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窓辺に暮らす

作者: 伊波

初作品、初投稿です。どうぞよろしくお願いします。

17時のチャイムが聞こえる。

地元では正午と夕方に市内放送でチャイムが流れて、時には子どもたちに帰宅を促すアナウンスがかかることもある。これは常々天災に脅かされる土地で防災無線が機能しているか日々確認するためだと町の噂で聞いていたけれど、越してきた地元よりすこし都会のこの街でも同じように流れていて、町の噂はあてにならないな、などと思う。


うっかり仕事を辞めてしまい早1ヶ月。何をするともなく日々暮らしている。

開けた窓からは街の音がどこか遠く聞こえて、ベランダのプランターで萎びた葉がそれに合わせたように揺れる。


「そろそろ替えてやらなきゃ」


咳をしてもひとり。

世の中には信じられないくらいたくさんの人が生きていて今こうしている間も誰かが生まれて死に、笑い悲しみ、美味しいものを食べたり眠ったりしている。ということが、どうしようもなく不思議になる。ここにはわたしと、プランターの緑だけ。


着慣れたワンピースに、サンダルを突っかけて外に出る。夕方の風は少し冷たい。

違う道で行こうと思ったのに、気がついたらいつもの歩道橋を渡っていた。諦めてそのままスーパーに向かい、豆腐だけ持って出る。

世界はいつだって閉じていて、どこにだって向かっていない。



「番号教えてもらえますか」

ふと顔を上げると、見慣れたエプロンとネームタグ。

「海原さん」

こんばんは、と返す。

帰りに立ち寄った園芸店で、すっかり顔見知りになった海原さんは種を袋に入れながら繰り返した。

「番号、教えてもらえますか」

「番号」

「携帯の」

なんで、とか、今どき電話番号、とか、メアドですら、とか駆け巡る間に海原さんは口を開く。

「ほら、今日探していらした種、入ったらお電話しますから」

「…あっ、なるほど、はい」

番号を紙に書くでもなく、お互いの携帯に登録しあったことに気がついたのはすっかり馴染みの園芸店から家に帰ってカーテンを閉めたときだった。



やかんを火にかけてぼんやりと部屋を眺める。

お気に入りだったはずの少しきらきらするベージュのワンピースはすっかりクローゼットが定位置になってしまった。手放してしまうのもいいかもしれない。着ないものは悪くなるから。そう、あれもこれと一緒に手放してしまえば、それも、

「あ、」

水を入れすぎたやかんが溢れて思考が止まる。窓辺に置いた思い出をどうしようか。



「種、入りました」

三日後、簡単に名乗った海原さんは、言葉少なに要件を口にした。

「あっ、……あの、わざわざ、ありがとうございます」

「今日取りに来ますか?」

「えっと……夕方なら」

「じゃあ、お待ちしてますね」

それでは、と電話が切れて、携帯電話をソファに置く。携帯が鳴ったのはあの時以来で、少し鼓動が早い。今は違うのだと自分を諫めて、そのままぼんやりと天井を眺めながら何もしていないのになぜ夕方と言ったんだろうかなどと考えた。ああ、せめて化粧をしないといけない。

窓からの日差しに手をかざす。手の甲に残った火傷跡を眺めていると、一緒にキッチンに立った日々を思い出す。すごく慌てていたっけ。今ではあまり使わなくなって、やかんだけがいつも鎮座している。ベランダに目をやると、新しい芽が風に揺れていた。ものを減らそうとしているのに、少しずつプランターは埋まり、増えていく。生きる責任があるような気がする。



薄曇りの夕方、馴染みの園芸店の引き戸を開く。からからと音が鳴り、奥のカウンターから海原さんが顔を出した。

「こんばんは」

「こんばんは。……すみません、ご連絡いただいてしまって」

「全然、これくらい」

言いながら、海原さんは慣れた手つきで種を袋に入れてこちらに差し出す。ぼんやりとその様を眺めてしまい、慌てて財布から小銭を取り出してトレーに置いた。

頭を下げて店を出ようとすると、「あの」と声がかかった。

「あの、俺、これで仕事上がりなんです。

……それで、もし良かったら」

少しコーヒーでも飲んでいきませんか、と海原さんはまっすぐな目で言った。



簡単に化粧をしたとはいえ、着慣れたワンピースにサンダルを突っかけた状態でカフェに入ることを躊躇していると、海原さんはいつもの調子で提案した。

「美味いコーヒースタンドがあるんです。その近くの公園で、すこし付き合ってもらえませんか」



夕方の公園はよく風が通り、スカートの裾を僅かに揺らす。夕方のチャイムが鳴り終わり、子どもたちが帰っていくのが見えた。声が遠ざかっていく。ベンチに腰掛け、こちらへコーヒーを手渡す海原さんの短い黒髪は風に揺れておらず、ああ、髪が硬いんだなということをなんとなく思った。



人と一緒にいる時に何かを口にするのは本当に久しぶりだった。というか、買い物以外で人と会話をすること自体が久しぶりで、回らない口でぽつりぽつりと話をした。この街に越してきて暮らしていること。窓辺は風がよく通ること。ベランダのプランターが大切な気がすること。海原さんはいくつか質問をして、それから答えるこちらをじっと見つめていた。



