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楽園追放  作者: 石川零
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二 ジュハン伯爵邸

 イシニエムは線路を渡って丘陵をめざした。

 高原の日差しは透き通って熱気を帯びない。けれども地表はあたたかい。

 高地の品のいい夏をもとめて貴族や富裕が避暑地をつくる、それはどこでも普遍の文化だが、帝国帝都の市民階級に育ったイシニエムにとっては、雄大な自然に足を踏み入れること自体がまれな体験だった。

 彼は旅の途の折々、巨大都市の囲いに甘んじてきた自分の未熟さをいまさら自覚したものだ。帝国内にも都市を一歩出ればないわけではない未開発や素朴を、わざわざ異国で体験する奇妙さは、学徒の彼をおおいに反省させた。

 外に出て、初めて国家を体感することができる。一つ一つ人間の共通項と差異とを収集しながら、人間たちを生かしている土地を観察しながら。

 足を使わなければ史学は完成しないのだ。すべて見聞は生きた史料だった。知識は圧倒的な現実によって目まぐるしく上書きされていった。彼は無知を知った。

 特に自然は大きく彼の世界を広げた。

 彼はさまざまな巨大を見た。

 西にある身のすくむ峡谷は、その向こう側に生きる人間に水を運ぶ血管だった。砂の茫獏に住まう者にとってそれはまこと血の一滴となりえた。かと思えば、東の田園には緑に恵まれた人々が自然芸術として楽しむ美しい瀑布があって、そこで水は圧倒的に、惰性的に、過剰に、生命に対する役割などなく流れる。古くはこの荘厳を得るため戦を仕掛けた王がいたというほどの滝は、落下の力で地を削りながらいまや海から湖へとのぼりつめようとしている。

 荒野には荒野の宗教が、瑞穂には瑞穂の宗教が生まれ育っていた。自然が、土地に生きる人間のありようを左右していた。今までイシニエムが人智の集約とみなしてきた歴史のうねりさえ、この影響を受けないものはなかった。

 大陸の半分を被う一神教が、人間の魂のみを語るものであることが世界をいっそう複雑にしている。帝国の主勢を占めるロウアン族が発祥であるトスト・カル・イベカ。イシニエムも当然に幼時の洗礼を受けているこの信仰は、ありとあらゆる事象の帰結を一つの神にしか認めなかった。

 人々の思う世界の中心に神があるという。神の創りし世界に人間は生かされているという。神と人間、二つの概念は言葉でつながれる。神の言葉を話すがゆえに人間は神の写し身なのであると。不完全な、神ならぬ魂たちなのであると。——神の言葉、すなわち魂のための道徳というものを、教会の神父は語った。神の御許をめざし、人間は生きた。神と人間中心の世界!

 だが本当に言葉だけか。人を動かすものは精神だけだろうか。

 都市を一歩出たときから、イシニエムが徐々に知っていったのは、神の実体というべき事象である。人間を人間たらしめる自然。人間を、歴史を動かす自然。

 イシニエムにとって神の存在がそれで否定されるということはなかった。

 なぜなら世界は美しいのだった。

 創造神話をむしろ路傍の石が裏付けるような感覚を、旅路に幾度となく経験してきた。

 ここはその最たるものだと彼は思った。

 確かにここが終着の場所だ——。

 丘と森林の輪郭を点描してせめぎあうような緑。

 工場排煙に汚染されていない空の透きとおった青。

(どうやら僕はずいぶんと……)

 コークスの煙たなびく帝都の空は暗い。曇天の灰色がいつしか人間の心の中まで染みいって、時代は思考をくすぶらせた陰鬱な個人を出荷する。

(……あそこで、窮屈さを感じていたんだな)

 草間に転がる岩の陰から兎が飛び出し駆けていった。森の中へ。木立の詰まった森は丘陵の両側に迫っている。杉の上に太陽が乗っていた。

 カーミィアル方面から延びてきて丘の上まで至る一本道に合流すると、轍に固められた土面を歩いた。汗ばみ始めるころ、白亜の建物の片鱗がかいま見えてきた。ジュハン伯爵の避暑邸は、他の貴族の別荘からはやや離れて森に囲まれている。避暑地として伐採開発された区域まで馬車で三十分程度とのことだが、盛夏のあいだは機嫌伺いの客が引きもきらないという。

 塀や門はなかった。左右に翼をひろげて威容を誇る御殿一つが、青空を背景にして丘の頂に建っていた。イシニエムは桁違いな間口の玄関に立って、獅子の頭を模したノッカーに手を伸ばす。

 ほどなく執事が顔と体を扉の外に出した。馬車の音を前触れとせず、身一つで太陽に晒されながら歩いてきた異国人に、執事は慇懃に身元と用件を訊いた。

 執事は帝国学生の来訪予定そのものは把握していたらしく、すぐにイシニエムを応接客間へと招じ入れた。イシニエムはほとんど初めて入る〈貴族の館〉に緊張感を隠せなかった。だがまもなく、目につく調度品の珍しさに心を奪われ、それらの文化由来を考えるうちに気後れを忘れた。確かに、ジュハン伯爵というのは根っからの学究肌であるらしかった。華美というより実用というよりも、通好みの史料価値に室内装飾の基準を置いているようだった。再びひらかれた応接客間の扉から件の執事が姿を現して、ジュハン伯爵は書斎で迎えるという旨を告げた。


