第18話 肉の部屋
イリエはほぼ無心になって走る。
転倒した際、スマートフォンの画面に亀裂が入っていたが、気にする余裕はなかった。
ロープで滑り降りる寸前、彼女は眼下の声にぎょっとする。
凶器を携えた数人の男が集まっていた。
騒ぎを聞きつけた殺人鬼が、新鮮な獲物を今かと待ち望んでいる。
「女っ! 女っ!」
「こっち来ーい。危ねえぞぉ」
「仲良くしようぜ、ほら!」
歓声を浴びたイリエは顔を歪める。
追い詰められた彼女は、口汚い罵倒を返した。
「ふざけんなボケ! 騙されるわけねえだろうがッ!」
イリエの反応に男達は大笑いする。
彼らは獲物のささやかな抵抗を歓迎していた。
後の絶望が深まり、楽しみが増すことをよく知っているのだ。
その間に頭上のマナカとヒヨリが接近してくる。
彼女達は満面の笑みで手を振った。
「おっ、待っててくれてありがとうー!」
「下の奴らが足止めしてたみたい」
「いいじゃん! 今日はとことんツイてるねえ」
上下から挟み撃ちにされたイリエは焦る。
その場から動くわけにもいかず、無意味に足踏みを繰り返していた。
「くそっ、どうしたら……」
「こ……こっち……うえ……」
カトウが近くの壁を指差す。
そこには人間が這い進むことができるサイズのトンネルがあった。
イリエの判断は早かった。
彼女はカトウを突き飛ばすと、躊躇なく穴に潜り込んだ。
喚くカトウも後に続く。
二人の後方では殺人鬼同士が衝突していた。
互いを殺し合うことに注力し、追跡を中断せざるを得ない事態となっている。
イリエはトンネル内を窮屈そうに進む。
徐々に強まる悪臭に、彼女の不安と嫌悪感は高まる一方だった。
(この先に何があるの……?)
トンネルが終わり、イリエは立ち上がって室内を見回す。
眼前の光景に彼女は凍り付いた。
イリエが辿り着いたのは、大量の死体が吊るされた部屋だった。
床も壁の天井も血みどろで肉片も散乱している。
肉片を詰め込んだケースの上では、夥しい数の蠅が飛び回っていた。
換気扇がカラカラと音を立てて稼働しているが、血と腐肉の臭いは味がしそうなほどに充満している。
刹那、イリエは嘔吐した。
何度も吐いては苦しげにせき込む。
彼女はトンネル内に戻りたくなったが、追跡してくる者達の存在を思い出して止まる。
(そうだ、早く塞がないと……)
イリエは肉塊入りのケースを運び、トンネルに密着するように積み上げた。
向こう側にいるであろう殺人鬼が追ってこれないように並べていく。
腐肉で衣服を汚しながら、イリエはカトウに怒鳴る。
「あんたも、手伝ってよ……っ!」
「うえ……にじゅうごかい……」
カトウは頭を掻き毟って屈む。
意思疎通が望めないと悟ったイリエは、悪態をつきながら一人で作業を終える。
トンネルはケースに埋まって完全に見えない状態となる。
ケースの総重量は百キロを優に超えるだろう。
(これで少しは時間を稼げるはず……)
その時、部屋の端から人間の声が聞こえてきた。
イリエは恐る恐る様子を見に行く。
無数の死体に紛れるように、フックで吊るされたナベがぶら下がっていた。




