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楽園追放  作者: 石川零
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∬三の夢∬

 ミケシュには早朝から様々な公務が待っていた。大社での儀式、領管主族や役人の謁見、農地廟への拝礼。その間、ミケシュの頭には絶えず森で出会った娘の像が浮かんで消えなかった。

 おかしなことだと思った。目覚めてから何度、あの数秒を反芻したことだろう。本当に現の出来事であったのか、それさえ今になっては頼りない。そもそもあれから自分がどのようにして大社に戻ったのか、記憶が定かではない。 

 まるで強烈な目眩ましにあったような気分で彼は人に囲まれつづけていた。

『汝、第三神の月二十一日夜、キシル町三の辻において泥酔の上ディディスゥ神像を打ち壊したる事、これを認めるか』

『咎人キズスはこれを否認』

『証言者甲の証立てを求める』

『本件は、差出人シュアラ・カデネ並びに証言者甲乙の証立てを認め、咎人キズズ・ゲレルを有罪とする。咎人は罰金三十ギスを二月以内に支払うように』

『案件第三』

『咎人フリア・カリゲイは第四神の月三日夜、不法にディディスゥ大社敷地内に侵入し、本扉、大主神像、ディディスゥ神像に煽動文書を貼付、同月十九日昼、ネリャイ村にて行いしカル・イベカ教布教説法の中で主神を冒涜した』

 目の前で繰り広げられる問答がこまぎれに、ミケシュの意識をつれもどす。異端審と言っても、大した事件がない。最近はどこもそうだ。最近は、やっと……。

 リトゥは、大陸の諸国の中でも秀でて民の暮らしの豊かな国である。しかし、ミケシュが物心ついてから知っているリトゥは、そうではない。未曾有の干魃と地揺れ、飢饉による疫病とに続けて見舞われた動揺の時代。動揺の時代の次には、動乱の時代。

 動乱の時代は、ミケシュが修養の子供時代を終えて〈守護者〉として成人した頃に重なる。

 災厄の連続で民衆のあいだに高まったまつりごとへの不満は、隣国から勢力を伸ばしていた新興教に利用され、十二神を柱とする国の在り方そのものを揺るがしかねない大きな波となった。〈主族〉は徹底した異端狩りを行なった。リトゥの空気は殺伐を極め、貧農と結び付いた新興教徒を中心に、より過激な抵抗を煽ることにもなった。

 この時あだとなったのは、諸国の干渉を防ぐため守られてきた独特の気風である。この国の民はほとんど国の外との交流をしない。交易は限られた場所と人間にしか許されていない。そして強い求心力を中心にまとまった国は、外からの戦に強かった。

 ——外を見ない者は内をも見ず、外を得ない者は内をも得ず。

 瑞穂の恵みを当たり前のように享受してきた民は、内に起きた災害によって簡単に揺らいだ。

 そして、その揺らぎに乗じて民衆に毒を吹き込んだのが——。

 大陸の端、見渡す限り砂礫の荒野という不毛の土地で生まれた新興教カル・イベカは、来世での救済を説いて人心を掴み、国境を無視した活発な宣教によって爆発的に版図を広げてきた。リトゥに活躍したのも、山脈を越えて不法に侵入した者たちである。

