13 合格の糸口
イリスさんがこの森に来てから、数日が経った。
修行の内容自体は変わらない。
朝になれば森へ出て、百数え、走って、捕まる。
それを何度も、何度も繰り返す。
その日の修行がひと段落したのは、夕暮れ時だった。
空は橙色に染まり、森の影が長く伸びている。
俺は息を整えながら、川沿いの石に腰を下ろした。
「おつかれー」
軽い声。
顔を上げると、イリスさんが少し離れた場所に立っていた。
今日は修行の見学をしていたはずだが、さっきまでは姿が見えなかった。
「……どうでしたか」
「んー?」
イリスさんは首を傾げてから、あっさり言った。
「正直?」
「はい」
「なかなか厳しいね」
即答だった。
思わず言葉に詰まる。
「自然同調も感知も、かなり仕上がってる。逃げ方も、術式の使いどころも、判断も速い」
淡々と、事実だけを並べる。
「それで捕まるのはね」
イリスさんは笑った。
「相手が悪すぎる」
救われるような、余計に重くなるような、不思議な言い方だった。
「ねえ、オサム」
夕焼けの森を見つめながら続ける。
「もし、私がどうしても格上の相手から逃げ切らなきゃいけない立場だったら」
そこで、少しだけ間を置いた。
「逃げようとしないかなー」
「……え?」
「だってさ」
振り返って、にっと笑う。
「逃げるってことは、相手の方が強いってことでしょ?相手もそれをわかってる。だからこそ!そこがねらい目なんだよ!つまり…」
軽い口調のまま、冗談みたいに言った。
「倒しちゃうとか?」
「――っ」
息が詰まった。
それを見た瞬間、イリスさんは腹を抱えて笑い出した。
「あっははは!! その反応!」
手を叩きながら、涙を浮かべる。
「ごめんごめん! 今のは冗談だから!」
そして、少しだけ声の調子を落とした。
「まぁ、正直ね」
穏やかに、でもはっきりと。
「オサムにソフカを倒せるほどのパワーはないよ。今はね、」
嫌味でも否定でもない。
ただ、当たり前の事実を口にしただけだった。
「だから、あくまで“私だったら”の話ねー」
そう付け足して、肩をすくめる。
イリスさんは背中を向け、軽く手を振る。
「じゃ、私はそろそろ戻るねー」
夕闇に溶ける背中を見送りながら、俺はその場に立ち尽くした。
(逃げない……)
冗談のはずの言葉が、胸の奥で何度も反響する。
翌日。
朝の修行が終わったあと、家の外で水を汲んでいると、イリスさんが欠伸をしながら近づいてきた。
「いやー、朝から走るの眺めるだけでも疲れるねー」
「……見てるだけでですか」
「見るのも才能いるんだよ?」
そんな軽口を叩きながら、イリスさんは俺の横に並ぶ。
そのときだった。
「あ、そうだイリスさん」
「ん?」
何気ない調子を装って、言葉を選ぶ。
「最近、森の奥で……ちょっと魔力の濃い場所を見つけたんです」
イリスさんの動きが、一瞬だけ止まった。
「へえ?」
「そこで、変な魔物みたいなのも見かけて」
嘘だ。
正確には、“変な魔物はいない”。
ただ、魔力が濃く、流れが淀んでいる場所があるだけだ。
「ふーん……」
イリスさんは顎に指を当て、考える素振りを見せる。
「調査で来てるって言ってましたよね?」
「うんうん」
「そういう場所、見ておいた方がいいんじゃないかなって」
完全に、善意の提案。
少なくとも、そう聞こえるように言った。
「なるほどねえ……」
イリスさんは空を見上げる。
「確かに、魔力が偏ってる場所は要注意なんだよねー」
少しだけ真剣な目。
それから、にやっと笑った。
「案内してくれる?」
「はい」
あっさり、食いついた。
森の中を歩きながら、イリスさんは時折感知を走らせている様子だった。
「……ここ、確かに濃いね」
例の場所に近づくにつれて、彼女の表情が変わる。
「魔力が重たい。流れが複雑で、細かいノイズも多い」
彼女は立ち止まり、周囲を見回した。
「感知が、ちょっと鈍るタイプだ」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに噛み合った。
(やっぱり……)
俺は表情を変えずに頷く。
「俺も、ここだと感知がやりにくくて」
「そりゃそうだよ。普通は近寄らない場所だし」
イリスさんは笑う。
「でもさ」
軽い調子で続けた。
「こういうところに限って、変なのが湧くんだよねー」
しばらく調査をしてから、イリスさんは満足そうに息をついた。
「ありがとオサム。いい情報だったよ」
「いえ」
「しばらくここを重点的に見ることにするね」
その一言で、十分だった。
その日の夜。
寝床に横になり、天井を見つめる。
頭の中には、今日見た景色と、イリスさんの言葉が重なっていた。
(感知が、鈍る場所)
(魔力が、重たい)
かくれんぼのときもそうだった。自分の力だけで勝とうとするのは無謀だ。利用できるものはすべて利用する。それが合格への近道だ。
決着をつけるのは明日。チャンスは一度だけだ。




