一万一回目の再会
私の世界には、色がなかった。
視界にあるのは、冬の朝のような冷たい灰色と、こびりついて離れない泥の黒だけ。
物心がつく前から、私の手足には細い鎖が繋がれていた。
生まれつきの奴隷。それが私のすべてだった。私には、親から与えられた名前も、誕生日を祝う記憶もない。「おい」、「そこの」、「家畜」。あるいは、歩くたびにジャラリと鳴る鎖の音。それが、この世界が私を呼ぶための言葉だった。
ある日、無理やり押し付けられたのは、肌を焼く鉄の匂いだった。
抑えつけられ、鎖骨のすぐ下に熱せられた鉄を押し当てられた時、私は声にならない悲鳴を上げた。肉が焦げる嫌な臭いと共に刻まれたのは、聖王国の紋章を歪めたような【奴隷の焼印】。
「よし、これでこいつも『備品』扱いだ。死ぬまで使い潰せよ」
大人が笑いながらそう言ったのを覚えている。
この焼印は、この国において「人間ではない」という残酷な証明書だ。一度これが刻まれれば、誰も私の目を見なくなる。街を歩けば、親が子供の目を覆い、通りすがりの男たちは汚物を見るような目で石を投げる。
私の仕事は、誰の目にも映らない暗がりの掃除だ。
豪華な宮殿の裏側で、貴族たちが吐き捨てた食べかすを拾い、彼らが汚した床を這いつくばって磨く。爪の間に泥と脂が溜まり、膝の皮膚が硬く剥けても、休むことは許されない。
痛いのは、体が壊れることではない。
自分が「生きている人間」だと証明する術が、どこにもないことだった。
感情を殺し、思考を止め、ただ家畜のように指示に従う。そうしなければ、この絶望の中で正気を保つことなんてできなかったから。
私は、誰かに使い潰され、ゴミのように捨てられて死ぬためだけに生きている。
そう信じていたし、それ以外の未来なんて、想像することさえ罪だと思っていた。
あの日も、世界はいつも通りに私を拒絶していた。
使い古された麻袋のように、私は路地裏の泥濘に転がされていた。
運んでいた荷物が重すぎたのか、それとも数日まともに食べていない体が限界だったのか。ぶちまけてしまった果実の汚れを、男たちが私の顔に擦りつける。
「この、役立たずの家畜が! これだから奴隷は!」
「ひっ、……あ、あう……っ」
硬い靴底が脇腹に食い込む。肺から空気が漏れ、泥が口の中に入り込む。
私は反射的に体を丸め、嵐が過ぎ去るのを待った。痛い、苦しい、助けて。そんな言葉は、とうの昔に喉の奥に埋めた。願えば願うほど、叶わなかった時の絶望が深くなることを知っていたから。
けれど、その日の空は、いつもと違う音を響かせた。
「やめろ!」
それは、この街の誰もが持っていない、凛とした怒りの声だった。
重い衝撃音がして、私を蹴っていた男たちがたじろぐ。泥にまみれた視界の端に、見たこともないほど綺麗な、けれどどこか親しみやすい「人間」の靴が見えた。
「あん? なんだお前、余所者か。こいつは俺たちの金で買った『家畜』だ。何しようが勝手だろ」
「家畜……? 人間だろうが。……いくらならいい。こいつを離せ」
信じられない言葉だった。
この国の人は、私を「掃除道具」か「石ころ」のようにしか見ない。なのに、その人は私を指して、はっきりと『人間』だと言ったのだ。
投げ与えられた金貨の袋に目が眩んだ男たちが、捨て台詞を吐いて去っていく。
路地裏に、静寂が訪れた。
心臓の音だけが、耳の奥でうるさく鳴っている。
その人は、私の前に膝をつき、目線を合わせてきた。
「大丈夫か? ……立てるか」
差し出された、大きくて温かそうな手。
私は怯えて肩を震わせた。触れれば汚してしまう。この人はきっと、私の鎖骨にある焼印を見れば、他の人と同じように顔を顰めて立ち去るに違いない。
けれど、その人は違った。
私の醜い焼印を真っ直ぐに見つめ、それから、困ったように少しだけ笑ったのだ。
「お気になさらず。俺もつい昨日まで、似たような『使い捨て(社畜)』でしたから。……これからは、自分を大切にしろよ」
その人は、近くの井戸から汲んできた水で、私の泥だらけの手を丁寧に、壊れ物を扱うように洗ってくれた。
冷たいはずの水が、彼の手のひらを通じて、驚くほど温かく感じられた。
「自分を、大切に。」
生まれて初めて言われた、許しの言葉。
私の頭を優しく撫でるその感触に、凍りついていた心の一番奥が、音を立てて溶け出していくのが分かった。
顔を上げると、そこには透き通るような青空が広がっていた。
いや、私の目に映る世界が、彼という光を通して、初めて鮮やかな色を取り戻したのだ。
(……温かい……。この人は……だれ……?)