 最初のうち彼らは、リトゥの民衆に受け入れられることはなかった。得体の知れない侵入者に対する迫害はどこにも当然ある——。

『案件第七、咎人サウリ・ヤミンカ』

 それが珍しいものに聞こえたのは女に付ける名前だったからだ。興味を惹かれてミケシュは顔を上げた。

 御簾の向こう、咎人席に立った者の顔に、鼓動が跳ねる。

 昨日の娘だった。

 本当にそうだろうか。赤い御簾にぼやかされた輪郭を、ミケシュは凝視して確かめる。間違いない。

 あの娘だ。

 ミケシュは娘の声を初めて聞いた。娘は自分の名前を言った。竪琴の、高音の余韻に似たその声は堂々として、真っ直ぐ判官を見据える態度にも怯えの色は見えない。

 御簾越しにも瞳の強さはやはり目立った。

「あの娘は〈穢れ〉の扱いか」

 視線を外せないまま、後ろに控える神官に訊ねた。

「はい。娘の属する村から、行動に不審有りとの訴えが差し出されました」

 〈穢れ〉とは、十二神に対して仇なす鬼。呪術を用いて災厄を呼ばんとする異教の者または背信者を指す。

「しかし確かな証しがありません。恐らく諭しを与えるのみで終るのではと……」

 手元で漉紙の束を繰りながら説明する初老の神官は、「ご存知のように先住民の線はこちらではほぼ絶えましたので……、恐らく村の中のいざこざでしょうな」と、最後のほうは呟いた。

「絶えた、と言われたが」

 ミケシュは神官に顔を向けて反問した。

「シュミル地方ではまだ残党が多いと聞くが」

「ええ、ええ。しかしこちらでは全く出ません。二年前、第二神の月の捕縛を最後に絶滅しました」

 老神官の目に浮かんだ誇らしげな色を見て、ミケシュは不快を覚える。御簾の向こうで審問は粛々と進み、名前を伏せた村人からの訴えが読み上げられている。

——サウリ・ヤミンカは毒草を栽培している。

——サウリ・ヤミンカは、カル・イベカの呪術を用いてクズミ村に疫病を呼んだ。

——サウリ・ヤミンカは自分の父母に毒を盛って殺した。

——サウリ・ヤミンカは日頃から村人を避けて暮らし、その態度にあらわな憎悪が村人を怯えさせている。

「どれも身に覚えがありません」

 娘は、——サウリは、はっきりと罪を否認した。

 一瞬静まりかえった判官たちにミケシュは不安を感じる。

 だがすぐ、安心に変えた。

 ミケシュにはわかった。彼の鼓動を波立たせたサウリの声は、その場の全員に同じ支配力を持って響いたのだということが。

 ……でも、もういちど彼女の声を聞きたいと思うこの心はどうなのか。この場の全員が同じだろうか。

「二年前。……処分は?」

 むりやりにミケシュは娘とは無関係な会話を続けた。神官はさらに紙束を繰った。

「火刑です。呪殺具を所持していましたから」

「読ませてもらえるか。持ち帰って学びたい」 

 老神官は何か自分の栄誉のように思ったのか手揉みして、しきりにミケシュの向上の姿勢を称えてくる。

 異端審は神官の示唆通り、サウリに諭しを与えて終わった。

「……っ」

 サウリが咎人の席を去ろうとするとき、ミケシュは玉座から立ち上がった。

 昨日のことが思い出された。追うことの出来ない自分。

 理由なく追いたいと思う自分。

 足を踏み出さないよう、玉座の肘掛をきつく掴む。周囲からの視線を感じる、それなのに。

 ……退くことが出来ないのは。

 そのとき幕戸を上げる衛人の前に立ち止まったサウリが、緩やかに、半身だけで振り返った。

 彼女の目は狂いなくミケシュを捉えていた。サウリの瞳の中にミケシュは打ちのめされた魂を知って驚いた。

 サウリは静かに消え去った。



 寝台に座り込み、ミケシュは傍の漉紙の束を取り上げて開いた。サウリ・ヤミンカに関する記録はわずか二枚に過ぎない。 

 サウリ・ヤミンカは、出生から現在までをクズミ村に登記されている。齢は十七。父は木こりであったが、三年前、流行り病で死亡。時を違わずして母も同じく病死。以降、娘は独り暮らしを、村近くにある染色場への奉公でつないでいる。

 異端審では取り上げられなかった記述が一つある。

『確かなことではないけども、当時からサウリ・ヤミンカの生まれには不審があってさ。誰もあれの母の身重の姿を見たことがないんで。何しろあの一家は森暮らしだから、はっきりとはせんよ。けども、空から降ってきたか、拾いっ子か、ていう噂が絶えなかった』 

