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仏教の滝行という幻想を思う

     *

 実際に勤めてみると、新聞販売店とは明るい人間と暗い人間が半々に分かれる場所だった。その仕事を愉しんで働く若者の、毎日の配達で引き締まった体。彼らの明るさと覇気は中年の僕にはないものだった。もう一つの暗い人間たちとは前職が何だったのか、暗い家庭の現実を抱えているのか、それとも前に刑務所にでも服役していたのか、とにかく彼らは僕の目を見て会話することもなく、それ以前に他人と関わることをせず、僕のささやかな歓迎会でもパックの寿司を食べるだけ食べてさっさと帰って行った。寿司は食いたいがおまえに興味などないよと言わんばかりに。ああ、暗い連中だなと僕は思った。

 仕事そのものは簡単だった。バイクを使った新聞配達の仕事は郵便配達の仕事と大差はなかった。岩手沿岸の小さな町でこのまま新聞配達夫として生きるのも悪くはない気がした。むしろ今の自分に相応(ふさわ)しい仕事である気さえした。新聞店でのささやかな歓迎会へのお礼として僕はスーパーに栄養ドリンクを買いに行った。店の人間たちにドリンクを配ってお礼をしなければならない。世間はその種の小さな心遣いを要求するものだ。スーパーのレジでパートの元妻が働いているのが見えた。僕は試みに彼女の担当するレジに並んでみた。元妻はどんな反応をするのだろうかと。元妻は僕に気づいただろう。他の客と同じに僕に応対した。釣銭を僕の(てのひら)に渡して僕が去るその時に、元妻は小声で「……親父臭い」と言った。自分の働くレジを使うな、と元妻は言いたかったのだろうが。元妻を無闇に怒らせてしまった、と僕は知った。

 新築の家は売れなかった。岩手沿岸には土地付きのまずまず良い状態の中古物件が多くある。全くの新築の、高価格の家を人々は素通りしていく。(みじ)めなアパート暮らしが延々と続いた。僕はつくづく生きているのが嫌になった。それもこれも元妻の不倫から始まった。元妻が浮気性の性癖を持っていたのかどうか僕は知らない。そういう性癖の女も世の中には確かに存在する。だがそれらの女たちが負うペナルティを元妻は受けなかった。

 僕は長い間、妻とは上手くいっていると思っていた。精神的にも肉体的にも我々は夫婦になれたと思い込んでいた。元妻は不倫をして裏切ることで僕のそんな軟弱な確信をたやすく打ち砕いた。僕は元妻に裏切られたというプロセスを通して、女性に対して肉の体を求めるようになったと思う。残された僕は女性に対して肉体的に飢え渇いた。というのは、僕は女性に肉体的に触れられた時の感触と、女性に肉体的に触れた時の柔らかさに精神的な安らぎを得ようとしたからだ。だが女性は、そのように男に求められるに値する存在ではないし、現実の女性は恒常的に『月のもの』に苦しむ余裕のない存在に過ぎないとも感じられた。現に男がネガティブな言葉を言い続けると女はたちまちその影響を受けて男との関係を保てなくなる。肉体に月のものを抱える女には、それに重ねて『精神的な月のもの』を抱えることはできない。所詮(しょせん)は他人と他人との結びつきだ。元上司との関係から学んだように人間を選良して、合わなかった場合には自衛する。シンプルにそれを繰り返していくだけの話かもしれないと僕は思った。

 その時期に僕は経済的に無理をして女を一人、買った。性欲を満たすためではなかった。男の頭の天辺には穴が開いていて蓋が付いている。その穴に蓋がされると頭の中にストレスがガスのように溜まっていく。男は蓋を開いて頭の中のストレスガスを外に噴出しなければならない。僕は世の中で日々起こる犯罪や性犯罪が頭の中にガスが充満したせいで起こると確信していた。僕は女を買い、その肉体に触れ、また触れられることで頭の天辺の蓋を開き、頭の中のガスを一気に噴出させてストレスを放出した。これは理屈ではない。男にはそうすることが必要な時が存在する。それを(おこた)る人間は何らかの過ちを犯して社会から落伍してしまい、新聞記事に不名誉な形で名が載ることになると僕は知っていた。僕はすっきりした頭で思った。妻を一人、選良するのを間違っただけで人生はここまで落ち切るんだなと。

 僕はふと仏教の滝行について思った。仏教には修行を積めば人格が完成されるという幻想がある。だが恋愛して結婚して離婚して、というプロセスを踏む方がよほど人生の修行になるのではないか。あるいはそれも幻想なのか。僕が抱いていた妻の像、その全ては幻想だったか、と皮肉に口を歪める――。



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