∬二の夢∬
御簾を上げた俥窓の向こうがわで、景色は移動の道のりにつれて変化していた。高原地帯にさしかかるとあきらかに空気が清しいものに変わり、目には初春の太陽がやわらかく存在感を示す。
巫女姫との別れから七日のち、ミケシュははじめの目的地に向かう馬俥の中にいた。
リトゥの各地には、様々に個々の神をたてまつる中社、大社が散らばる。
リトゥを守護する主な神は十二神だが、土着の氏神が、十二神のいずれかの所属となって祀られている社も数多い。
おおらかで多様な祭祀がリトゥの信仰の特色だった。
だが一方、その裏には、〈主族〉による巧みな仕組みと取締りが存在する。
八百年と少し前にはほぼ現在のかたちになっていたとされるリトゥのまつりごとの仕組みの中でも、多様な信仰を纏める上で最も大きな力を持つのが、現神としての双子星だった。その存在は、十二神の長である主神の神威として語られたからである。
まぎれもなく、双子星という生きた神秘が、国中のあまたの信仰を一つの物語で結んだ。
主神の使いである永遠の恋人たちは、民草に対し絶大な求心力を持っていた。
双子星はしかし、さほど民草の前にひらかれているわけではない。神秘は隠されるもの。希少さこそが権威につながる。〈御巡幸〉と呼ばれる今回のミケシュの旅は、双子星が民草の前に姿を見せる数少ない機会のひとつであり、宮城を動かない巫女姫の名代という意味も含めて〈守護者〉に課せられた務めである。
各地の大社を中心に回る行幸の真の目的は、つまるところ信仰の蓋であった。
『ルゲディ師。僕が出かけていって本当に喜ぶのは民ではなくて〈主族〉たちだろう?』
賢しらに師の前で嘯いてみせた幼いころの自分。
〈御巡幸〉によって双子星に微笑みかけられた民草たちは、日頃の苦労や不満をどこかに忘れて〈主族〉の言葉を信じはじめるのだという。
リトゥは十二神に守護される豊穣の国であり、双子星がそのしるし。
民よ稲穂を実らせよ。
その黄金は光芒の虫の色。
永遠の栄えを約束する色であるから——。
『リトゥの中に、神々が考えた仕組みと〈主族〉たちが考えた仕組みは、それぞれどのくらいあるんだろう?』
有り余る時間と馬俥の車輪の揺れが、彼に幼い思い出を呼び覚ましていた。
百万種類の緑色を集めて綾織られたようなカドミシュの景色に瞳を奪われながらミケシュは我知らず、そうだ、と呟いた。
あれは、ミケシュが十、ラタルゥが七つという頃のことだ。
お互いの修養と稽古の合間に設けられた時間に、あてがわれた学友達と共に遊んだ子供時代のこと。
(あの頃は何の屈託もなくて……)
遠い日の、あいまいで断片的な思い出を脳裏に浮かべる。
宮城の子供たちが地図を前に、外の世界を想像することに熱を上げていた時期がある。
その時分、リトゥの地理を中心に習っていたミケシュが覚えたばかりの知識をひけらかすと、子供たちの憧れは想像をたくましくしてリトゥの隅々に羽ばたいていった。
中でとりわけラタルゥが興味を示した地が——それが、美しい草木染めを特産にするカドミシュ地方だった。
『いつか見せてあげるよ』
ミケシュは約束をした。その自分の声も、ラタルゥの表情もはっきりと思い出すことができた。
他愛ない記憶だけれど。
あのときの自分は、宮城を出ることのない巫女姫にいったい何を見せようと思ったのだろう? 夏の過ごしやすさと色鮮やかな高山植物が知られるカドミシュの景色をなのか、それとも大陸随一の染色技術を誇る染め布の美しさをか。子供心に曖昧だったに違いない。
(それで……)
出発前のラタルゥの言葉を想う。
狭い馬俥の中に一人、腕を組むミケシュはいっそう複雑な気分になる。双子星の身の回りはすべて献上品で賄われる。カドミシュ染めの手巾なんて、幾らでも積み上げられているはずだ。おそらくラタルゥは、あの約束をまだ覚えていたのだろう。
(……本当に、私は)
自分は何を迷っているのだろう。
——ミケシュは、負の感情を破壊したかった。
カドミシュの太陽を見上げて、無理矢理にまなこを開いた。
