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ベースボールとサインペン

作者: 文月斜

夏休みを目前に控えた七月のある晩、夕食を終えた遊香はテレビのプロ野球中継に見入っていた。

中学二年生の女子としては、珍しい趣味と言えるかもしれない。友達の間では野球よりサッカーの方が人気があるし、そもそもスポーツに興味がないという子も多くて、遊香はいつも話し相手に不自由している。遊香だってスポーツ全般が好きなのではなくて、単に野球が好きなだけだ。リトルリーグに所属する弟たちの応援や手伝いに参加するうち、いつの間にか野球のとりこになっていたのである。


女手ひとつで三人の姉弟を育てるお母さんは、忙しい仕事の合間を縫っては子供たちの野球の試合を応援に来て、時々はプロ野球の試合にも連れて行ってくれる。

中学生になってから、遊香にはそれがどれだけ大変なことか、少しずつ分かり始めていた。


遊香のもう一つの興味は、絵を描くことだ。幼稚園の頃から通う造形教室では油絵を習っているけれど、実はアニメや漫画のキャラクターを描く方がずっと好きである。あまり取り柄のない自分が周囲から褒めてもらえるのは、付箋やノートの隅っこに人気のキャラクターを描いてみせる時くらい。


たまにノートに上手に描けたイラストをお母さんに見せると、お母さんは「授業中に何やってんだ!」とお決まりの文句を言ってから、「ここはこうした方がいいだろ」と隣にお手本を描いてくれる。

その速いこと、巧いこと。

遊香と同じくらいの年齢の頃から、同じように絵画を習い、好きなキャラクターのイラストを描くことを趣味にしてきたお母さんの腕前には、遊香はまだまだ及ばない。お母さんは遊香にとって、一番身近な絵の先生であり、一緒にアニメや野球の話題で盛り上がれる友達のような存在でもあった。


「遊香、あんた宿題があったんじゃないの?」


お風呂から上がってきたお母さんが、まだテレビの前にいる遊香に言った。


「あっ、そうだった! やらないとなぁ」

「すぐやりなさい! いつ提出?」

「……明日」

「いつまでテレビ見てんだっ!」

「いやー」


ナイトゲームの八回裏、両チームの打線が頑張ったせいで、時計はもう九時を回っている。小学校に上がったばかりの下の弟は、さっきから眠くて仕方がないといった様子だ。


試合はいいところだったけど、たしかにすぐに始めないとまずい。

美術は遊香が唯一「五」を狙える科目だから、宿題の未提出なんてできっこないのだ。

幸か不幸か遊香の学年には他にも絵の上手な子が多くて、筆記試験の成績が安定しない遊香は、気を抜くと通知表が下がってしまう。



宿題の内容は、鉛筆で指定の用紙に『はさみ』を描いてくることだった。

それだけならば遊香にとって難しくない課題だったのだが、美術担当の中柳先生はそこまでの楽はさせてくれない。


※ただしはさみは手に持った状態で、二つの異なる角度から見た様子を、二枚のスケッチとして描くこと。


……それは難しいよ先生……。

美術が苦手な生徒なら課題を見ただけで正攻法を諦めるに違いない。遊香も人の手を描くのは大の苦手だった。


そもそも造形教室で鉛筆書きを習った覚えがない。始めたばかりの頃は木炭やクレヨンを使っていたし、小学四年生くらいからは油絵を教わっていた。周りの子たちは新品でお揃いの油彩用絵画セットを買っていたけれど、遊香はお母さんが高校生の頃に使っていたセットをもらって、教室に持って行っていた。教室の棚に並んだ箱の中で、自分のものだけが違っていて、遊香はそのことが結構うれしかった。絵画用のエプロンをしていても、たびたび服に絵の具がついて、そうなると何度洗っても取れなかった。土曜日の朝が来る度に、遊香の家の物干しには絵の具の付いた服がぶら下がっていた。


