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16 覚悟

朝の森は、昨日の騒がしさが嘘のように静かだった。

 夜露を含んだ空気はひんやりとして、肺の奥まで冷たさが染み込んでくる。


 俺は薪を割り、炉に火を入れ、水を汲む。

 いつもと変わらない朝の支度だ。


 ――ひとつだけ違うのは。


 机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない師匠の存在だった。


「……師匠?」


 声をかけても反応はない。

 近づくと、低いうめき声が聞こえた。


「……頭が……割れる……」


 どうやら生きてはいるらしい。


 ソフカは片手で額を押さえ、もう片方の腕をだらりと垂らしている。

 髪は乱れ、目は半分も開いていない。


「だ、大丈夫ですか」


「……大丈夫じゃない」


 掠れた声。

 完全に調子が悪そうだった。


「昨日、かなり飲んでましたよね」


「……昨日?」


 師匠は眉を寄せ、しばらく考え込む。


「……覚えていない」


 きっぱりと言い切った。


 俺は思わず言葉に詰まった。

 あれだけ大騒ぎをして、あれだけ泣いて――その記憶が、全部ない。


「……何も覚えてないんですか?」


「知らん……。頭が痛い……」


 それ以上考える余裕もないらしく、師匠は再び机に額を打ちつけた。


 その様子を見ていると、なんだか少しだけ可笑しくなってくる。

 昨夜の姿との落差が、あまりにも大きすぎた。


 そこへ、外から軽い足音が近づいてくる。


「おはよー!朝の散歩終わり―!」


 扉が勢いよく開き、イリスさんが顔を出した。

 昨日と同じ、やけに元気な声。


「……静かにしろ」


 師匠が低く唸る。


「あれ? なにその顔。もしかして二日酔い?」


 イリスさんは一瞬で察し、次の瞬間には吹き出していた。


「ははは! あー、やっぱり!

 昨日あれだけ飲めばそうなるよね!」


「……だから飲まないと言った」


「えー? だってソフカ、途中からすっごい素直だったよ?」


 その言葉に、師匠の肩がぴくりと揺れた。


「……何の話だ?」


「え? 覚えてないの?」


 イリスさんは目を丸くしてから、にやりと笑う。


「『表現魔法こわい〜』とかさぁ、

 『弟子がここまで残ると思わなかった~』とかさぁ」


「言ってない……」


「『この子が傷つくの見たくない〜』とか!」


「やめろ」


 師匠は机に顔を伏せたまま、弱々しく言った。

 耳まで赤くなっているのがわかる。


 俺はただ、二人のやり取りを見ているしかなかった。


「いやあ、いいものが見れたねー」


「……記憶にない」


「それが一番おもしろいんだよ!」


 イリスさんは腹を抱えて笑い、ひとしきり満足すると外へ向かう。


「じゃ、私は調査行ってくるねー。

 ゆっくり休みなよ、二日酔いさん」


 そう言い残して、森の中へ消えていった。


 静けさが戻る。


 師匠はしばらく動かなかったが、やがて小さく息を吐いた。


「師匠、とりあえず水飲んでください。」


「ありがとう。」


 俺は師匠に水を渡して、再び朝の作業に戻った。


昼近くになって、師匠の顔色はようやく人並みに戻ってきた。

 水を何杯も飲み、森の中を少し歩いたらしい。戻ってきたときには、いつもの落ち着いた雰囲気を取り戻していた。


「……オサム」


 呼ばれて、俺は手を止める。


「はい」


 師匠は火の前に腰を下ろし、炎をじっと見つめている。

 その横顔は、いつもより少しだけ硬かった。


「昨日のことは、ほとんど覚えていない」


 そう前置きしてから、師匠は続ける。


「だが……イリスの様子を見るに、

 たぶん、言うつもりだったこと自体は間違っていない」


 ぱち、と薪がはぜる音がする。


「表現魔法で生きていくのは、簡単じゃない」


 その言葉は、思ったよりもずっとはっきりしていた。


「魔法として見れば、まだ使える。

 むしろ、表現したいものと魔力をコントロールする力があれば誰でもそれなりに形にはなる」


 師匠はそこで一度言葉を切り、俺を見る。


「だが、“生きていく手段”としては話が別だ」


 空気が、少しだけ張り詰める。


「冒険者なら、他にもっと使い勝手のいい魔法がある。

 火、水、風、身体強化……即効性があり、評価もされやすい」


 俺は黙って聞いていた。


「表現魔法は、結果が曖昧だ。

 戦闘で役立つとは限らないし、再現性も低い」


 炎を見つめる師匠の目は、どこか遠い。


「画家として生きる道もある。

 だが、それはそれで別の地獄だ」


 低く、淡々とした声。


「金持ちに気に入られなければ金は入らない。

 作品ではなく、作者を見ている者たちがほとんどだ。それも含めて作品と呼ぶのかもしれないがな。

 どれだけ真剣に描いても、評価されないこともある」


 師匠は静かに息を吐いた。


「才能があれば必ず報われる、なんて世界じゃない」


 その言葉は、俺の胸にゆっくりと沈んでいった。


「制御が難しく、不安定で、危険ですらある。

 表現災害だって、原因はわかっていない」


「それでも、だ」


 師匠は焚き火に薪を足す。


「お前は、表現を恐れていない」


 俺は息をのむ。


「上手い下手じゃない。」


 師匠の声は、静かだったが、揺るぎがなかった。


「だから教える。

 ――いや、正確には“止めない”」


 師匠は立ち上がる。


「ただし、覚えておけ」


 森の奥を見据えたまま、言う。


「表現魔法は、お前を食わせてくれる保証はない。

 誇りにも、武器にも、呪いにもなり得る」


 そして、少しだけ間を置いて。


「それでも進むなら、まずは描け。

 生きるためじゃない。

 お前を残すためにな、」


 その言葉を、俺は胸の奥で噛みしめた。


 表現魔法は、自由だ。

 だからこそ、厳しい。


 ――それでも、俺は描く。


 その覚悟が、静かに芽生え始めていた。

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