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楽園追放  作者: 石川零
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五 滅びの歌の森で

「イシュ様」

 遅い昼食を伯爵と共にしたイシニエムが、歴史の息吹に満ちた森の散策を勧められて庭へ出たところで、エシィル嬢に朗らかな声で呼ばれた。

 日傘をさしたエシィルは侍女を従え、カルヴァン公爵と並んで前庭を歩いているところだった。

「森へいらっしゃいますの? わたくしたちもこれからお散歩に参りますところでしたの。ご一緒しません?」

「よろしいのですか?」

「ええ、どうぞ?」

「私たちでご案内しましょう」

 瞳をなくすように微笑んでカルヴァン公爵が口を添えた。

「では」

 邸宅の敷地と森との境は曖昧である。一行は、東から前庭に迫る樅の林へと向かった。

「朝の太陽のほうへずっと進むとせせらぎがありましてね、それよりこちらは伯爵の庭、それより向こうは自然の領域、となっているんですよ」

 もちろん、人間の地図においてはカーミィアル一帯が伯爵の領地なのだったけれど。

「野生動物も数多く棲むのでしょうね」

「広大な森ですからね。東側に別荘地を切り拓いて飾り立てても、人工と自然との両極端というか、まだこの森の深部には未踏な部分が残ってもいる。そこから鹿や狐が神出鬼没に出てくるので、別荘地の住人は、避暑と狩猟目的とが半々ですね。ダシェーキ君は実に射撃が得意ですよ」

「あの方はいつも銃やナイフを見せびらかして歩いて、野蛮な感じがいたしますわ」

 木陰に入って閉じた日傘を、すかさず手を差し伸べた侍女に渡しながらエシィルが硬い声で言った。

「わたくしがああいったおもちゃを怖がっていると勘違いをして嘲笑さえするのですわ。冗談ではないわ」

 けさ見た光景でシクムが使った脅しはそれか、とイシニエムは密かに納得した。

「しかし逆さまに言えば、頼もしいことだよ。彼となら多少、森の奥深くに迷い込んでも安心だ」

「南大陸の猛獣と檻の中で過ごすほうがまだ名誉を守れますわ」

 柔らかな絨毯のような土を踏み、四人はまだらの日溜まりを渡り歩いた。

 かまびすしく鳥が鳴くと思えば頭上の枝にヒバリの巣がかかっていたり、野ネズミの巣穴が根のあいだに覗いていたり、見るべきものや話題には事欠かない。

 やがて、せせらぎの清らな音色を捉えた。

「この小さな流れを遡ると、ちょっとした草地に出ます。地元の人間が、《寄らずの間》と呼んでいる場所です」

「イシュ様にとって興味がおありなお話じゃないかしら」

「僕ですか?」

「お父様はどうせ後から出来た与太話だとおっしゃるのですけれどね、村に言い伝えとして残るお話だそうですわ。猟や、木の実の収穫に森へ入った村人が、休み処にちょうどよい草地を見つけたとしても、けして足を踏み入ってはいけない、近づいてもいけない。乾いた緑の草地の心地よさにうっかり誘われてうたた寝でもしようものなら、終わりの歌を聴いてしまう——そういうお話」

「終わりの歌」

「ええ、たいそう不吉な哀しい歌が聴こえるそうですわ。何でもそれは、リトゥを滅びへ導いた魔女の歌なのだとか」

 イシニエムは目を細めて頷き、なるほどそれは民間伝承の類いでしょうね、と返した。

「リトゥ崩壊の謎について、ああだこうだと説明してみせようとする噂や言い伝えは多いです。魔女の歌というのは初めて聞きましたが。魔女はカル・イベカの概念ですから、どうやら途中の歴史が混ざっているようですね」

 リトゥは国を乱した原始カル・イベカ教徒を狩ったと言われるが、カル・イベカもまた、あとの歴史において異端者を弾圧し、火刑の山を築いた。五百年ほど前の定義で言えば、魔女とはカル・イベカの神を異教の呪術で冒涜する者のことだ。