日に照らされて鬱屈が浄化されることを、彼は信じたかった。
——なのに、それでも、期待は瞑目に取って代わるしかない。
叫びたい心には、息を吐かせた。
馬俥が、緩やかな勾配に差し掛かる。
次に目をひらいた時、ミケシュは自らに宣する。この旅が最後だ、と。
終わりにしよう、考えることをやめよう。この今、僅かに与えられた自由の中に葛藤をすべて捨てよう。
都に戻る頃には迷いない、立派な〈守護者〉になっていなければいけない。
そう、戻ったら……巫女姫を迎えに行くのだ。
夫として。
彼は、そう決心する。
カドミシュの別殿に着くと、ミケシュの元には土地の〈主族〉や有力者たちが入れ替わり立ち代わり挨拶に訪れて、午前いっぱいを玉座に縛り付けられて過ごした。
午後になって体の自由を得たミケシュは、玉間の窓から外を眺めた。
中空の太陽が目を眩ませる。
今日は夜まで休息を許され、部屋にはすでに人払いをしてある。
付きの者には少し休むからと、固く出入りを禁じた。
彼には考えがある。
御簾を捲り上げた窓から目に入るものは特になかった。敷き詰められた白砂利と、隣接の建物の壁だけ。そうでなくとも大社の周囲は木組みの高い塀に囲まれているから、景色など見えるはずがない。
辺りに人影もない。敷地の内奥とはいえずいぶんと手緩い警備だと思うが、彼にとっては好都合だった。
軽々と、白砂利の地面を踏んだ。
この国のどんな建物でも、だいたいの造りは決まっている。十二神に東西南北を対応させた方位占は人々の生活の隅々にまで浸透して神々の加護を呼ぶ。ミケシュは東に置かれるはずの馬屋を探して建物の裏にまわった。途中いくどか警備や社人とすれちがったが、ミケシュの装束から都人と察して遠慮がちに一礼するだけで、呼び止められることはない。まさか相手が〈守護者〉であるなどとは思いつきもしない。
馬屋はすぐに見付かった。二棟が並んだ馬屋の片方にだけ、人の立ち働く様子がある。ミケシュを運んできた俥車の馬がそこへ入れられたのだろう。〈宮族〉とそれ以外の者たちとでは、使う建物が違い、道具もけして共用されない。あらゆることに聖俗の別がはかられている。
ミケシュは忍び込んだもう片方の馬屋から、おどろく馬番の少年に頼んで、大社で飼われている馬のうちの一頭を牽き出した。
「み、都の方でしょ?」
目を丸くして不思議がる少年にミケシュは頷いた。
「うん」
少年は都人の装束を眩しげに眺めて、憧れの息を何度も呑んだ。
「遠乗りをしたいんだ。連れの者には内緒で。秘密にしてくれるかい」
少年は大社の敷地を誰にも気付かれずに森へ抜けられるという菜園脇の道を教えてくれた。
「ありがとう」
ミケシュは森の中へどんどん馬を進めてみた。
しばらく森を突き進んで、樹々の間隔がまばらになったと思うと、唐突にひらけた野原へと辿り着いた。なだらかな丘陵をなすそこは、春から初夏にかけての風がとても良い、と馬番の少年が言っていた。
なるほど、涼やかな風はそれだけで心と体を癒すようだった。
ミケシュと馬は、草地の土を蹴立てて抉りながら駆け降り、三方を深い森に囲まれた空間であることを確かめると、息のあがるまで野原を縦横に駆けた。それからまた丘の頂に戻った。
見上げる空は広く青い。
宮城の狭い敷地内から見る空は、下界との隔絶を思い知らせる空だ。だが今、頭上に広がるそれは、ただの空だ。ただの、自由な空だ。ミケシュは目を細めて、その向こうにあるはずの天を視ようとした。
彼は天をさがした。もし自分がその系譜につらなるものならば、縮れて浮かぶあの雲や、羽ばたきの聞こえぬほどの高みに日差しをついて飛び回る鴉の群れが、何かの啓示を与えてくれるに違いなかった。
リトゥの主神は大気に宿る神だ。
呼気と吸気は生命の証——主神の存在と恵みなしに人は生きられない。主神は、だから人の身に起こるすべてのことを知っている。主神はその全身でひとびとの呼ぶ声を聴いている。ひとびとの望みをその手に握っている。
