エベレスト登頂について思う
妻との離婚後に、僕は弁護士事務所で初めて元妻と顔を合わせた。
離婚の書類を前にして僕は妻の出した条件を全て受け入れた。妻は僕の元上司の家に住むので新築の家はいらないという。妻と僕が預貯金を折半して僕は家とローンを引き受けた。家は誰かに転売しなればならない。中古物件ということになり価値が下がる。その差額を僕はローン返済しなければならない。これは実質、一人で借金を背負った形になる。
妻は髪を後ろで全て束ねて、まるで面倒な書類仕事を片付けるために事務的に来たというような風貌をしていた。以前の黒髪は、今は栗色にカラーリングされていた。妻は細かな花柄のワンピースを着ていた。この種のワンピースが、意外に値が張るものだと僕は知っていた。一着で五、六万円はする。妻は綺麗だった。だが妻は家の新築のために忙しいと言っては時間を作り、僕の上司と不倫していた。妻は以前にはなかった香水の匂いを纏っていた。妻はすでに自分の印象を変えて新たな生活を始めていた。
「言わなければならないことがあった」
妻は口を開いた。妻の頬からは以前よりもすっと肉が落ちていた。ダイエットに成功したのだろう。以前の僕ならばそれを一緒に喜んでいただろう。だが今はもう違う。
「私の裏切り行為を赦してはくれないとは思うけど」妻は言った。「その前に眼鏡のレンズを拭いてくれない? あなたのその清潔さへの無関心が以前の私には許せなかった」
僕は眼鏡を外してやわらかな布でレンズを拭いた。確かにレンズは少しだけ汚れていた。
「あくどい女だと思っているでしょうね。言い訳はしない」妻は言った。「でもどうしても、たとえ嘘でも言い訳でも言葉を連ねなければならない時がある。私にとって今がその時なの。本当はあなたと口をきくのは苦しい」
うん、と僕は言った。以前の僕だったら反射的に謝っていただろう。ごめん、と。男は女に謝れる度量がなければ女と暮らせない。だが妻は僕に一度も謝ったことはなかった。
「……ごめんなさい」妻は言った。「傷つけてしまって本当にごめんなさい」
不倫相手の上司は僕の前に姿を一度も見せなかった。
僕には妻がなぜ僕の上司などと不倫したのかわからなかった。「どうしてだ?」と僕は聞いたが妻は首を振って答えなかった。
上司は全くのところ大した男ではなかった。声の出し方が素っ頓狂で、ただの肥り肉の男だった。宮古郵便局に僕が勤めた初日に、上司は「一万円貸してくれへんか」と僕に聞いて来た。上司は大阪出身の人間だった。そして岩手出身の僕から見れば金銭に関して奇妙な感覚を持っていた。初対面の相手に一万円貸してくれへんか、と言うような。僕は相手が上司ということで断り辛く、金を貸した。二度目に会った時、上司は「二万円貸してくれへんか」と言って来た。僕は二万円を上司に貸した。上司はメモ帳に借りた金額をメモした。忘れたりしないよ、きちんと返すよ、とさも見せるように。そしてその足で局の食堂に一緒に行き、僕はカレーを食べて上司は生姜焼き定食を食べた。生姜焼き定食の値段の方が高かったから上司はそのことを言った。
「金を借りた方が貸した方より高い物を食べていいんやろうか」と。この上司は金銭に関して神経が通っていないと僕は思ったが「気にしないでください」と言った。
この話を岩手の友人にしたところ、その金はもう返って来ないよと言われた。そんなはずはないだろうと金銭的に潔白な僕は思った。
三度目に会った時も上司は「金貸してくれへんか」と言って来た。高価な腕時計を僕に見せつけて、「オメガやねん」と自慢してからだ。僕は上司の上役に当たる部長に事情を説明して借金を断った。とても断り辛かったと記憶している。後になって上司が「初めて会う人間には信用の担保があるやろ」と言ったのを聞いた。まわりの人間を、金を借りられる対象かどうかで見ていると上司は言ったということだ。それは商人気質の大阪人独特の感覚かもしれない。僕が借金を断ってから二週間、上司は僕の前に姿を見せなかった。そしてあくる日、掲示板にその上司の異動について紙が貼られていた。上司は別の局に異動し、家も引っ越し、それきり何の連絡も寄越さなかった。僕は上司に借金を踏み倒されたと知った。
僕はふとエベレスト登頂について思った。凍傷で指を失ったり、クレバスに落ちたりと危険を覚悟の上であの山に登る。ネパール政府に数百万円もの登山料を払った上に命の危険がある。アホかと僕は思う。一体何が目的でそんな危険な山に登るのか。上司の大阪人のようにただ思う。僕はアホかと――。




