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15 祝いの夜

夕方、外の木々が影を濃くし始めた頃だった。


「よーし! 今日はお祝いだよー!!」


家に戻るなり、イリスさんが両手を上げて宣言した。


その声の大きさに、屋根に止まっていた鳥が慌てて羽ばたく。俺は思わず肩をすくめた。


「そんなに大声出さなくても……」


「だって合格だよ? 二年と三年、合わせて五年! ついにだよ? 盛大にやらなきゃ!」


イリスさんは鼻歌まじりで荷物を下ろし、次々と包みを広げていく。中から出てきたのは、干し肉、野菜、木の実、それから見慣れない瓶。


師匠がそれを一瞥して、低く言った。


「……酒は出すな」


「えー、乾杯くらいいいじゃん」


「子どもがいる」


「オサムは飲まないよ!これは大人用! ね?」


同意を求められて、俺は慌てて頷いた。


「の、飲みません。」


(正直飲みたいけど……)


それを聞いて、師匠は少しだけ表情を緩める。


「なら、いい」


そう言って、室内の炉に薪を足し始めた。


「ほら、オサム。これ切って」


「はい」


包丁を握ると、木のまな板に小気味いい音が響く。森での生活では何度もやってきた作業なのに、今日はなぜか少し楽しい。


炉にかけた鍋から、いい匂いが立ち上る。


「うわ……お腹空いてきました」


「でしょー? 今日は特別レシピだからね!」


イリスさんは得意げに胸を張った。


やがて料理が並び、簡素なテーブルが一気に賑やかになる。


「じゃあ……」


イリスさんが杯を持ち上げる。


「オサム、合格! おめでとー!」


「……おめでとう」


師匠も短くそう言って、杯を軽く上げた。


俺は少し照れながら、深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。


窓の外では夜の虫が鳴き始め、家の中には炉の灯りが静かに揺れている。


この日が、ただの楽しい夜で終わると。

そのときの俺は、何の疑いもなくそう思っていた。


「ほらほらー! ソフカも飲んで飲んで―!」


師匠は首を横に振った。


「酒は飲まない」


声はいつも通り低く、揺れがない。理由を説明するまでもない、といった態度だった。

だがイリスは酒瓶を抱えたまま、にやにやと距離を詰める。


「えー? 今日くらいいいじゃん。弟子が勝った日だよ? 祝わない理由、ある?」


「祝わない理由はないが、飲まない理由はある。私は酒癖が悪い」


「自覚あるなら大丈夫でしょ!」


理屈になっていない。イリスは軽やかに杯を差し出し、逃げ道を塞ぐように回り込む。


「一杯だけ! 一杯だけ飲んで、あとは水! ね?」


「断る」


「じゃあ十杯!」


「なぜ増える」


押しては引き、引いては押す。炉の中で薪がぱちりと鳴るたび、イリスの笑顔が明るくなる。ついに師匠は深く息をついた。


「……一杯だけだ」


杯を受け取る指先が、わずかにためらう。


「後悔するのは、そっちだぞ」


そう呟いて、師匠は酒を口にした。炉の火が、少しだけ強く揺れた。


師匠の杯が、空になる。


師匠はそれを見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……なあ」


低く、掠れた声。


イリスさんがすぐに反応する。


「んー?」


「お前じゃない……オサムだ。…今日の鬼ごっこだが」


俺は思わず姿勢を正した。


「条件を、厳しくしすぎた」


一拍、間が空く。


「かくれんぼもだ……すまなかった」


聞き慣れない言葉だった。


師匠が、俺に向かって謝る。五年前、継ぎ合わせの獣に襲われたあの日以来だ。

それだけで、胸の奥がざわつく。


「え? え? なに急に?」


イリスさんが慌てて口を挟む。


「勝ったんだからいいじゃん! 結果オーライ!」


「……違う」


師匠は首を振った。


その動きが、いつもより遅い。


「教えたくなかったんだ」


ぽつりと、落ちる。


「……本当は」


炉の中で薪が崩れる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「表現魔法は、不安定だ。危険で……取り返しがつかないこともある」