去っていく彼の背中を、私はただ、涙で滲む視界で見つめていた。
名前も知らない。けれど、あの日から私の祈りは、たった一人の「彼」に捧げられるようになった。
あの日、彼は私を自由にしてくれた。
けれど、身分証も家もない行き倒れの奴隷が、この国で一人で生きていく術などなかった。結局、私は城下町の衛兵に見咎められ、再び「王宮の清掃奴隷」として城へ連れ戻されてしまった。
ただ、以前と違ったのは、私が「新しく来た救世主様が直々に買い取った奴隷」だという噂が広まっていたことだ。
「カイト様が療養されている間、お前がその部屋の周辺を掃除しろ。……お気に入りの奴隷なら、騒がれても面倒だからな」
それが、皮肉にも私を彼に近づけた。
けれど、カイト様が「静養」しているという離宮の寝所には、一向に本人が現れる気配がない。それどころか、部屋には誇りが積もり、届けられる豪華な食事は、騎士たちが自分たちの酒の肴として平らげていた。
(……おかしい。カイト様は、どこにいるの?)
ある日、私は見てしまった。
宮殿の裏手にある、忌まわしい「廃棄物処理場」のゴミ山の中に、カイト様が転生した時に着ていた、あの不思議な布地の衣服が、無造作に捨てられているのを。
それは、血で汚れ、ズタズタに切り裂かれていた。
「おい、さっさと片付けろ。……例の『不滅の標本』の処理は、深夜に地下で行うことになった。一般の奴隷には絶対に見せるなよ」
通りすがりの魔導技師たちの、小声を潜めた会話。
彼らは、私がただの「意志を持たない清掃道具」だと信じ込んでいるから、私の前で平気で秘密を口にする。
私の血が、一気に凍りついた。
『不滅の標本』。
カイト様は、病気なんかじゃない。
あの人たちが「救世主」と呼んで崇めていたのは、彼をこの国に閉じ込め、飽きるまで壊し続けるための、ただの呼び名だったのだ。
(行かなきゃ。あんな場所、絶対にいちゃいけない)
私は、手に持った汚れた雑巾を握りしめた。
深夜。見張りの騎士たちが酒を飲んで居眠りをする時間。
私は、掃除用具を運ぶ大きな荷車に身を隠し、王宮の華やかな床の下に潜む、血塗られた地下へと、音もなく滑り込んだ。
地下の最深部、重い鉄門の向こう側は、言葉を絶する地獄だった。
掃除用の荷車から這い出した私の鼻を突いたのは、むせ返るような血の熱気と、焦げた肉の臭い。
石造りの床には幾筋もの「赤い溝」ができ、それが部屋の中央にある冷たい実験台へと繋がっていた。
そこに、彼はいた。
「……あ……」
声が、出なかった。
台の上に固定されていたのは、私が憧れた救世主様の姿ではなかった。
何度も裂かれ、そのたびに歪に再生を繰り返した肉体。執拗な実験の痕跡が、彼の全身を無惨な模様で覆っている。
一番恐ろしかったのは、彼の「目」だった。
かつて私を人間として見つめてくれた、あの温かな瞳には、もう光の一滴も宿っていない。
一万回。一万回も、彼はここで一人きりで殺され続けたのだ。
意識はあっても心はどこか遠い場所へ逃げてしまったような、空っぽの、ただの「肉の器」。
「カイト、さま……」
私は血の海に膝をつき、夢中で彼に歩み寄った。
見張りがいつ戻ってくるか分からない。けれど、今の私にはそんな恐怖よりも、目の前で壊れてしまった彼に触れたいという衝動しかなかった。
私は、震える手で彼の頬を包み込んだ。
かつて彼が、泥だらけの私の手を洗ってくれたように。
今度は私が、涙で濡れた手のひらで、彼の顔にこびりついた乾いた血を拭っていく。
「……見つけ、ました……。カイト様……お迎えに、来ました……」
彼に反応はない。視線は虚空を彷徨い、私の存在さえ認識していないようだった。
それでも、私は諦めなかった。
鎖骨にある焼印が、彼の肌に触れて熱く疼く。
この呪いのような印があるから、私はあなたと出会えた。この印があるから、私はあなたの痛みが、自分のことのように分かる。
「あなたは……部品なんかじゃない。……私を、助けてくれた……世界でたった一人の、人間です……!」
私は彼の胸に顔を埋め、必死に名前を呼び続けた。
かつて彼がくれた「温もり」を、今度は私が、私の全部を使って彼に返したかった。
どれほどの時間が経っただろう。
絶望の底で、奇跡は起きた。
ドクン。
死んだように静かだった彼の胸の奥で、一度だけ、力強い鼓動が跳ねた。
「……ぁ……」
掠れた、けれど確かな吐息。
光を失っていた彼の瞳が、ゆっくりと動き、私を捉えた。
一万回殺されても、決して壊れなかった「社畜の魂」が、少女の涙という最後のスイッチによって、一万一回目の再起動を果たしたのだ。
「……君……は……」
その声を聞いた瞬間、私は確信した。
地獄は、ここで終わる。
いや。ここから、彼らの地獄を始めるのだ。




