コンマ五秒の永遠
「……カイト君。君の代わりなんて、いくらでもいるんだよ?」
上司のその言葉は、もはや鼓膜を震わせるだけの無意味な振動だった。
深夜二時。オフィスビルを照らす蛍光灯の青白い光が、デスクに突っ伏したカイトの視界を刺す。
佐藤海斗は、都内の中堅IT企業に勤める、どこにでもある「部品」だった。
三日間不眠不休。胃に流し込んだのは、濃い目のブラックコーヒーと、気休めの栄養ドリンクだけ。
心臓が不規則なビートを刻み、指先はキーボードを叩く感覚を忘れている。
「明日までにこの仕様変更、終わらせておいてね。あ、有給? 君、今この状況でそんなこと言える立場だと思ってるの?」
上司の背中を見送る気力もなかった。
カイトはただ、液晶画面に映る無機質なコードの羅列を見つめていた。
(代わり……か。そうだよな。俺が今日ここで消えたって、明日には新しい誰かがこの席に座って、同じようにキーボードを叩くだけだ)
感情を殺す。痛みを無視する。思考を止める。
それが、この「ブラック企業」という戦場で生き残るためにカイトが身につけた、唯一のスキルだった。
ふと、視界が歪んだ。
心臓が、一度だけ大きく跳ね、その後――すべての音が消えた。
(ああ、やっと……「退職」できるのか……)
床に沈んでいく感覚の中で、カイトは生まれて初めて、深い安らぎを感じていた。
だが、その「安らぎ」は数秒も持たなかった。
「……目覚められたか! 聖なる転生者様が、目をお開けになったぞ!」
騒がしい声に、カイトは重い瞼を持ち上げた。
オフィスの埃っぽい匂いではない。高貴な香香と、柔らかな日の光。
天井を見上げれば、見たこともない壮麗なフレスコ画が広がっている。
カイトが横たわっていたのは、都内のワンルームマンション一ヵ月分の家賃よりも高そうな、シルクの寝具だった。
「気分はいかがかな、カイト殿。……いや、『救世主様』とお呼びすべきかな?」
傍らに立っていたのは、立派な髭を蓄えた、王冠を戴く老人だった。
その背後には、銀の甲冑に身を包んだ騎士たちがずらりと並び、一斉に膝を突いて頭を垂れている。
(異世界……転生? まさか、俺が……?)
混乱するカイトを余所に、王は慈愛に満ちた笑みを浮かべて、彼の肩に手を置いた。
「驚くのも無理はない。貴殿はこの国を救うため、星の彼方から招かれた特別な存在だ。」
窓の外を見れば、城下町の広場まで人々が溢れ、カイトの降臨を祝う祭りが始まっていた。
「さあ、カイト殿。まずは貴殿の来訪を祝し、宴を開こうではないか。この国は貴殿を歓迎する。貴殿の望むものは何でも与えよう」
昨夜まで、深夜のオフィスでブラックコーヒーを啜りながら「ゴミ」のように扱われていた自分が、今は大勢の貴族たちに崇められている。
(……ああ、よかった。今度こそ、俺は……大切にされる場所に来られたんだ)
ふかふかのソファに身を預け、カイトは安堵の溜息を漏らした。
窓の外では、自分の名を呼ぶ民衆の声が遠く鳴り響いている。
これまでの人生、自分は常に「誰かのための歯車」だった。
けれど今は違う。ここでは自分が主役なのだ。
「カイト様、少しお疲れのようですね。次の式典まで少し時間がございます。お一人で休まれますか?」
給仕の言葉に、カイトはふと思いついた。
「……ああ。少し、この国の風を感じてきたいんだ。一人で歩いてもいいかな?」
前世では、深夜のオフィスからコンビニへ行く数分間だけが、唯一許された「外の空気」だった。
せっかく手に入れた新しい人生だ。自分を歓迎してくれているこの街を、自分の足で歩いてみたい。
カイトは「少し休む」と嘘をついて、用意された煌びやかな正装の上から、目立たない茶色のマントを羽織った。
警護の騎士たちの目を盗み、通用門を抜ける。その足取りは、前世の重苦しい通勤風景とは正反対の、弾むような軽やかさだった。
「ふぅ……。夢みたいだ。あんなに丁重に扱われるなんて、前世じゃ考えられなかったな」
石畳の道、行き交う馬車、活気あふれる市場。
カイトの目に映る異世界は、まるでファンタジー映画のセットのように輝いていた。
宮殿の重苦しい空気から解放され、カイトは初めて自分の「新しい人生」を実感していた。