 ミケシュは眉をひそめた。

 他の証言と同じく、これにも三人以上の村人からの認めがある。審問に取り上げられる条件を満たしたものだ。〈穢れ〉の審問にとって最も重要に見えるこの証言を、異端審は何故取り上げなかったのか。

「先住民……」

 元来、カル・イベカの乱以前に、異端審の主な対象となっていたのがリトゥ先住民だ。

 黒瞳黒髪、という外見上の特徴と骨格が酷似するリトゥ民族と先住民は、さかのぼれば同じ祖に辿り着くといわれる。先住民の殆どは、今のリトゥ民族の父祖がこの地に流入、開拓を進める初期の過程で呑まれ、淘汰された。

 だが、山脈に逃げ延びることで伝統をつないだ者たちが、ごく僅かにいた。

 帰順を拒み、かたくなに独自の習慣を守り続けた先住民たちは次第に、侵略者であるリトゥと、リトゥの十二神信仰を、憎悪するようになった。呪殺、村落への襲撃、火付け——復讐は逆境に生きるリトゥ先住民の文化そのものとなっていった。   

 リトゥ建国来、山に隠れた先住民の恐怖は、山脈を背にする土地が抱える難問だった。

 しかし、先住民は消えた。カル・イベカの乱を境にして。

 彼らもまた、カル・イベカに酔わされ、踊らされたのだ。

 飢饉と災害を起因とした全土の暴動が、〈主族〉による徹底的な異端狩りによって収束の兆しを見せ始めたころに、それは始まった。

 カル・イベカ教にはもともと多くの派閥があり、特に急進派と保守派のいさかいは深刻であるという。急進レト派は母体である正統(トスト)・カル・イベカの方針を守らない。レト派は何よりも、聖典の神に約束されたカル・イベカによる大陸統一を重要視している。神の命令どおり地上に神聖なる国を打ち建てるために、手段を選ばない。

 レト派にとって布教とは、国を破壊する活動に他ならず、それはカル・イベカを既に国教とした国々に対してさえ行なわれる。

 リトゥに入った彼らレト派が、すかさず目を付けたのが、山奥の隠れ里に暮らすリトゥ先住民だ。リトゥ先住民とカル・イベカ急進派は目先の利害で結びついた。戦力として先住民を取り込み育てたレト派は、やがてリトウ全土で神出鬼没の活動を始めた。

 多くの〈主族〉や〈宮族〉、神官たちが犠牲となった。洗脳の毒に狂う者、呪殺に倒れる者。気付いたときには、内臓を侵食する業病のような不気味さで、国家の中枢近くまでレトの業は広がっていた。

「似ている——」

 脳裏にかすめた幻は人間の焼ける臭いと、屹立する七本の……。

 片膝を抱えてミケシュは込み上げる吐気をやりすごす。

 七本の木に括られた七人の先住民は、松の油をかけられ、火を点けられても、双子星の玉座に向ける憎悪の目を逸らさなかった。曇天に、まるでとってつけたようにその時間だけ吹いた南からの強風が処刑者の叫びをかき消し、彼らの灰を巻き上げた。

 玉座のミケシュは十四だった。

 リトゥ先住民の歴史が、あの日を境に終わっていった。

 レト派の巣窟とわかった先住民部落は一斉の焼き討ちを受け壊滅した。カル・イベカ急進派を受け入れなかった先住民の村にも、騒乱に加わらず穏やかに暮らす人々にも、釈明や抵抗の術はなかったと思われる。

