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不滅社畜の異世界生活   作者: ねと


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2/3

一万一回目の再会

私の世界には、色がなかった。

視界にあるのは、冬の朝のような冷たい灰色と、こびりついて離れない泥の黒だけ。


物心がつく前から、私の手足には細い鎖が繋がれていた。

生まれつきの奴隷。それが私のすべてだった。私には、親から与えられた名前も、誕生日を祝う記憶もない。「おい」、「そこの」、「家畜」。あるいは、歩くたびにジャラリと鳴る鎖の音。それが、この世界が私を呼ぶための言葉だった。


ある日、無理やり押し付けられたのは、肌を焼く鉄の匂いだった。

抑えつけられ、鎖骨のすぐ下に熱せられた鉄を押し当てられた時、私は声にならない悲鳴を上げた。肉が焦げる嫌な臭いと共に刻まれたのは、聖王国の紋章を歪めたような【奴隷の焼印】。


「よし、これでこいつも『備品』扱いだ。死ぬまで使い潰せよ」


大人が笑いながらそう言ったのを覚えている。

この焼印は、この国において「人間ではない」という残酷な証明書だ。一度これが刻まれれば、誰も私の目を見なくなる。街を歩けば、親が子供の目を覆い、通りすがりの男たちは汚物を見るような目で石を投げる。


私の仕事は、誰の目にも映らない暗がりの掃除だ。

豪華な宮殿の裏側で、貴族たちが吐き捨てた食べかすを拾い、彼らが汚した床を這いつくばって磨く。爪の間に泥と脂が溜まり、膝の皮膚が硬く剥けても、休むことは許されない。

 

痛いのは、体が壊れることではない。

自分が「生きている人間」だと証明する術が、どこにもないことだった。

感情を殺し、思考を止め、ただ家畜のように指示に従う。そうしなければ、この絶望の中で正気を保つことなんてできなかったから。


私は、誰かに使い潰され、ゴミのように捨てられて死ぬためだけに生きている。

そう信じていたし、それ以外の未来なんて、想像することさえ罪だと思っていた。

  



あの日も、世界はいつも通りに私を拒絶していた。




使い古された麻袋のように、私は路地裏の泥濘ぬかるみに転がされていた。

運んでいた荷物が重すぎたのか、それとも数日まともに食べていない体が限界だったのか。ぶちまけてしまった果実の汚れを、男たちが私の顔に擦りつける。


「この、役立たずの家畜が! これだから奴隷は!」

「ひっ、……あ、あう……っ」


硬い靴底が脇腹に食い込む。肺から空気が漏れ、泥が口の中に入り込む。

私は反射的に体を丸め、嵐が過ぎ去るのを待った。痛い、苦しい、助けて。そんな言葉は、とうの昔に喉の奥に埋めた。願えば願うほど、叶わなかった時の絶望が深くなることを知っていたから。


けれど、その日の空は、いつもと違う音を響かせた。


「やめろ!」


それは、この街の誰もが持っていない、凛とした怒りの声だった。

重い衝撃音がして、私を蹴っていた男たちがたじろぐ。泥にまみれた視界の端に、見たこともないほど綺麗な、けれどどこか親しみやすい「人間」の靴が見えた。


「あん? なんだお前、余所者か。こいつは俺たちの金で買った『家畜』だ。何しようが勝手だろ」

「家畜……? 人間だろうが。……いくらならいい。こいつを離せ」


信じられない言葉だった。

この国の人は、私を「掃除道具」か「石ころ」のようにしか見ない。なのに、その人は私を指して、はっきりと『人間』だと言ったのだ。

投げ与えられた金貨の袋に目が眩んだ男たちが、捨て台詞を吐いて去っていく。


路地裏に、静寂が訪れた。

心臓の音だけが、耳の奥でうるさく鳴っている。

その人は、私の前に膝をつき、目線を合わせてきた。


「大丈夫か? ……立てるか」


差し出された、大きくて温かそうな手。

私は怯えて肩を震わせた。触れれば汚してしまう。この人はきっと、私の鎖骨にある焼印を見れば、他の人と同じように顔を顰めて立ち去るに違いない。


けれど、その人は違った。

私の醜い焼印を真っ直ぐに見つめ、それから、困ったように少しだけ笑ったのだ。


「お気になさらず。俺もつい昨日まで、似たような『使い捨て(社畜)』でしたから。……これからは、自分を大切にしろよ」


その人は、近くの井戸から汲んできた水で、私の泥だらけの手を丁寧に、壊れ物を扱うように洗ってくれた。

冷たいはずの水が、彼の手のひらを通じて、驚くほど温かく感じられた。


「自分を、大切に。」


生まれて初めて言われた、許しの言葉。

私の頭を優しく撫でるその感触に、凍りついていた心の一番奥が、音を立てて溶け出していくのが分かった。

 

顔を上げると、そこには透き通るような青空が広がっていた。

いや、私の目に映る世界が、彼という光を通して、初めて鮮やかな色を取り戻したのだ。


(……温かい……。この人は……だれ……?)


