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楽園追放  作者: 石川零
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六 酒場のパティス

 イシニエムはカーミィアルの街へ出た。電信局に寄って博士院と実家宛に、目的地へ到着した旨の電報を打ち、為替を受け取った。現金には変えずに、手持ちの金を数えてから地元の酒場へ足を向けた。

 イシニエムは酒を飲まない。飲めなくはないから麦酒を注文してカウンターに腰掛ける。その国を知るには酒場がいちばん手っ取り早いのだ。イシニエムは旅の途中も必ず昼間の酒場で耳を使った。昼の酒場にたむろすような客のほうが、情勢の煽りをもろに受けている確率が高い。イシニエムは人々の生々しい暮らしぶりを知りたかった。

 フェンデェアルの地方都市カーミィアルは、各年齢万遍なく酒好きが多いらしい。酒場は混雑していた。

 イシニエムも耳をそばだてているのだから不快に思う筋合いではないが、異人である彼はぶしつけな視線を集めた。白系国の地方都市に、黄褐色の肌のロウアン族は滅多に訪れないのだろう。詰襟の博士院学生服は軍服と間違えられることもあるから、なおさら目立ってしまう。

「イェンデルの街で農奴がひとっからげ捕まったってよ。ひとっからげシミア送りだろうて、暴動なんてするもんじゃない」

「食い詰めたんじゃ仕方なかろ」

「シミアで凍りつくのとどっちが楽だろうね」

 シミアは北方の寒冷な海に浮かぶ島、強制労働を課す徒刑場で有名な地名だった。

 フェンデェアルにも革命の胎動があることは、帝国にいたときから知っていた。遅々として改革の進まない旧態国家の例に漏れず、革新党の扇動と暗躍を腹に抱えているという。

 大陸中で連携する革新党員は、さながらかつてのカル・イベカ教徒のようだ。

(終わりの歌、か)

 この国も、いや、この国の貴族たちも、その歌を聴く時が来るのだろうか。

 群れなす立ち呑み客の壁が、霧の晴れるように崩れた先で、見覚えのある顔がちらちらした。

 大きな緑の瞳がこちらを向いて瞬いていた。

 パティス・フェドウは笑いさざめくボックス席の端で、仲間たちのおしゃべりへの集中を欠きながら、しきりに黒パンの切れ端を鼻に当てていた。イシニエムのグラスが空いたころ、彼が席を離れて寄ってきた。

「やあどうも、イシュさん」

「どうも」

「広場の自動車はあなたが乗って来たものでしょう? 帰りにぼくも乗っけてくださると嬉しいんですが。伯爵に頼まれものがあるんでして」

「もちろん、いいですよ。伯爵が出してくださった車ですから。すぐ出られますか?」

 パティスは仲間のほうを振り返って挨拶を投げた。

 学生と勤め人が混合する市井の思想家たちは、ときどき潮の満ちるような白熱の怒声を上げたり、道化のコメディを真似して馬鹿みたいに笑ったりしながら、のんべんだらりと呑み続けている。

「中産階級の息子たちですよ」

 訊いてもいないのに、店のドアを開けながらパティスは説明した。

「二流大学の夏休みを酒と売女と政治与太に費やしているような奴ら」

「若い人たちは同校生ですか」

「まあね、でもぼくは苦学してるんでして。伯爵の運営なさる奨学金をいただいているんですね」

「それは立派なことですね」

 伯爵とパティス・フェドゥ、両者に向かってイシニエムは感心を表した。

「その二流大学の歴史学の教授が、伯爵のコレクション集めの協力者でありまして。下宿が同じなもので、お使いをよく頼まれるんでして。ぼくとしちゃ、あんな面白いサロンもないんで、ねがったりかなったりの頼まれ事なんですが」

 広場の反対にある電信局の前に待機している車へと歩きながら、パティス・フェドウはすでに饒舌だった。

 やや足を引きずる歩き方にイシニエムは気づいた。敏感なパティスはこれまた訊いてもないのに先回りをした。

「左右の脚の長さが違うんで」

「生まれつきですか?」

「そう。右足で母親の腹を蹴り過ぎて、生まれ出でたときにはもう故障してたってわけですよ」

「それは。両足交互に蹴っていればよかったですね」

 パティスはまじとイシニエムを見上げた。

 そしてたっぷり五秒は瞳を乾かした。

 ああ、まずい、とイシニエムは思う。

(地の性格が出た——)