双子星としてではなくてもいい。ただの人間としてでも、いい。ミケシュはただ一言が欲しかった。自分を導く、何らかの意味が欲しい、と思った。
(……)
——徴は見付からない。
いつまで天を見つめていても。
ミケシュは、何もかもあきらめた気分になって肩を落とした。
彼は馬を降りた。馬の息はまだ荒い。轡をとってミケシュは馬の喉をさすった。
「お前、躯が熱いな」
野原に木霊する鳥の囀りと混じって、どこからか、せせらぎの音が聴こえていた。
近くに小さな小川があるようだ。
「行ってみようか?」
もう少しだけ風に涼ませてから、馬を引いて歩き出した。
馬は時々ミケシュの首にじゃれついた。応戦して栗毛のたてがみや鼻面に手を伸ばすうち、ミケシュは次第に、手足のすみずみまで自由がひろがるのを感じた。風が全身を洗うように吹き抜けていく。くるぶしの辺りまで茂った草を踏みつぶす感触が、たまらなく心地よかった。
森に近づくにつれ、音はやがてはっきりとしてくる。
薄暗い中に幾筋も木漏れ日が射す森は異界を思わせる。ミケシュは乾いた平らな土と、樹々の間隔の広いのを見て、そのまま馬を連れて森の中へ踏み入った。
空気が変わった。
森に馴染みがないわけではない。宮城の後背には狩猟用の森がある。〈主族〉と〈宮族〉のために手入れされた森にも、充分に清々しい野性の香りは残っていて、つかのまミケシュの鬱屈を散じさせるくらいの効用があった。おそらく今日の行動の遠因も、その経験にあるのだろう。しかし。——この森は違う。
ざっ、と足元の土を鳴らしてミケシュは辺りを見廻した。もちろん植生にも若干の違いはある、が、いま強く感じられるのはもっと、言葉にできないような何か……。
ふと、ミケシュの目の端を掠めるものがあった。
(光芒虫?)
……珍しい。
確かに今、見えた。
独特の黄色い翅が、少し先の木立の間をひらひらとすり抜けて消えたのを見た。
光芒虫。
〈宮族〉の紋に織られる象徴であり、神事にもその糸が用いられる神聖な生き物を、宮城の一角で特別に飼われているもの以外に目にするのは初めてだ。
野性の光芒虫など聞いたことがない。
やはり何かがおかしい、と、ミケシュは思った。
辺りの空気だけではなく、身の内から来る異変にも彼は気付いた。
動悸がしている。
気づくと、体の芯から震えるような緊張が広がりだして、ややもすると立っていられなくなりそうだった。
膝に力を入れ、光芒虫の消えた方角を追った。
一歩一歩と、水音が高くなっていく。
目の前に清流が現われる。
「——君は」
小川の向こう岸に人がいた。
ぽっかりと空いた、降り注ぐ陽のまぶしい空間だった。
一本の大樹が堂々と聳えていた。
その根元に、——一人の女が座っていた。
女はミケシュを見ていた。
驚くでもなく、挑むような眼差しをして。
その目の強さが尋常ではなく、ミケシュは言葉を失う。
ゆがみのないまっすぐな顔立ち。長く艶やかな黒髪。媚びることを知らない獣のような……美しい瞳。その瞳。その——。
娘はふいとミケシュから視線を外すと、かたわらに伏せてあった編み機を手にして立ち上がり、そのまま大樹の向こうに去ろうとした。
ミケシュはその光景を否定する。
戸惑いではなく非難が、心を占領した。
(どうして——)
まるで脈絡のない苛立ちが、内側から胸を引っ掻く。
「っ」
呼び止めることを望むのに、体が声を出さない。
娘は振り返ることもなく森の奥に消えた。
ミケシュは一つ呼吸をして我に返る。
「——」
いつのまにか日は暮れかけ、自由な時が残り少ないことを報せていた。
従者の気付かぬうちに戻らねば無駄な騒ぎが起こる。
よぎる現実はなおのこと、この場所を幻想に思わせる。
ミケシュは首を振った。
「帰ろう」
川辺の草を食む栗毛に声をやる。
あぶみに足をかけた。
体が重い。
馬首を返しぎわ、ミケシュはもう一度、娘の消えた森の奥を見た。
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