去っていく彼の背中を、私はただ、涙で滲む視界で見つめていた。

名前も知らない。けれど、あの日から私の祈りは、たった一人の「彼」に捧げられるようになった。



あの日、彼は私を自由にしてくれた。



けれど、身分証も家もない行き倒れの奴隷が、この国で一人で生きていく術などなかった。結局、私は城下町の衛兵に見咎められ、再び「王宮の清掃奴隷」として城へ連れ戻されてしまった。


ただ、以前と違ったのは、私が「新しく来た救世主様が直々に買い取った奴隷」だという噂が広まっていたことだ。

 

「カイト様が療養されている間、お前がその部屋の周辺を掃除しろ。……お気に入りの奴隷なら、騒がれても面倒だからな」


それが、皮肉にも私を彼に近づけた。

けれど、カイト様が「静養」しているという離宮の寝所には、一向に本人が現れる気配がない。それどころか、部屋には誇りが積もり、届けられる豪華な食事は、騎士たちが自分たちの酒の肴として平らげていた。


(……おかしい。カイト様は、どこにいるの?)


ある日、私は見てしまった。

宮殿の裏手にある、忌まわしい「廃棄物処理場」のゴミ山の中に、カイト様が転生した時に着ていた、あの不思議な布地の衣服スーツが、無造作に捨てられているのを。

 

それは、血で汚れ、ズタズタに切り裂かれていた。

 

「おい、さっさと片付けろ。……例の『不滅の標本スペア』の処理は、深夜に地下で行うことになった。一般の奴隷には絶対に見せるなよ」


通りすがりの魔導技師たちの、小声を潜めた会話。

彼らは、私がただの「意志を持たない清掃道具」だと信じ込んでいるから、私の前で平気で秘密を口にする。

 

私の血が、一気に凍りついた。

『不滅の標本』。

 

カイト様は、病気なんかじゃない。

あの人たちが「救世主」と呼んで崇めていたのは、彼をこの国に閉じ込め、飽きるまで壊し続けるための、ただの呼び名だったのだ。


(行かなきゃ。あんな場所、絶対にいちゃいけない)


私は、手に持った汚れた雑巾を握りしめた。

深夜。見張りの騎士たちが酒を飲んで居眠りをする時間。

私は、掃除用具を運ぶ大きな荷車に身を隠し、王宮の華やかな床の下に潜む、血塗られた地下へと、音もなく滑り込んだ。

地下の最深部、重い鉄門の向こう側は、言葉を絶する地獄だった。

 

掃除用の荷車から這い出した私の鼻を突いたのは、むせ返るような血の熱気と、焦げた肉の臭い。

石造りの床には幾筋もの「赤い溝」ができ、それが部屋の中央にある冷たい実験台へと繋がっていた。


そこに、彼はいた。


「……あ……」


声が、出なかった。

台の上に固定されていたのは、私が憧れた救世主様の姿ではなかった。

何度も裂かれ、そのたびに歪に再生を繰り返した肉体。執拗な実験の痕跡が、彼の全身を無惨な模様で覆っている。


一番恐ろしかったのは、彼の「目」だった。

かつて私を人間として見つめてくれた、あの温かな瞳には、もう光の一滴も宿っていない。

一万回。一万回も、彼はここで一人きりで殺され続けたのだ。

意識はあっても心はどこか遠い場所へ逃げてしまったような、空っぽの、ただの「肉の器」。


「カイト、さま……」


私は血の海に膝をつき、夢中で彼に歩み寄った。

見張りがいつ戻ってくるか分からない。けれど、今の私にはそんな恐怖よりも、目の前で壊れてしまった彼に触れたいという衝動しかなかった。


私は、震える手で彼の頬を包み込んだ。

かつて彼が、泥だらけの私の手を洗ってくれたように。

今度は私が、涙で濡れた手のひらで、彼の顔にこびりついた乾いた血を拭っていく。


「……見つけ、ました……。カイト様……お迎えに、来ました……」


彼に反応はない。視線は虚空を彷徨い、私の存在さえ認識していないようだった。

それでも、私は諦めなかった。

鎖骨にある焼印が、彼の肌に触れて熱く疼く。

この呪いのような印があるから、私はあなたと出会えた。この印があるから、私はあなたの痛みが、自分のことのように分かる。


「あなたは……部品なんかじゃない。……私を、助けてくれた……世界でたった一人の、人間です……!」


私は彼の胸に顔を埋め、必死に名前を呼び続けた。

かつて彼がくれた「温もり」を、今度は私が、私の全部を使って彼に返したかった。


どれほどの時間が経っただろう。

絶望の底で、奇跡は起きた。


ドクン。


死んだように静かだった彼の胸の奥で、一度だけ、力強い鼓動が跳ねた。

 

「……ぁ……」


掠れた、けれど確かな吐息。

光を失っていた彼の瞳が、ゆっくりと動き、私を捉えた。

一万回殺されても、決して壊れなかった「社畜の魂」が、少女の涙という最後のスイッチによって、一万一回目の再起動リブートを果たしたのだ。


「……君……は……」


その声を聞いた瞬間、私は確信した。

地獄は、ここで終わる。

いや。ここから、彼らの地獄を始めるのだ。

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