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楽園追放  作者: 石川零
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一 鄙びた宿屋にて

 誰かのささやきを聞いたような気がしてイシニエムは目を覚ました。部屋には誰もいなかった。昨夜最終の汽車でこの町に着いて、その足で借りた宿の部屋だ。荷も解かないままに眠ってしまったのだ。ばねの利いた寝台から出て硝子窓を開ける。鎧戸をひらき下を眺めると、左方すぐ近くに広場があって、明けきらない朝の薄闇のなかに露店の店開きをはじめようとする人たちが見えた。

「市か……まだそんな時間か」

 清しい空気で胸を満たす。もういちど眠る気にはならなかった。

 イシニエムは机に向かって少し書き物をした。

 彼の母国からこの国まではとても長い旅だった。汽車で、馬車で、いくつもの道と街と田園を抜けた。博士院課程を出たばかりの歴史学者である彼にとって、行く先々での経験はすべてが興味深いものであり、それらはまた、彼の胸に秘められた新奇の歴史観にも、重要な裏づけを与えていった。たった一日二日の観光程度で過ぎるには忍びない地域も多かったが、目ざす地にはそれ以上の発見が待っていることを彼は知っていた。夢の奥の奥へと故意に埋没させるほど憧れつづけたもの——。彼は宝物をその手で掘り返さなければならなかった。

 道中の雑感をつれづれに書きつけ終えてペンを休めながら、イシニエムは頬杖をつき、ふと考え込む。

 この土地に、ついに到着して感慨を新たにしてみれば今度は、自分にこんなにも鮮明な憧れを根付かせた原因を思い出すことができない。何故だろう? この地の名前を、この地の歴史を、初めて目にしたのはいつだったか、どこだったか。はっきりと思い出せない。初めて母の顔を見上げた日のことを思い出せないのと同じように。

 出立前、イシニエムの恩師は同様の経験を語ってくれた。恩師が特に得意にしていた言葉を無意識に紙片へと写しながら、イシニエムは同時に声にも出していた。

「外から見よ。内なるものこそ」

 窓越しの広場に市場の喧騒が消えたころ、身支度をして階下に下りてみた。

 食堂は人波の引いたあとで閑散としていたが、終いの札はまだ出ていなかったので、厨房と向き合うカウンターに座った。

 皿の水滴を拭きながら快く注文を取る男はこの宿の主人である。

 小太りで赤ら顔の陽気な主人は昨夜の記帳のときから何かとイシニエムに話しかけてくるのだが、ようは帝国人が珍しいのだらしい。それを自分でも盛んに言うのでむしろ嫌味がない。

 問われるまま、母国である帝国のことを話すと、主人はたいそう大げさな相槌を打ちながら喜んだ。

「帝国の方とお話しするのはあたしゃ、初めてですよ。まぁこの辺は見てのとおりの田舎町ですからね。避暑の貴族さまたちはカーミィアルの街が贔屓だしね」

「そういえば、こちらの近くは有名な避暑地だそうですね」

「ええ、気候が良いんでさぁ。何十年かまえの流行りで、周辺からも王都からも、お偉いさんたちがこぞって別荘を建てたんですよね」

 黒麦パンと卵料理、三種類の燻製肉が盛られた大皿を主人から受け取りながら、乗り継ぎのカーミィアル駅でずいぶん沢山の貴人の荷物を見かけましたよ、とイシニエムは言った。

「そう、それですよ。これからがちょうど盛況な季節ですからねぇ」

 「あたしらには関係ありませんけどね」と笑ったあとで、「もっとも」主人は小声で続けた。

「お零れがないわけでもないんです。このとおり、あたしのとこは一年のうち半分以上がただの食堂兼酒場ですけどね、夏場は貴族の真似をしようって連中がこの町にも流れてくるんですよ。まぁ夏以外でもご領主さまのところに売り込みに来る骨董の商人さんなんかが泊まってくれたりしますけど」

 なるほど、とイシニエムは頷いた。

 そうしてイシニエムは思い出す。

「ああそう、それで、これを訊かなきゃ駄目だったんです。僕はご領主の館に行きたいんですが、この町からだとどう行けばいいのかな」

 主人は目をまんまるに見ひらいた。

「お館ですかい?」

「そう」

「お客さん、ご領主のお客人で?」

「まぁ」

 イシニエムは主人の仰天した声に肩をすくめながら、ついつい周りを振り返った。食堂には隠居風情の老人が二人、隅でパイプを吸うだけだった。

「いや、なら駅の向こうの道を一本ですけど……。なるほど、遠い国からお越しのわけだ!」

 主人の考えはわかる。イシニエムはまったく異なる文化圏からやってきた異国人であり、その身を包むのは異国の服装ではあるが、それでも一目で知識階級であることが窺われる身なりだ。だから、領主に会うのでも約束のない訪問ではないだろう……しかし外国の使節ならば王都での処務のうち、私的な客人であれば領主館への中継は地方都カーミィアルが常識。町は、確かに館への至近駅だが、こんな鄙びた宿しかない小駅なのである。

「僕は学生なんですよ。帝国の編史庁からの派遣で——」

「あーあ! それだあ!」

 イシニエムにみなまで言わせず、主人はまた大げさな相槌を打った。

 土地の領主であるジュハン伯爵は神話研究を趣味にし、骨董美術を専門に集めていることで有名だった。彼は、王都の学府とは関わることなく、その興味は各地に土着する民俗史に偏っていたが、学府が目を向けない古くちいさな神々の神話もなかなかどうして深い薀蓄を持つのだ、と、ひとかどの研究をものにしているという。

 そのコレクションも蔵書も、一から地道に蒐集して達せられた膨大さを誇る。

「まず今日中にご挨拶をと思っているんですが」

 イシニエムはかなりの回り道をしてフェンデェアル国に入ったので、正確な到着予定をジュハン伯爵は知らないはずだった。身分的な意味での自分の立場がよくわからないので、いちいち電報を打つのもためらわれた。

「それならお客さん、御身なりに、うちでアイロンをかけさせていただきましょうよ。ご立派な都会的な装いではいらっしゃるけれど、少々くたびれが見てとれますからね」

 言われて、イシニエムは自分を見下ろす。

 かろうじて上着は脱いで寝たものの、博士院の制服の下衣は皺が寄っているし、全体的にも型がくずれぎみだった。あはは、と笑ってイシニエムは主人の好意に甘えることにした。

 物と世話の足りない旅に慣れてしまって……、というよりは、学究者のイシニエムは象牙の塔の外の世界——特にこれから彼が向かってゆく先にある、社交を中心とした上流社会の常識に、頭をまだ切り替えることが出来ていなかった。

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