初から無かったのだ。
(……一万一回目。ここからは、俺の『裁量』で動かせてもらう)
カイトは、少女の手をしっかりと握った。
彼女の手は冷たく、けれど生きていた。カイトがこの地獄で唯一守り抜いた、たった一つの「成果」だった。
「……名前、まだ聞いてなかったな。君に似合うものを、一緒に考えよう。……俺たちが、部品じゃなく『人間』として生きていくために」
「……はい、……はいっ……!」
カイトは、少女を庇うようにして最初の一歩を刻んだ。
階段を一段上るごとに、再生し続ける肉体が軋み、一万回分の痛みが脳を焼く。だが、その痛みこそが、彼が「生きている」証だった。
地下の闇を抜け、地上に辿り着いた時、夜明け前の冷たい風が二人の頬を撫でた。
遠くで、交代の騎士たちの足音が聞こえる。まもなく、地下の惨状が露見し、王国全土に「救世主の反逆」が知れ渡るだろう。
カイトは振り返ることなく、王宮の影が落ちる城下町の方角を見つめた。
彼の背中には、もう「社畜」の悲哀も、「聖者」の慈悲も残っていなかった。