 貴族の城館を離れて気が緩んだのだ。

「……あっは。生真面目で誠実そうなインテリなんて嘘臭いと思ってたんだ」

「嘘ではありませんよ。ただ少し、身分違いの方々の前では口を謹んでいるというだけで。僕は公費でこちらへ伺っている立場でもありますから」

 広場の中心に噴き上がる噴水の水柱を眺めつつ、イシニエムは弁解した。

「貴族なんぞの前で、口を気にする必要はないと思うな。中身まで上品だと思ったら大間違いだ。貴族なんざ、なんら下賎と変わりないですよ、見えないところでやってることはねぇ」

 運転手が開けたドアの隙間へ潜り込みながら冷笑してパティスは言う。運転手の雇い主をはばかってイシニエムはやや周章した。

 車中でしかしパティスは堂々と、貴族と中産階級への批判を述べ立てまくる。痩せた体から発する甲高い声と道化の口調でもって。

 立て板に水の勢いに、イシニエムは半ばあきらめて車窓を見つめた。喋りながらパティスが、上着から取り出して吸い始めたシガリロをイシニエムにも一本新しく勧めた。受け取って、火をもらう。相槌も面倒になってきた口の手持ち無沙汰を、イシニエムはシガリロで紛らせる。

「あの端正な顔をしきった公爵だってねえ」

 さすがにイシニエムは、つい昨日の午後に親しんだ人物への貶めをそのまま聞くわけにいかない。

 制するために振り向きかけて、煙を下手に吸い、咳き込んだ。

「若い頃は、って今も若いですけどね、少年の頃はとんでもない堕落を経験済みだって話ですよ。まあこいつは噂だが——」

 さんざん咳をし尽くして息をつき、イシニエムはパティスの言葉を追いかける。

「——堕落なら、あの人は自分でそのことを隠していなかったようじゃないですか。楽園を追い出されたとか言っていた」

「仄めかしただけでしょ。しかしあれで、噂は本当なのかもしれんとぼくに思わせたってわけだ」

「広がった噂なんですか」

「そうじゃなければ聞きたくないってんですか。みんなが知っていることしか知りたくないってんですか。だけどイシュさんも歴史家の端くれなら、耳にできることはしておいたほうがいいでしょうよ。公爵家の不祥事は立派な歴史と言えましょう」

 リトゥみたいに、知るぞ知る歴史だ。——パティスは青白い口唇の端をつりあげた。

「広く噂になってれば伯爵家とのあいだに縁談が持ち上がったりしませんぜ。下賎の者には下賎の者の情報網があるってんで、つまり使用人どもの噂がぼくら運動家の情報源なんですよ。例のテーブルで公爵の正体を知ってるのはぼくだけっていう面白さが気に入りでね。道化はたいがい王様の何でもかんでもを知っているものですが。そう、知った上でとぼけてる、そういう役割はまったくもってぼくの得意ですよ」

「パティス君、饒舌も度を過ぎるとただの子守歌だ。僕はなんだか……」

 イシニエムは頭を振った。

 虹色の顔をしたパティス・フェドゥが三人に増えて揺らいだ。

「ま、噂がお嫌なら単なる事実をお知りになればよろしい。ははは。十年前、公爵家から伯爵家へ一人の使用人が紹介されて移されたのは単なる事実。彼女は公爵の乳母の娘で、当時十五で、伯爵家に雇われると四つ年下の令嬢の専属使用人になった。これも単なる事実。へっへへ。見目の良い娘だったからね、美しい伯爵家令嬢の侍女にうってつけではあったね、単なる事実。くふぁ、あーはははははっ」

 ——笑い転げる十二人のパティス・フェドゥに眇めた眼を向けながらイシニエムはこらえきれず体を折った。

 気分が悪い。

 腹の底から虹色の鱗粉を吐きそうになる。

 口を塞いだ片手から羽衣が生えて喉の奥へと滑り入る。

 真白な羽衣は、脳髄を抜け、目の裏に到達して瞼の隙間を通り、外へそよいだ。

 眼前を覆う柔らかな白光が、強烈な睡魔と溶けあう。

 一瞬の心地よい酩酊。

 その楽園で息する間もなくイシニエムは深い眠りに落ちた。

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