だが、大通りを外れ、路地裏へと足を踏み入れたとき――その光景は一変した。
「……っ、この、ノロマが!」
「ひっ、……あ、あう……っ」
汚濁の溜まった路地。数人の男たちが、地面にうずくまる小さな影を蹴り飛ばしていた。
カイトの足が止まる。
そこにいたのは、ぼろきれのような服を纏った少女だった。
白かったはずの肌は泥にまみれ、何より目を引いたのは、その鎖骨のあたりに赤黒く盛り上がった、不気味な【焼印】だった。
「おら、立てよ! これだから奴隷は使い物にならねぇんだ!」
「……ご、ごめんなさ……っ」
男たちが再び足を振り上げた瞬間、カイトの体が勝手に動いていた。
「やめろ!」
カイトが間に割って入ると、男たちは面食らった顔で足を止めた。
「あん? なんだお前、余所者か。こいつは俺たちの金で買った『家畜』だ。何しようが勝手だろ」
「家畜……? 人間だろうが。……いくらならいい。こいつを離せ」
カイトは宮殿で持たされた金貨の袋を無造作に投げつけた。
社畜時代、理不尽に踏みつけられる苦しみを知っていたカイトにとって、この光景は他人事とは思えなかったのだ。
金に釣られた男たちが去った後、路地には静寂が訪れた。
カイトは膝をつき、震える少女にそっと手を差し伸べる。
「大丈夫か? ……立てるか」
少女は怯えたように肩を震わせ、カイトの手を見つめた。
この国では、奴隷は石を投げられる対象でしかない。手を差し伸べる者など、これまで一人もいなかったのだ。
「……あ……う……」
少女は躊躇いながらも、カイトの大きな手に、自らの泥だらけの小さな手を重ねた。
「お気になさらず。俺もつい昨日まで、似たような『使い捨て(しゃちく)』でしたから。……これからは、自分を大切にしろよ」
カイトは手近な井戸から汲んだ水で彼女の手を洗い、優しく笑いかけた。
少女の瞳に、初めてカイトの姿が鮮明に映る。
それは、焼印を見ても顔を背けず、自分を「人間」として扱ってくれた、初めての温もりだった。
(……温かい……。この人は……だれ……?)
カイトにとっては、数分間の気まぐれな善行。
だが、この瞬間、少女の中でカイトは「唯一の光」として刻み込まれた。
「じゃあな。元気で」
カイトは彼女の頭を軽く撫で、宮殿へと戻っていった。
少女は、カイトが去った後も、洗われた自分の手をいつまでも、いつまでも大切そうに見つめていた。
それが、次に彼と出会う場所が「地獄の底」であることを、まだ二人は知らない。
大広間に戻ると、王は満面の笑みでカイトを迎え入れた。
「おお、カイト殿! どこへ行っておられた。主役が不在では宴が締まらぬではないか!」
拍手喝采の中、カイトは再び上座へと案内される。
テーブルには、見たこともない豪華な肉料理や果実が山のように積まれていた。前世の深夜、コンビニの冷えた弁当をかき込んでいた生活が、まるで遠い前世……いや、悪い夢だったかのように思える。
「さあ、カイト殿。仕上げに、我が国に伝わる最上の美酒で乾杯しよう。これぞ、異世界から来られた貴殿と、我が王国の永遠の絆を祝す杯だ!」
王自らが、金色の装飾が施された美しい杯に、深紅の液体を注ぐ。
それは血のように赤く、どこか甘い香りがした。
「……ありがとうございます。この国の皆さんの温かさ、一生忘れません」
カイトは心からの感謝を込めて、その杯を手に取った。
疑いなど、微塵もなかった。
自分を必要としてくれる場所。自分を「部品」ではなく「救世主」と呼んでくれる人々。
カイトは一気に、その液体を飲み干した。
大広間での宴は、最高潮に達していた。
カイトの隣では王が朗らかに笑い、給仕たちは次々と豪華な料理を運んでくる。
「カイト殿、少し飲みすぎたかな? 顔色が優れぬようだ」
王が親切そうに声をかけてきた。実際、慣れない立ち振る舞いと熱気で、カイトの鼓動は少し早まっていた。
「……すみません、少し風に当たりたいのですが」
「おお、それは失敬した。では、奥の離宮にある静かなテラスで休まれるが良い。案内させよう」
王の合図で、一人の物静かな老魔術師がスッと歩み寄ってきた。