「歌を聴いてしまうとどうなる、という続きもあるんですか」

「楽園を追い出される」

 答えたのはカルヴァン公爵。

「あら知らないわ、わたくし」

 イシニエムは昨日の公爵の謎めかした話を思い出し、彼の顔を窺う。

 森の奥を見つめていた公爵は、イシニエムへ振り向いて柔らかく笑った。その眼差しにイシニエムは憧れを見る。

「リトゥは楽園でしょう。天上から遣わされた一組の男女が、国を治めたというのですから。それだけでお伽話のようではありませんか」

「魔女の歌は嫉妬の歌だと?」

「そうかもしれませんね」

 笑みに隠しながら、遥かな過去を語りながら、公爵の声音には奇妙な芯があった。確信のような何かが。

「僕よりも公爵のほうがリトゥを身近にご存じのようですね」

「いや、この自然がね。この森を歩いているといつも、古代の人間たちのことを考えます。時の隔たりを忘れさせてくれるのです。イシニエム君もすぐに大好きになるでしょう」

「本当に……」

 イシニエムは水気を含んだ森の空気を深呼吸した。「気持ちのいい自然ですね」

 公爵に導かれてイシニエムはせせらぎの水辺へ立ち、一跨ぎで渡れるほどの流れに顔を映した。

 澄んだ清水を口に含むと、冷たく甘い。

 イシニエムと入れ替わり、エシィルが散策で乾いた喉を潤した。

 散策用ドレスの裾を持って気遣う侍女をエシィルは振り返る。

「ネフュ、あなたも」

 場所を譲られて遠慮がちに水辺へ屈んだ侍女が、小川に手を浸す。

 ふい、と隣を離れた公爵の気配に、イシニエムは首を向けた。何げなくそのまま目で追っていると、公爵はせせらぎの下流で膝を折った。流れの中に指を沈める。

 どうということはない風景に、何故か興味を惹かれた。

 そして何故か、見ていることに背徳を感じた。目をそらしたイシニエムは真正面に、眉間をわずかにひそめたエシィルの横顔とぶつかった。

 ネフュという名の侍女が公爵のほうに会釈することもなくそばに戻ってくると、エシィルは息することを思い出したように我へと返り、イシニエムに笑みかける。

「イシュ様は帝都に残してきた方がおありですか?」

「はい。父母が帝都に住んでいます」

 答えると、エシィルは瞳を見開き、ネフュと顔を見合わせて、抑えられないように声高く笑った。

「ごめん遊ばせ。わたくし、さっきの嫉妬という言葉のつづきを話しはじめたつもりでしたの。遠くはるばると旅をなさってこられるまで熱心なご研究に、嫉妬なさる方がいらっしゃらないのかしらって」

