砕けたガラスのコップを思う
翌日、朝から僕はハローワークのホームページに飛んで仕事を探した。
車かバイクを使った運搬・配達の仕事を僕は求めた。それなら長年の郵便配達のスキルを活かすことができる。そこで今日が日曜日であることに気づいた。日曜に就職活動をする馬鹿はいない。
何もすることがなく、午前中のニュース番組を見ながら教会に行ってみるかと僕は思った。僕の思考は新築の家の四隅にこだました気がした。行ってみるか、と何度も同じ言葉が少しずつ小さくなって響いた気がした。なぜだろう、と僕は思った。きっと淋しいからだと僕は思った。まるで遠い砂漠の小さなオアシスのように一人――淋しいとふと思う。
日曜にプロテスタントの教会に入って即物的なパイプ椅子に腰かけながら、僕は離婚という現実に傷ついてクリスチャンとなったのだろうかと思った。よくわからなかった。もし結婚していたとしても僕はクリスチャンにいつかはなっただろうとは思った。元妻の不倫は僕のその信仰の時を早めただけだと。僕は教会で牧師の説教を聞いて、讃美歌を唄った。聖書にイエス・キリストが涙を流した箇所が五か所あるという話を聞いて、僕はその場面を思い出そうとした。ベタニヤのマリヤの兄弟ラザロが死んだ場面と、イエスがエルサレム壊滅の予言をする場面と、あとはどこだったか……。だがどうでもいいことだ。僕は自分の好奇心をも麻痺させた。
教会から無人の家に帰る。僕は新聞を広げて読者が投稿した川柳をじっくりと読んだ。どれも特に出来のいい川柳とも思えなかったが他にすることもなかった。世の中は出来のよくない川柳であふれているものだと僕は知った。それは世の中の人々がなんだかんだ言って幸せな人生を送っているせいかもしれない。自らの不幸を受け入れて笑いに変えられる者だけが質の高い川柳を読むことができる。そしてその種の特殊な人間は数多くはない。
僕は新聞記事の隅に『新聞配達員、募集』の求人を見つけた。バイクを使った配達の仕事で長い時間を一人で働くことができる。僕は新しい仕事が見つかるまでの繋ぎとして新聞配達をすることにした。もし新聞配達が自分に合っているとわかったら、そのままその仕事を続ければいいだけの話だ。
新築の家はもう売らなければならない。翌週、僕は不動産屋に相談して家賃の安いアパートに引っ越した。新築でも前の住人が住み続けている家を他人は買わないという。確かに前の住人の家具がある家を内見したとしても誰も買う気にはならないだろう。家を売るために僕は安アパートに移らなければならなかった。僕はささやかな家具が運び出された新築の家を見てふと気づいた。仏壇という物も運び出さなければ家の新しい買い手は見つからないだろうかと。僕はクリスチャンだ。仏壇などどうでもよかった。だが後々に仏壇を職人に頼んでキリスト者仕様に変えて祭壇に直してもらうつもりで仏壇も運び出した。
新しいアパートは1Kの間取りで畳の一間だけで、クーラーすら付いていなかった。窓は一か所しかなく、まるで地下室のように陽当たりが悪く、その割に部屋の空気は湿気て蒸した。僕は扇風機を買ってきて真夏の炎暑を凌いだ。部屋着も脱いでTシャツとトランクス姿で暑熱に耐える。体中にじわりと汗が張り付いた。下着は汗でべとべとに湿った。そこは貧乏人たちが住むアパートだった。その中に僕は寄生するように混じった。新築の家から1Kへの転落だ。僕という人間のランクが二つか、三つは落ちた気がした。
新しい仕事は新聞配達しか見つからなかった。僕は四十七歳だった。転職としても時期が遅く、まともな正社員の仕事は見つからなかった。十八歳以上という条件の求人は、本当に十八歳の人間しか求めていなかった。四十七歳の人間はその条件には当てはまらない。四十を過ぎた人間が岩手の田舎で正社員の転職先を探しても見つかるはずもない。新聞販売店だけが僕を雇って救ってくれた。
再就職とは――。再就職は砕けたガラスのコップを僕に思わせた。僕は想像する。四十を過ぎるとかつての同級生が死んだという知らせも多く聞く。僕は彼らの死を知るごとに棚からガラスのコップが落ちて砕けたかのように感じる。いつもその知らせは不意に入る。再就職の時期、僕は自らが亡くなった同級生たちの傍に立っていた気がする。死んだ同級生たちを思い、自らが切実にこの社会で再就職して生き延びたいと願う。棚から落ちて砕けたガラスのコップを思う――。