カイトは周囲の貴族たちに「少し失礼します」と会釈し、温かい拍手に見送られながら、賑やかな広間を後にした。
静かな廊下。
喧騒が遠ざかり、魔法の灯火だけが壁を照らしている。
「……ここです、カイト様。冷たい水を用意させました」
案内された小部屋で、老魔術師が銀のカップを差し出す。
カイトは何の疑いもなく、その水を一気に飲み干した。
「……あ?」
喉を通った瞬間、内臓を氷の針で刺されたような、形容しがたい違和感が走った。
視界がぐにゃりと歪む。
手に持っていた銀のカップが、床に落ちて鈍い音を立てた。
「……が……はっ……な、何を……」
力が抜けたカイトの体を、老魔術師が冷徹な手つきで支え、そのまま床へ転がした。
「カイト様は、急な体調不良により離宮にて静養される。……表向きは、そういうことになっております」
背後から、聞き慣れた王の声がした。
いつの間にか部屋に入ってきた王は、さっきまでの慈愛に満ちた表情を捨て、最新鋭の「機材」を検品するような冷酷な目でカイトを見下ろしていた。
「……ま、待て……っ……!」
「案ずるな、カイト殿。その薬は、神経を麻痺させ、意識を保ったまま肉体を固定するものだ。……貴殿の『不滅』を確かめるには、これが一番効率的でな」
王がカイトの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「予言は正しかった。貴殿の体には、凄まじい再生の魔力が宿っている。……死なない。何度壊しても、元通りになる。これほど素晴らしい『魔導兵器の部品』は、他にいない」
(部品……? 今、なんて……)
「連れて行け。地下の『解体場』へ。……今日から貴殿は『スペア07』だ。……01から06までは、三日と持たずに精神が壊れたが……社畜とやらの粘り強さ、見せてもらおうではないか」
カイトの叫びは、麻痺した喉を震わせることもできず、掠れた吐息となって消えた。
隠し扉が開き、数人の無言の騎士たちが、カイトを袋に詰めるようにして暗い地下へと運び去る。
表ではまだ、救世主の降臨を祝う音楽が鳴り響いている。
カイトという「人間」が消え、一人の「消耗品」が誕生したことに、誰も気づかないまま。
石造りの冷たい台の上に、カイトは鎖で固定されていた。
体は動かない。声も出ない。だが、五感だけは異常なほどに冴え渡っていた。
「……さあ、始めようか。スペアの耐久試験だ」
白衣を着た魔導技師が、無機質な手つきでメスを握る。
王国の魔導兵器を強化するため、あるいは新たな魔力を抽出するため。
カイトの「不滅の肉体」は、文字通り『資源』として扱われた。
「ぎ、あ、ぁぁあああああああああ!!」
喉の麻痺が解かれたのは、悲鳴を上げるためではなく、ショック死を防ぐための魔力を流し込むためだった。
腹を裂かれ、内臓を摘出され、骨を砕かれる。
普通なら一秒で意識を失う激痛。だが、カイトの体は神のギフトによって、失われた部位を即座に、完璧に再生させてしまう。
「ほう、素晴らしい再生速度だ。心臓を止めても三秒で動き出す。これなら、一日百回は『素材』を採取できるな」
技師たちは、カイトを人間だとは思っていない。
壊れても元通りになる、最高性能の『自動再生部品』。
一日。十日。一ヶ月。
カイトの日常は、ただ「殺されること」に塗りつぶされた。
前世の社畜時代、彼は「自分は部品だ」と自嘲していた。
だが、ここではそれが比喩ではない、残酷な現実だった。
(……死なせてくれ……。誰か……殺して……)
百回殺されたとき、カイトは神を呪った。
千回殺されたとき、カイトは自分の名前を忘れた。
五千回殺されたとき、カイトの精神は真っ白な灰になり、ただ痛みを受け入れるだけの「肉塊」へと成り果てた。
「理不尽に耐える」という、前世で培った最悪の才能が、彼を地獄に繋ぎ止めていたのだ。
そして、一万回目の死。
カイトの意識は、底の見えない暗闇に沈んでいた。
もう、痛みすら遠い。自分が人間だったのか、ただの肉の塊なのかも分からない。
技師たちが「今日はもういいだろう。」と、作業を終えて去っていく。
暗い部屋に、放置された死体同然のカイトだけが残される。