「ああ」

 単純に、その発想の回路を持たなかった。イシニエムは、恥じることもなく、意味を捉え直した。

 それは男女の発想の違いというものだ。

「そういう意味なら、ええ、いません。博士院はまあ、朴念仁、唐変木の集まりみたいなものです。僕もその一人なのだと思います」

「あら、いらっしゃらない? わたくし、てっきり思っていましたわ。イシュ様には永遠の愛を誓い合った方がいらっしゃるのじゃないかしらって」

 無邪気な声音でエシィルは訝ってみせる。

 イシニエムは何もない土の上で、歩いてもいないのにつまずきそうになった。

 突拍子もない話だ。

「は……、それは……」

 天真爛漫な女は瞳を輝かせながら話を続ける。

「あなたの瞳に宿る落ち着きが、回廊の肖像画に描かれた方たちのものとそっくりなんですもの」

「双子星、たちですか?」

 ますます突拍子もない。

「ええ、わたくし、ずっと憧れていましたのよ、幼いころから。あの方たちの眼差しに生きている永遠の愛を信じて、ずっと憧れていますの、今も」

 ふと遠い眼をして、真正面のイシニエムを見つめた。

「イシュ様の瞳はそれをすでに手にしているように見えましたの」

 イシニエムは何とか話を合わせようと頭を巡らせた。そして、旅の途中に悟った神の愛ということを思い出した。

 かい摘まんでそれを話してみたが、エシィルはちっとも納得してくれるようではなかった。

「神様との愛のほうがよくわかるとおっしゃるなら、歴史家よりも修道士になっていらっしゃるべきですわ」

「苦戦するようですね」

 噛み合わないイシニエムとエシィルを公爵がからかった。

「エシィル嬢は一途な素直さがおありの方ですからね、よほどの理屈を示してあげるのでなければ、誤解は解けないよ、イシニエム君」

「それじゃあ降参するしかありません。僕の研究熱も、理屈ではないので」

「殿方は、遺跡や遺品のような物にも、失われた国のようにかたちのないものにも愛情を捧げることがお出来になるということですわね」

「女性とて、ご自身の美を愛するでしょう。美はかたちであり、かたちのないものでもあると思います」

「まあ、いったいどういう屁理屈なんでしょう!」

 奔放に会話を散らかしたエシィルは、最後には相手を許すように鈴の音の声で笑って、イシニエムを解放した。

 ほっとしつつも、肩をすくめたイシニエムだ。

「公爵はどうして感心していらっしゃるの」

 樅の木肌に寄りかかって二人を眺める公爵は、顎にステッキの柄を当てて何やら興味深げであった。

 水を向けられて、小さく首を振る。

「いや、今のは良かったですね。なるほど、本当の愛はかたちあってかたちなく、しかも美のように表面的ではない、もっと本質のものに向けられるべきだ。つまり、かけがえのない魂を宿した肉体に」

「当たり前のことですわ」

「でもね、それがいちばん難しいことなんですよ。何故なら私たちは服を着る生き物ですからね」

 公爵はイシニエムのほうを見てにっこり言った。〈私たちは服を着る生き物だ〉それは帝国の民主議会設置運動に使われた有名な言葉だ。〈だが、ほんらい人間に知性と品性が備わっていることを表すはずの服は、時として人間が人間を色分けする道具ともなってきた〉

 政治参加に階級身分を問わない自由体制への移行を訴えた論説の一節である。

「まあ、帝国も、法律としてはそうでも、官民一体となって色眼鏡による差別を克服できたというわけでは今もってありません。人は偏見という境界をなかなか越えようとはしないものですね」

 イシニエムは真面目に答えた。それ以外、どう答えればよかったのか。

 独特の雰囲気に生きる青年公爵の言葉は、異国人であるイシニエムには読み解ききれなかった。

 イシニエムの答えに頷いた公爵の青い瞳が、心なしか揺れた。現実を悲しむように。

「ジュハン嬢」

 話題を変えようとして、イシニエムは意趣返しのような思いつきと好奇心から言った。

「〈寄らずの間〉へ僕は行ってみたいですね。終わりの歌を聴いたところで、僕は永遠の愛などは持っていないので、失うこともありませんから」

 エシィルは面白そうに明るく笑った。

「ここから少し歩きますけれど」

「まだ陽はしばらくありますよね」

「冷えてきましたよ」

 公爵が、寄りかかる幹の向こう側を振り返りながら言った。

 森の奥を警戒するように見つめて、首を返すと少し固い顔をして意見を続けた。

「そろそろ戻ったほうがいい。ご婦人方が風邪を引くといけないので」

「わたくしももう足が疲れてしまいましたわ、実は」

「ああ、それはいけませんね」

 とイシニエムは頷く。

 来るときとは道を変えて、四人は森の辺へ戻りはじめる。

 公爵がイシニエムの隣に並んで、冗談めかすともつかない心配そうな顔で忠告をした。

「イシニエム君、駄目だよ、女性の挑発にのって蛮勇を振るった末、永遠から弾き出されるような愚をおかしては」

 前を歩くエシィルのくすくす笑いを誘ったからには、やはり冗談なのだろう。

 イシニエムは微笑んで、言った。

「いいえ、本当に。僕のリトゥという楽園は、とうの昔に滅びてしまったのですから」

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