 レト派の殲滅をして、長きにわたる国難は過ぎ去った。

 しかし炎の中からミケシュを憎悪した七対の目は、ミケシュの魂に棲み着いて残った。彼の魂に棲む七対の目は、夜毎にさまざまな悪夢を紡ぐ呪いだった。

「憎しみ……?」

 炎が照らす断末魔のあの眼差しを、思い出させる。

 あの娘はそういう目をしている。

 ミケシュは木の床に貼り付いた夕日の色をじっと見つめた。窓の覆いの御簾の透かし模様が、細かい影となって落ちて、さざなむように揺れている。

 異端審で神官が誇ったように、リトゥ先住民はカドミシュ地方では、ほとんど絶滅したと報告されている。狩り出しを逃れた一部のカル・イベカ急進派は国外へ離散し、孤立無援で野に立たされた先住民たちの行く末は明白だった。

 しかしだからといって、サウリという娘が先住民の血を継いでいないとも言い切れない。彼女は森で拾われた子供かもしれない。例のないことではない。

 異端審に差し出される疑いとして、少なくない。

 先住民の親に取り残された子を拾う者もリトゥにはいる。そうかといえば、動乱を経て猜疑心の塊となったものもリトゥにはいる。沢山、いる。

 ミケシュは証言をもういちど読み直す。

 異端審で使われなかったこの証言には、実際に採用された幾つもの馬鹿げた証言に比べて、真実味がある。

 異端審へ娘を差し出すに至った村人たちの疑心の根はむしろ、この噂にこそあるのではないか。だとすれば尚のこと、証言を取捨した者の判断に首を傾げざるをえない。

 床の木目に投げかけられた橙色は次第に陰影を増してゆく。

 紙束を投げ出してミケシュは寝台に倒れた。

 あの瞳が、心に焼き付いて離れない。

——いいや行ける筈がない。

 彼はまだ自分の内にある理を信じている。

 信じている。

『リトゥの中に、神々が考えた仕組みと〈主族〉たちが考えた仕組みは、それぞれどのくらいあるんだろう?』

 賢しらに疑問を呈した十才のミケシュに答えて、師のルゲディは言った。

『考える、ということにも、素材がいるのです。賢く優れた人々は、与えられた素材を元に、あるべき正しいものを組み上げるのですよ。ミケシュ様』

『素材というのはわたしとラタルゥのこと? それではまるで、わたしとラタルゥのために国がある、ということになってしまうよ。それではだめだろう?』

『“ために”という言葉には“おかげで”という意味もありますからな』

『“おかげで”という言葉には“せいで”という意味もあるじゃないか?』

 ルゲディは瞼を閉じて笑っていた——。

(そうだ……)

 おかげであろうと、せいであろうと。

 リトゥは双子星という理を中心に組み上げられているのだ。

「行けるはずがない。何をしに行くというんだ」

 ミケシュは同時に、自分を惹き付けるものが何であるか、その理を見つけられずにいる。

 片腕で瞼を塞ぎ、強くつよく押さえ込む。

「何、が」

 玉間は夕闇に支配されていた。

 夕日はいつのまにか、沈む早さを変えたようだった。



 まだ夜も明けきらぬ早朝に、サウリは茂みにかがんで野苺を摘む。

 馬の気配を聞いて、彼女は膝をついたまま小川の向こうを振り返った。

 栗毛の背に、〈守護者〉がいた。

 ふたりはふたたび目線を交わす。

 ふたりは互いの名を、知識の中でしか知らない。

 言葉が、ふたりのあいだに意味を持たずにいられる最大限の時間だけ、彼らは黙ったままだった。

 最初に、掠れる声を振り絞ったのはミケシュだった。

「僕は、どうしてここに来たのか、わからない……」

 サウリは立ち上がった。

「僕は……、どうしてこんなにも君に、逢いたいと思うのか、わからない」

 ミケシュのすぐ前に、サウリは来ていた。

 ミケシュは馬を降りた。今は小さな清い流れのみがふたりを隔てる。互いに伸ばした手が、指先が、かすかに触れようとしている。後ろ手に握った馬の手綱だけが、ミケシュを現に繋ぐ最後の楔となっていた。

 指先は溶け合った。

 その瞬間、ミケシュは小川を越えていた。手綱がむなしく揺れる。

 ふたりは片手を絡ませあい、そして。

 影を重ねた。



         ◆

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