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家の中に生えた樹木を思う

     *

 離婚の書類を交わした後、僕は新築の家に帰った。

 我々夫婦には子供がいなかったから帰る家はひどく空虚でがらんとしていた。ただいま、と誰に言うともなく言うと声は家の空洞にやけに虚しく響いた。僕は居間しか使わなかった。台所も浴室も客室も二階の部屋もほぼ無人の状態だった。僕は居間にぽつんと置かれたソファーにもたれて体を休めた。そして本を読んだ。村上春樹氏の小説に妻と離婚した主人公の話があった。バツイチの主人公は毎日仕事に出かけて帰りにはバーに入ってウィスキーを飲んでオムレツやらサンドイッチを食べ、週末には映画を観に行くことを繰り返す。そのストリート・ワイズ(都市の中で生き残る知恵)の文体を僕は読んだ。村上春樹氏は離婚した主人公に徹底的に都市の中で生き残る行動を取らせ、生き延びさせた。その生き様がストリー・ワイズの文体を生み出した。僕は新築の家で、居間のソファーに座ってその小説を最後まで読み通した。小説はハッピーエンドではなかった。後には点けっ放しの居間のテレビの音だけが残された。

 僕は一日の疲れを癒しながら詰将棋の本を開いた。詰将棋で時間を浪費するくらいしかすることがなかった。岩手県沿岸部は東京のような都会ではない。ストリート・ワイズの文体を本で読むことはできても実践はできない。僕は冗談で『砂漠をサバイブする知恵』という本を棚に見つけて読んだ。ストリート・ワイズよりデザート・ワイズの方がまだ自分に向いているような気がしたからだ。

 後は風呂に入るくらいしかすることはなかった。大きな窓から小さな林と田舎の家々が見える風呂場だ。ビニールのカーテンを引いて風呂に入り、風呂から出るとカーテンを開いて開放的な家の雰囲気を(たの)しむ。それは元妻が大工たちと話し合って設計した風呂場だった。風呂場だけではない。台所のシンクの高さも元妻の身長に合わせて作られていたし、台所用タイルも黄色い花と緑の葉の模様のタイルが並べて貼られている。僕の好みではない。元妻の好みだ。壁紙の趣味も、窓辺のカーテンの色も、床板の色も、階段の踏み板の色も、何もかもが元妻の求めた趣味だった。僕は元妻の趣味に囲まれて暮らすことにほとほとうんざりした。それは毎日ひどい味の料理を食べさせられて暮らす感覚に似ていた。

 僕は翌日の新しい仕事探しのためにアルコール抜きのビールを選んで飲み、軽く食事を摂り、そして思う。『そもそも俺はこの家で元妻の趣味に囲まれて生きるべきだろうか』と。

 だが家のローンが借金として残されて僕はあと十二年を働き詰めで生きなければならない。こんな自分の趣味でもない家のローンのために。僕が家のローンを払う。これも元妻の出した離婚の条件だった。自分が不倫をしておいて借金の方は元夫に押し付けるとは、何と自分勝手な女を妻としたのだろうと悔やまずにいられない。僕はノンアルコールビールの缶を台所のシンクに叩きつけて置いた。この家は売らなければならないと思った。

 僕は(ひげ)もろくに剃っていなかった。風呂も適当にシャワーを浴びただけだ。僕の体に関して清潔さを要求する元妻は僕のもとを去っていた。元妻の趣味で百パーセント埋められた家と借金だけを残して彼女は去った。僕は自分自身の感覚を麻痺させなければその家にいられなかった。僕が元妻の好みの家に住んでいることで、元妻が内心で嘲笑しているに違いないという女の底意地の悪さにも僕は感覚を麻痺させる必要があった。僕は酒を飲むようになり、食事を摂る回数も減った。僕は自分に関わるのをやめた。全てを麻痺させた。

 僕はふと家の中に生えた樹木について思った。家の中に杉やら(ひのき)やらが根を張ったら迷惑なものだろうなと僕は思った。でかい樹木に場所を取られ、春には花粉が大量に飛ぶ。感覚を麻痺させた僕にとって家とはそんな存在だった。家の中と外との区別がない。完全に感覚が麻痺している――。



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