「カップ、捨ててきますよ」

コーヒーが空になってしばらく経った頃、海原さんが立ち上がってこちらに手を差し伸べる。

「すみません、ありがとうございます」

カップを渡したその時、ほんの一瞬だけ指先が触れた。人の肌を感じるのはすごく久しぶりだと思い、それからベランダのプランターを思い出した。芽が出ていたし、帰ったら水を遣らないといけない。忘れないように。



数日後、いつもの道を通り、スーパーでなんとなく切り花を買った。手に取りながら思い出すものがあったような気がするが、それが何かは分からなかった。新聞紙で包まれた花が入った袋を下げ、馴染みの園芸店を通り過ぎて路地に入ると後ろから声をかけられた。

「こんばんは」

知った声に振り返ると、見慣れた顔の見慣れない姿があった。

「海原さん。おつかれさまです。……お仕事終わりですか?」

ラフな白シャツにデニムの海原さんはほんの少しはにかむような顔をして、いえ、今日は休みで、と答えた。それから、不意に何かを考え込むような顔をした。一瞬だけ。

「あの……今日も、コーヒーご一緒していいですか」



海原さんに誘われていつもの公園のベンチに腰掛ける。夕方の風は冷たく、心地よい。

袋から覗く切り花にちらと目線をやってから、海原さんが口を開いた。

「花……」

「え?」

「花、買うんですね」

「ああ、あの……プランターの花が咲くまで、机に置いておこうと思って」


なんとなく会話が途切れ、葉の揺れる音が聞こえる。今日はもう子どもたちは帰った後のようで、公園には人気が無かった。

ぼんやりと公園を眺めていると、ふと、海原さんとの沈黙は気にならないことに気がついた。沈黙が気になるかどうかを考えること自体が久しぶりであることにも同時に思い至って、かすかに笑みがこぼれた。

隣で少し身じろぎする気配がして、それからややあって、海原さんが窺うように切り出した。


「こんなこと、俺が言っていいか、わかんないんですけど」

噛み締めるように言って、海原さんはこちらに向き直る。

「あなたの寂しそうな顔を見るたびに、どうにかしてやりたいって思うんです。あの、……俺が、一緒にいてもいいですか」

あなたと一緒にいたいなと思ったんです、と繰り返す。

ざあ、と、耳の奥でなにかが流れ出す音がした。唇がふるえる。今まで触れてこなかった思考が溢れ出して、任せるままに口を開く。

「夫が、いなくなってしまって、……どこにもいなくて、もう」「なんで置いていってしまうのって話しかけても、誰もいなくて」「一緒に歩くって約束したのに、」

喉の奥がきゅっと締まるような感じがして、言葉に詰まる。

「……、ごめんなさい、こんなこと……帰りますね」

カップを握りしめて立ち上がる。

頬にそっと気遣うように触れた、かさついた手は暖かかった。



部屋に戻ると、飛び込むようにベッドにうずくまった。海原さんの短い黒髪が、まっすぐな眼差しが頭をよぎって、どうしようもない気持ちになる。枕に顔を押し付けて、頬が濡れていることに気がついた。部屋は暗く、目を開けているのか閉じているのか段々と曖昧になってきて、それからどれくらい時間が経ったのか、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。

いつからか握りしめていた携帯には着信が入っていたけれど、その電話に出る権利が自分にあるのか、わからなかった。



目が覚めると重い体を引きずってコップに水をつぎ、一口飲んで窓辺に座り込む。頬杖をついてプランターで新しい芽が風に揺れるのを眺める。今日は天気がいい。音がどんどん遠ざかって、眺めているはずのプランターも輪郭が曖昧になっていく。

わたしが、差し伸べられた手を取ることはできるんだろうか。一緒にいたいと言ってくれたあの人。一緒に歩こうと言ったはずのあなた。窓辺で忘れるなと言っている。こちらをずっと見つめている、見つめていてほしいと思っている。忘れたくない、ここに留まっていたい、変わることは怖いから。進むことも怖いから。

あなたと、一緒に歩むはずだった道をわたしだけ進むのが怖い。そのときに隣にいるひとがあなたじゃないのが怖い。……それを、あなたがどう思うかが怖い。

弔いは残された人の気持ちのためだと聞いた。そうしたらわたしのこの気持ちはなんだ。



頭を振り、立ち上がると急激に音が戻ってくる。プランターの輪郭がはっきりする。窓辺の棚に置いて久しい小箱を手に取り、そっとなぞった。ゆっくりと蓋を開けると、柔らかな布に包まれた銀色が淡く光を反射した。一瞬触れて、取り出すことを躊躇し、目を閉じる。

いつかわたしが死んだら、これは海に捨ててねなんて笑って、でもあなたはにこにこして何も言わなくて、あなたが、の話はしてなくて、わたし、あなたと何も約束してないから、わたしはこれをどうにもできない。したくない。海に捨ててくれる約束すら取り付けられてないのに。



目を開いて窓辺から視線を外す。机の花瓶には、淡い紫の小さな花が咲いていた。

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