言葉を選ぶように、一つひとつ。


「だから、無理な条件を出した」


杯を握る指に、力がこもる。


「この場所で生き抜く術を覚えれば……すぐに出ていくと思っていた」


視線が、床に落ちる。


「街に行って、冒険者でも、何でも……」


そこで、声が詰まった。


「……なのに」


師匠の肩が、小さく揺れた。


「逃げなかった」


沈黙。


次の瞬間、喉が鳴る音がした。


「……教えたくなかったのに」


震える声。


「それでも……残りたいなんて言われたら……」


言葉にならない息が漏れる。


ぽた、と。


床に落ちた雫が、炉の灯りに照らされて光った。


「……すまなかった……」


その瞬間だった。


師匠は顔を覆い、そのまま前屈みになる。


「……怖かった……」


嗚咽が混じる。


「失うのが……また……」


完全に、崩れた。


「ちょ、ちょっと待ってぇぇぇ!!」


イリスさんが立ち上がる。


「なにそれ! 聞いてない!」


そう言いながら、もう目が真っ赤だ。


「そんなの……そんなの……!」


次の瞬間、イリスさんの方が先に泣き出した。


「ひどいよぉぉぉ!! 一人で抱えすぎ!!」


号泣だった。


「ちゃんと伝えなきゃダメでしょぉぉ!!」


師匠は何も言えず、ただ泣いている。


俺は、どうしていいかわからなかった。


炉の火だけが静かに燃え続けている。


その揺れる明かりの中で、師匠は初めて、弱い顔を見せていた。


しばらくの間、誰も止められなかった。


師匠は顔を覆ったまま、声を殺して泣き続けている。

肩が震え、呼吸がうまくできていないのがわかる。


「ちょ、ちょっと……っ」


イリスさんは袖で目元を拭いながら、しゃがみ込んだ。


「泣きすぎ……っ、もう……」


そう言う本人が、一番泣いていた。


「そんなの……そんなの……」


言葉を探そうとして、全部涙に変わる。


鼻をすする音。


「そんな怖くなるほど、大事に思ってたくせに……」


とうとう、イリスさんは師匠に抱きついた。


「ばかあぁぁぁ!!」


「……っ」


師匠の体が、びくりと跳ねる。


「教えたくなかったなら……怖かったなら……」


ぐしゃぐしゃの声で、続ける。


「そう言えばよかったじゃん……!」


師匠は抵抗しなかった。


ただ、掠れた声で、ぽつりと呟く。


「……弱い師匠だ」


「うるさい!!」


イリスさんが即座に返す。


「弱くて何が悪いの!!」


ぎゅっと、さらに力を込める。


今度は、完全にイリスさんが泣き崩れた。


「心配しすぎだし! 考えすぎだし!!」


部屋の真ん中で、大人二人が抱き合って泣いている。


俺も涙をこらえて、座っていると――


「……オサム」


師匠が、顔を上げた。


目は赤く、涙の跡が残っている。


「ごめ……すまなかった」


ゆっくりと、頭を下げる。


「厳しすぎた」


「……」


「それでも……ここにいるなら」


一瞬、言葉が詰まる。


「私は……教える」


はっきりと。


その瞬間、胸の奥が、じんわりと熱くなった。


何か言おうと口を開いたが――


「はいストーーーップ!!!」


イリスさんが、突然立ち上がった。


涙だらけの顔のまま、両手を広げる。


「もう湿っぽいの終わり!!」


ずび、と鼻をすすりながら、声を張り上げる。


「今日はさ!」


炉のそばへ歩き、酒瓶を高く掲げる。


「合格のお祝い!」


そして、師匠を指さす。


「そして、泣き虫師匠の告白記念日!!」


「……やめろ」


師匠が小さく呟くが、もう遅い。


「というわけで!」


イリスさんは満面の笑み――涙でぐちゃぐちゃだが。


「今日はたくさん飲むぞー!!」


炉の中で、火がぱちりと音を立てた。


師匠が本心を話してくれたことが、何よりも嬉しかった。

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