表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

5 迷子の作品

目を覚ましたとき、天井が見えた。


見慣れた木目。

薄暗くて、ランプの灯りが揺れている。


「……?」


体を動かそうとして、思わず声が漏れる。


「っ……」


腕が痛い。脚も、背中も。

特に膝がじん、と熱を持っていた。


「起きたか」


低い声がして、視線を向ける。

ソフカさんが、椅子に腰かけていた。


「……ソフカさん」


声がかすれた。


彼女は立ち上がり、俺の額に手を当てる。


「熱はないな。良かった」


それから、少し間を置いて言った。


「……どうして、あんな状態で玄関に倒れてた?」


その言葉で、一気に思い出す。


森。

追いかけてくる、あの獣。

転んで、泥に落ちて――。


俺は、布団の横に置かれているものを見た。


スケッチブック。


乾かされたらしく、表紙は固く波打っている。


「……それ」


声が、震えた。


「すみません」


ソフカさんの眉が、わずかに動く。


「何があった」


責める調子じゃない。

けれど、逃がさない声音だった。


俺は、言葉を探しながら話した。

朝、川に行ったこと。

森で、変な獣に追われたこと。

逃げて、転んで、スケッチブックを落としたこと。


「……どんな形だった」


「モンスターの形ですか?」


「そうだ」


俺は、思い出しながら答える。


「熊みたいで……でも、腕とか脚とか、いろんな動物がくっついたみたいで……」


言葉にするほど、背中が冷える。


「鹿のような角が生えていて……背中には小さい羽が生えていました……」


沈黙が落ちた。


ソフカさんは、ゆっくりとスケッチブックに手を伸ばした。


ページを開く。


そこにあったのは――


泥で滲んだ、線だったものたち。


森で見たもの。

自然の断片。


何枚も、何枚も。


彼女の指が、止まった。


「……やっぱり」


小さく、吐き出すように言った。


「私のせいだ」


「ソフカさんのせい?…」


ソフカさんは、スケッチブックを閉じ、膝の上に置いた。


「…行き先を決められなかった絵。つまり、『完成させよう』っていう意識を持たれなかった作品は迷子になる。迷子になった絵は勝手に行き先を決めて現実に干渉する。」


「それが――表現異常。俗的には、はぐれ表現という。」


「もしかして、俺が勝手に描いたから…」


「違う」


キッパリと遮られる。


「オサムの絵には魔力が込められてないからな。」


彼女は、少し考えてから、ゆっくり言葉を選ぶ。


「ただ描いただけ。それも立派な作品だ。でも、魔力が流れ込んだ瞬間――それは、行き先を欲しがる。」


俺は、黙って聞いた。


胸の奥で、何かが腑に落ちる音がした。


「描くこと自体は、何の問題もない」


「だが、終わらせる意識のないまま重ねれば、行き先を求めて、意味を持てないまま、形だけが寄り集まる」


――だから、あんな姿に。


「私は川で常に魔力を放っていた。危険なモンスターが寄ってこないようにな。それが無意識に線に混じってしまった。」


彼女は、スケッチブックを強く握りしめた。


「オサムを、危険な目に遭わせた」


「描きかけを、積み重ねて」


「終わらせなかった」


俺は、思わず口を開いた。


「……俺、てっきり、自分が勝手に描いたから、モンスターが出たんだと思いました」


ソフカさんの目が、揺れた。


「……私の落ち度だ」


彼女は、深く頭を下げた。


「すまない」


言葉が、喉につかえる。


「……じゃあ」


俺は、恐る恐る聞いた。


「ちゃんと終わらせたら……絵は、どうなるんですか」


ソフカさんは、少しだけ驚いた顔をして、それから微かに笑った。


「残るさ。」


「人に見られて、受け取られて、初めて終わる」


「それが、作品だ」


胸が、ぎゅっと締めつけられた。


今日、初めて死を実感した。その時感じたのは果てしもない"無"に対する恐怖。そして俺という存在に意味なんてなかったという無力感と寂しさ。


前の人生で、俺は何を残せただろう。


「……この世界に」


俺は、震える声で言った。


「絵で…数百年、数千年先の未来に俺という存在を残せますか。」


ソフカさんは、はっきりとうなずいた。


「ああ。可能性はゼロじゃない。だからこそ、恐れられてきた」


その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。


働いて、働いて、

数字を追い、数字に追われて、

気づけば自分自身が、誰かの帳簿の一行になっていた。


評価されても、名前は残らない。

成果を出しても、形は残らない。


ただ消費されて、

すり減って、

静かに消えていくだけの人生だった。


――消えるだけのことは、もう十分やった。


たとえ描き手の名前が忘れられても、

線や形は、そこに“在った”と語り続ける。

そんな力が近くにある。


それが怖くても。

危うくても。


誰かの記憶の片隅に、

あるいは、名もない場所の片隅に。


この手で生み出した何かが、

確かに存在した痕跡を――

俺は、残したい。


気が抜けた途端、瞼が重くなった。


傷の痛みも、胸の高鳴りも、

すべてが遠のいていく。


「……少し、眠れ」


ソフカさんの声が、どこか遠くで聞こえた。


返事をする前に、

意識が、深い底へ沈んでいく。


再び、気絶するような眠りだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