 伯爵の書斎はすべての窓のカーテンが、半分ずつ閉じられていた。壁面を埋める書棚の背表紙を日焼けから守るためかもしれないし、あるいは伯爵の思考そのものを——。

 長方形の部屋の中央に置かれた大きな机に、壮年の紳士が積み上げた書と書類に埋まるようにして座っている。道楽学者というよりはどこか神経質そうな目元と口元が上級官吏職を思わせる、ジュハン伯爵は貫禄に欠けた冴えない風采の人物だった。だが口をひらけば意外性を見せそうに思える雰囲気もあった。

「帝国博士院上級学生のイシニエム君ですね、遠路はるばるようこそ、このような田舎国家のそのまた田舎までよくおいでになってくださいました」

 立ち上がってイシニエムに椅子を勧め、イシニエムが机の前までいって握手を交わすと、伯爵は先に腰を下ろした。

「道中支障はありませんでしたか」

 眼鏡をひっ掛けていた鼻から外しながら伯爵が訊ねた。イシニエムは椅子の肘に触りながら腰を下ろし、背筋を伸ばす。

「お蔭さまで、快適な旅でした。伯爵には今回わたくしの勝手なお願いをお聞き届けてくださり、こうした機会をいただけましたことに大変感謝しています」

「いいや、私としては自分の蒐集癖がどなたかのお役に立つというのであればこれほど望外な喜びもないわけで。帝国博士院の学生さんとなればこれ以上の名誉もありません。どうぞ何なりとお手伝いさせていただきたい」

「かさねがさね有難うございます」

 イシニエムは慎重に言った。

 相手はこのフェンデェアル国の名門貴族だ。帝国内でイシニエムは貴族の知り合いなど一人もいなかった。帝国において帝室や貴族とは、かたがたに代わって市民議会が政治権を与えられて久しい今となってもイシニエムにとって雲の上の存在だ。

 だが、大陸でいちはやく工業化を成し遂げ、覇権国家としてますます威勢をあげる大帝国の準官僚であるイシニエムと、辺境の中堅国家フェンデェアル王国の無官貴族とでは、こうした対等なやりとりが妥当とされるのかもしれなかった。

「昨日お着きになったという執事の話でしたが、お泊りはどちらです」

 イシニエムは終着駅の町の名と宿を答えた。

「それならすぐに人をやって荷物を取りに行かせましょう。屋敷にご滞在ください。書庫、資料庫、歴史画の回廊、ご自由にご研究なさるとよろしい。もし差し支えなければ毎朝八時に書斎へいらして、私の田舎研究など笑納いただければ。いや、価値のあるものかどうかは保証の限りではないのですがね——リトゥを帝国正史に関連づけて取り上げようというのは、編史庁から出た方針なのですか?」

「いえ、提案したのは博士院の古代研究室です。異教、しかも今では誰も信仰者のいない幻の異教によって成り立っていたリトゥは、帝国の史学会からは長らく無視に等しい扱いをされてきたのですが、トスト・カル・イベカ教史的に言っても萌芽期の中でとりわけ躍動感を見せる時期のことでありますし、その意味で本来とても帝国に関わりの深い歴史だという意見が再三出されていました。今度その重要性を編史庁が認めたことは、帝国の史学を間違いなく発展させる判断だと思います」

 伯爵はあごを撫でながら柔らかく声を出して笑った。

 親しげに。

「あなたが、リトゥを発見してくださったのですな」

 イシニエムは目をひらいたが、何も言わず伯爵の次の言葉を待った。

 伯爵は穏やかに笑みながら頷いた。その鷹揚な物腰によって、最初の神経質な印象はとっくに拭い去られていた。

「いただいたお手紙と今のお話からすると、博士院のどなたかが元々リトゥに強く情熱を傾けておられたのでしょう。その熱心さが実られたようです。あなたにも同質の熱心さが見られるようです。二人と奇特な方がいらっしゃるとも思えませんからな」

「恐れ入りました……」

 イシニエムは照れを隠せず微笑して、伯爵の目を見つめながら頷いた。「リトゥは魅力的な歴史の挿話です」

「いかにも。かの国の様相を伝える遺物は意外と多い。……無論ご研究が進んでいることでしょうが、リトゥは一夜にして滅びたという伝説によって幻のように語られがちな国ですが、実際には相応の年月をかけて衰退していったことが当時の書簡や記録からわかっていますな。だがその原因についてはやはり謎が多く、それまでの永き平穏なる繁栄に比して崩壊が急であることには変わりがない。史学的にはトスト・カル・イベカの勃興に原因を求めることが定説ではあったが、周辺の小国も状況は同じだった。我がフェンデェアル国などはのちのちカル・イベカに改宗して生き残り、時流に乗っていったのは確かにそうだが、リトゥが独自の信仰をアイデンティティのように持っていたにしろ、あの当時まだ帝国の脅威があったわけでもない……」

 イシニエムは頷いた。

「その謎こそが幻なのですね」

「そう、そう」

 伯爵は満足げににこにこした。

「一人旅はたまにいいものですが賑やかさと温かみには欠けるでしょう。イシニエム君、どうぞ私のほかの客人にご紹介しましょう。庭で茶会をやっています」

 はるばる遠くから研究の友の来たことを心底喜ぶように手を揉むと、伯爵は自らイシニエムを招いて立ち上がった。

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