白紙のままの課題用紙を前にして遊香が固まってしまっていると、部屋を覗きに来たお母さんが呆れたように言った。


「あんた、まだ手が描けないの」


用紙の脇に転がるはさみを見ただけで課題の中身を推察されてはぐうの音も出ない。

助けを求めるように遊香が首をすくめると、お母さんは左手を拳に固めてくるくると顔の前で捻ってみせた。


「こっちの紙に、何も持たない状態で描いてみな。指より関節のとこが目立つように」


アドバイス通りにしてみたら、いつもよりはまし(・・)な手になった。


「できた!」

「まあまあか。その調子でやんな」


お母さんはまた階段を降りていった。夜更かしが過ぎる上の弟は、すぐに居間から追い出されるだろう。



一時間ほどで二枚の課題を描き終えて、遊香は伸びをしてから交互にそれらの出来栄えを眺めた。手の甲を向けた方は上手く描けたと思うけど、爪が見えている方は時間が掛かった割に下手だった。

夜型の遊香でもさすがに眠い。もういいや、と呟いて遊香は机から離れた。

居間に戻るとお母さんはまだ起きていて、テーブルにはマグカップが二つ置かれていた。


「終わったか」

「まあどうにか」


自分の椅子に腰掛けた遊香の前に、少し冷めたホットミルクが差し出された。牛乳好きの遊香には、それがミルクパンで温めてくれたものだと匂いだけで分かる。六年前に亡くなったお父さんも、このホットミルクをよく飲んでいた。もう熱くないと分かっていたけれど、遊香は膜の張ったミルクに少し息を吹いてから口をつけた。


「お母さんは、もう油絵を描かないの?」


那須塩原のおばあちゃんの家には、美大に通っていた頃のお母さんが描いた大きな絵が今も飾られている。

黒々と塗られた画面を見るたび、お母さんは若気の至りだと言って気まずそうな顔をする。幼い頃の遊香にはその絵が少し怖く見えて、八畳の和室には大人と一緒でなければ近寄らなかった。中央にぽつんと置かれた十字架が何を意味しているのか、まだ遊香には分からない。


「描かないよ、あんな面倒なもん」


口の端で笑ってお母さんは言った。お母さんの絵の道具は、ずっと遊香の通う教室にある。

遊香はなぜだか悲しい気がして、野球の事を聞こうと思った。


「試合の結果は?」

「横浜のサヨナラ勝ち、やったね」

「おおおー」


九回裏にロペスが放ったホームランで、二人が応援する横浜は連敗を脱していた。

気を良くした遊香がチームのマスコットを落書きし始めると、お母さんもペンを取って遊香に倣った。


「できた!」

「どれ」


お互いに描き上がった絵を見せ合って、


「……まいりました」

「修行が足らん」


お母さんは腕組みして勝ち誇る。サインペンの一発書きでは経験の差が歴然だ。

それにしたって。


「あたしの方が毎日たくさん描いてるのになあ」

「いや(ゆう)はもう少し勉強の方も頑張れよ」

「お母さんがいっぱいイラスト描いてたのはあたしが低学年の頃までじゃん。いつまでも上手いのは……」


遊香はハッと気がついて、だんだん語尾が小さくなる。

ああ、ごめんなさいお父さん、お母さんにひどいことを言いました。

出かかった言葉をどうしようかと持て余した遊香は、ソファに身を投げ出してごろごろと何度か左右に転がった。それでもさっぱり落ち着かないので、結局言いかけたままを言ってしまった。


「……ずるいと思います」

「なんで敬語なんだよ。一丁前に気を回してんじゃねえ!」


お母さんは笑いながらそう言うと、揃えた指先で遊香の肩や背中を何度もつついた。くすぐったい。


「だって描かなきゃだんだん下手になるって教えてくれたじゃん。お母さんは違うの?」

「誰だって同じだよ。だけど私には」


お母さんはあくびを一つして、


「世話の焼ける錆止め(・・・)がいるからね」

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